Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

知ろうとすること 前編


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わかるとは、苦労するということ。

知ろうとすることは、関心を持とうとすること。

愛の反対は憎しみでなく、無関心である。いうなれば、関心とは愛の一種である。

ものごとにかかわることは、いうなれば、愛のはじまり。





 

今回のエントリーは長くなるので、前編、後編に分ける。

 

『知ろうとすること』(糸井重里・早野龍五著/新潮社)を読んだ。

結論から言うと、2014年10月8日の段階で、彼らの言葉が俺の身体に一番フィットする。

 

この三年、様々な報道がなされた。右左中庸、ボーガンから、実弾、カタパルト、弩、数多の矢が両陣営三者三様入乱れて飛んだ。だが、どれも政治的な臭いが見えた。そうした臭いを放つものには理解を持てるが共感までには至らなかった。何が正しくて、何が間違っているか、データを実地に調査するジャーナリストでも原子力科学者でもない自分は、ただただ、目の前のタイムラインを流れ行く膨大なつぶやきの中から、“正しい”情報を取捨選択しようと躍起になった。

結論からいってしまえば…

すべては信仰なんだと気付いた。

(というか、前々から思ってたことだけど、はじめて文字に起こす。面倒だけど、食っていかねばならない現状に尻に火がついたから、書くだけだ。)

いずれのところから出てくるデータも、自分で巨大な精密機器を用いて調べたものではない。また、自らでその機器を用いて測定したとしても、その機器自体が改竄(かいざん)されていたらもともこもない。当然、その機械自体に改竄されたバグを見抜くスキルもない。機械が正しくとも、それを運用する機関に在籍もしていないし、そこに足を運んで入念に取材する科学記者でもない。

こっちは、ただ春休みに、のんびりビール飲みながら気仙沼の大火事を“観戦”して“楽しんでいた”野次馬の一匹に過ぎなかった。ただ、テレビの報道が非常事態モードになり、画面もキャスターが常にワイプ扱いされ、緊急速報テロップが流れまくって、いると、なんだか、命の危険を感じてくる。

結局、緊急の災害時には、自分の身も大切な人も自分で守るしかない。

テレビは、えーしー、えーしー、ぽぽぽぽーん、一色で、身の危険を感じた俺は、手元にたまたまあって、適当に理解していた原子力に関してのニュートン、小学生にも理解できるように作られているニュートンを一生懸命読むしかなかった。しかも、隅から隅までまんべんなく理解するには、けっこう大変で、小学生レベルとなめていた自分に取っては、かなり格闘した。めんどくさがりな俺にとっては、いちもじいちもじづつの精読はかなり億劫だった。

精読している間も、タイムラインの津波は怒濤に押し寄せてくる。東京から逃げろ。枝野の家族はみんな西に逃げた。東日本壊滅。日本オワタ\(^o^)/…etc

俺は、俺で、ビビりながらも、ニュートンの精読に努めた。やることがそれしかなかったからかもしれない。やったことといえば、みなが食料品を買い占めようとする中、余裕ぶって、ビール一缶とアイスクリーム一個を買ったぐらいだ。ひねくれもの遺伝子が発動した瞬間だった。それと、トイレットペーパーがなくなったのにも、驚いた。

震災になると、人はうんこの排出量が増えるのだと、確信した瞬間だった。

しっかりとした統計を期待したいものだ。

流言蜚語、229事件、関東大震災、第二次世界対戦、阪神淡路大震災、災害時には、いつもデマが飛び、恐怖しパニックに陥ったものたちは“声の大きい”ものたちに先導される。安心の名の下に恐怖が実行された例は枚挙に遑がないだろう。人間なんて、そんなものが。おれだって、きっといつでもイェルサレムのアイヒマンになる準備はできている。ただ、自覚しているのとしていないのでは、ひとつ大きな違いがある。

ガス室に同胞を送るのならば、イェルサレムのアイヒマンであると自覚して、仲間をガス室に送りたい。

(長いな。知ろうとすること』(糸井重里・早野龍五著/新潮社)の本論は後編で紹介する。だが、後編に行く前にやはり、しておかねばならない、前置きがあるのだ。これをせずしては、やっぱり自分は進めないし、シェアしてからでなければ虫の居所?というか、居心地が悪いのだ。以下もう少し続きます。)

こんな膨大な説や、論、考え、提案、煽動、なだめ、すかし、が飛び交う中で、結局、俺に突きつけられているのは、どれを信じるのかという“信仰”の問題だった。世界にはたくさんの宗教がある。尊い教えがある。

宗教の定義に関しては、ここでは、日常生活を送る上での幸せなtips集まとめ、的な立ち位置で考える。

そのどれを信じるか、現世利益を追求する教えもある。来世での救済を願い、現世では禁欲的に生きる教えもある。水晶や壷を買えば商売繁盛、家内安全を保証してくれるものもある。どれを信じるかは個人の自由。信教の自由が保障されているから、公共の福祉に反しない限りは誰が何を信仰したって俺は、かまやしない。普段の日常では、会社の経営者やフリーランスでもない限り、重大な決断に迫られることはないのだが、今回は違う。自分で決断しなければならないのだ。この流言蜚語の津波の中で、掴みものを選ばなければ習い。頑強な取手も掴んでみたら藁かもしれない。か細い葦は、実はタングステン製かもしれない、だが、そのタングステンからは高い放射線が出ているかもしれない。

そう、すべては信仰、なにを信じるかは自分次第なのだ。

とはいえ、基本的に、当時の俺も、今の俺も、発狂して、パニックになって、恐怖を煽る情報は眉唾して疑ってかかる。とりあえず、当時、今の俺もそうだが、俺が信じたのは、科学という宗教だった。科学とは現代において最強の宗教だ。(定義は先に示した通り。)もし俺が病気になったら、水晶や壷を買うよりも医者にいく。万が一、身近な大切な人が不治の病にかかったとしてもますは、病院に連れて行く。もしかしたら、おれはイェルサレムのアイヒマンだから、最後に水晶か壷を買うかもしれない。だが、買うにしたって、科学教徒の意地を見せ、必ず治るという言質を相手から取って、損害賠償請求できる準備をしておく。宗教とは、世界の見方だ。科学も仏教も神道も、世界把握の方法のひとつに過ぎない。俺は、都合のいいように、みずからの現世利益に応じて宗教を使い分ける。儲かれば、特定の宗教を使うし。儲からなかったり、辛ければ特定の宗教から離れるだろう。

受験や社畜教、拝金教は今日び、科学に並ぶ最強の宗教で、かくいう俺もそのいずれの宗派に属している。いうなれば、日本教、うまいね、これ、楽なステレオタイプだw。

そんな喧々諤々、なにを信じりゃええねーん!なにもいわんでもええねーん!(ウルフルズ、やばい癖が出てきた。ここまで自嘲してきたのに。たとえが古いんだよなぁおれ、たとえでもないし。)といった中で、橋本麻理さんだったかのツイートから、流れてきたのが、早野龍五さんだった。

冷静に淡々とデータを示し、わからないことはわからない、わかることと、その可能性について、たんたん、たんたん、たんたんすぱぱん、ばかてんぽ(ちょっと古くて申し訳ない。)、と述べているのが、目立った。喧々諤々の中、静かにお茶を点てている、そんな茶人の抹茶の匂いが津波の中で芳香していた。

彼の肩書きも信じる要素だった。俺は肩書き教徒だから、肩書きにはコロリとやられてしまう。権威主義教徒だから、自分の尊敬する多くの人々が早野先生推しだから、すぐに“信仰”した。

この人、及び、その界隈のクラスターはみな、

氷のような情熱を

もって議論していて、結局、身体的に心地よかった、というのが大きな理由だ。結局、身体的に気持ちいい宗教は最強で、かくいう理性的な俺も、最後は直感で信仰対象を選んでしまった。というか、当時は知らなかったが、そもそもで直感も無意識も極めて正しいことが脳神経科学で判明して、なるほど!って思ったのは、また今度。

…長い前置きもここまでで、ではでは、次のエントリーで『知ろうとすること』(糸井重里・早野龍五著/新潮社)を紹介していきます。

 

一ノ瀬健太

まとめになってない超まとめ
①災害時、自分の身(+大切な人)は自分で守るしかない。
②自分はいつでもイェルサレムのアイヒマンになりうると想定せよ
③科学は現代の最強宗教
④どんな時にも、氷のような情熱を、太庸吉おすすめことば。




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