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クラリス・クライシス ~なぜ日本でロリコン文化が花開いたのか~

〜なぜ日本でロリコン文化が花開いたのか〜

〜なぜ日本でロリコン文化が花開いたのか〜

何か意見などありましたら、ぜひコメント欄にいただきたく思います。建設的な議論ができる場を共に創造したく思います。

PDF版はこちらから。参考文献ソースはこちらから。

ロリコンを正当化したったンゴwwwを修士論文用に絶賛執筆中!(←面白おかしい研究はこちら)

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クラリス・クライシス
~なぜ日本でロリコン文化が花開いたのか~

目次

 凡例 8

 

 序 11

 第1章 ロリコン文化の現在  13 

    1-1 ロリコン文化

         1-1-1 ロリコン

         1-1-2 文化

         1-1-3 ロリコン文化

    1-2 擬似ロリコン

              1-2-1-1 プレおたく世代

              1-2-1-2 おたく(オタク第一世代)

              1-2-1-3 オタク(オタク第二世代)

              1-2-1-4 ヲタク(オタク第三世代)

              1-2-1-5 ヲタ (オタク第四世代)

         1-2-2 小児性愛者 

         1-2-3 小児性愛犯罪者 

         1-2-4 小児性犯罪者予備軍 

    1-3 萌え

         1-3-1 萌えの誕生と普及

              1-3-1-1 それぞれの萌え

              1-3-1-2 萌えの共通項

              1-3-1-3 萌えと性

         1-3-2 フェティシズム 

         1-3-3 データベース

    1-4 まとめ

    1-5 共創の場への提言

第2章 ロリコンの誕生と歴史  31

    2-1 ロリータ・コンプレックス

    2-2 ロリコンの誕生

                       2-2-1 ロリコンという略語の誕生

         2-2-2 ロリコンという概念

                             2-2-2-1 少女写真集ブーム

                             2-2-2-2 アニメブーム

               2-2-2-3 ロリコンブーム

                    2-2-2-3-1 プレ「萌え」

                    2-2-2-3-2 幼い印象を与える類似的表象

                    2-2-2-3-3 ロリコンブームのきっかけ

                    2-2-2-3-4 カミングアウト

                    2-2-2-3-5 デフォルメ・エロティシズムⅡ

                             2-2-2-4 二次元コンプレックス

                             2-2-2-5 同人誌

    2-3 まとめ

 第3章 ロリコンと現代社会  40

    3-1 オタク

         3-1-1 おたくの誕生

         3-1-2 核家族化

         3-1-3 消費社会

         3-1-4 所与性

               3-1-4-1 幼少期の馴れ

                    3-1-4-1-1 テレビ

                    3-1-4-1-2 慣れ

                    3-1-4-1-3 メディアミックス

               3-1-4-2 大人向け

                    3-1-4-2-1 劇画

                    3-1-4-2-2 大学生

                    3-1-4-2-3 複雑選好性

                    3-1-4-2-4 文化の中間領域

         3-1-5 趣味・娯楽

         3-1-6 ビジネス

    3-2 身体の変化

         3-2-1 平均寿命の上昇

         3-2-2 思春期迎年齢の低下

         3-2-3 童顔選好性

    3-3 精神の変化

         3-3-1 アメリカン・コンプレックス

         3-3-2 抑圧社会

         3-3-3 禁忌の侵犯

         3-3-4 女児化する世界

               3-3-4-1 少女趣味

               3-3-4-2 大きいおともだち

               3-3-4-3 男の娘

    3-4 まとめ

第4章 ロリコン文化を許容する伝統的風土  62

    4-1 もののあはれ

    4-2 かわいい    

    4-3 丸・柔・華奢

    4-4 アニミズム

    4-5 をかし

    4-6 粋

            4-7 間

    4-8 男社会

    4-9 良好な治安

    4-10 妹背

    4-11 まとめ

 第5章 ロリコン記号  72

    5-1 マンガ

         5-1-1 日本語

         5-1-2 輪郭線

         5-1-3 遺伝的認知機構

    5-2 手塚治虫

         5-2-1 デフォルメ・エロティシズムⅠ

         5-2-2 ゲノムキング

         5-2-3 セル画肌

    5-3 神経美学

         5-3-1 鍵刺激

         5-3-2 超正常刺激

         5-3-3 幼形保有美的理想

         5-3-4 性的鍵刺激

    5-4 メディア・テクノロジー

         5-4-1 ビデオゲーム

         5-4-2 デジタルペイントツール

         5-4-3 投稿サイト

         5-4-4 ロリコン・エコロジー

    5-5 まとめ

 結  89

 謝辞  91

 参考文献  92

 英訳

 

 目次(Index) 105

 序(Preface) 108

 要旨(Summary) 111

凡例

・原則として諸符号の転記は慣例に従う。()(かっこ)、「」(かぎかっこ)、『』(二重かぎかっこ)は以下の規則に従うが、それ以外においても文意を明瞭にする際に必要とあれば修飾のために適宜柔軟に必要に応じて用いる。

・引用に関しては「」(かぎかっこ)で括り、その「」(かぎかっこ)内の終わりに()(かっこ)を付し、()(かっこ)内にて、その先行研究の典拠を記す。先行研究の典拠を示す場合()(かっこ)内は基本的にその著者の姓のみとし、著者がふたり以上いる場合には五十音順またはアルファベット順の並び順で早い方のふたりの姓を記す。引用箇所は単頁の場合にはp.、複数にわたる場合にはpp.を記載し、その後に頁番号を付す。参照典拠がふたつ以上、ある場合は上記に基づき引用をしたのち、その後に、(読点)を挿入し、また上記と同様に引用する。また著作全体が引用となる場合には()(かっこ)内には著者の姓のみを記し、頁は付さない。また著者の先行研究が複数ある場合には参考文献一覧にa,b,c…とアルファベットを付す。辞書の定義や長い引用の際には、段落をあけ、さらにインデントを一字下げることで明瞭に引用とわかる措置をとる。『』(二重かぎかっこ)は主に作品、書籍の名前を記す際に用いる。

・参考文献に関しては、著者または編集者の氏名、『』(二重かぎかっこ)内に作品の題目ならびに副題または辞書の用語等、出版社、発行年の順に記す。著者が複数ある場合には複数記し、訳者がある場合には訳者を著者の後に記す。

・参考文献は和文献、欧文献、ウェブ文献に分けて記載する。和文献に関しては五十音順、欧文献に関してはアルファベット順であり、同一の筆者の先行研究が複数ある場合には出版年で並べ記載した。ウェブ文献に関してはウェブ文献内にて和文献、欧文献で分類し、アメリカ合衆国の非営利団体であるインターネット・アーカイブ(https://archive.org/)が運営するインターネット図書館システム「Wayback Machine」にその典拠を記載しログをとった。これによりウェブ文献が持つ不確定性はインターネット・アーカイブが公的に信頼に足る機関である限り担保される。また「Wayback Machine」に取り込めログが取れたものはそのログを取った日付、ならびに取り込めなかったtogettherなどの商用情報キュレーションサイトはそのURIを記し、参考にした日付を記した。

・参考文献にWikipediaを記載したが、ママ引用はせず、参照、参考までにとどめた。そのため参考文献に記載する必要はなかったかもしれないが、それを編集したウィキペディアンたちに敬意と感謝の意を込め、参考文献に記す。今回の参考文献に記載した項目は比較的編集合戦が行われていない項目であり、確認のために行った書籍における一次資料との整合性も極めて高かった。なおwikipediaの正確性に関してはその正しさを示す論文が多数あるためそれを参照せよ。

・引用する際にはどのような人物から引用を行うのかを示すために人物の肩書や役職、研究領域などを人物の前に配し、以降引用する際には姓のみとした。同姓の場合にはその都度混同せぬように配慮を行う。

・本稿の目的のひとつにアカデミック・オリエンタリズムの解消という企図があるため、国際的発信の観点から要旨ならびに序文を英語に翻訳した。巻末に記載。

・本稿でしばしば用いられる「幼い印象を与える二次元美少女」という語は、幼いという意味それ自体とともに、マンガの描画コードに従って表現される際にデフォルメされた結果、顔の目鼻の位置や大きさの比率から、実年齢や設定より幼く見えるという二つの意味のいずれか、または両方を表す意味で「幼い印象を与える」という形容詞を用いる。

・本項においては日本におけるロリコン文化が誕生し隆盛を誇る妥当性に焦点を当て、論証したが、その是非については論じなかったため、フェミニズム的観点からの批判またはそれに対する擁護などの議論は割愛した。

・本稿はリチャード・ドーキンスが考案したミームという遺伝子の概念を応用した人から人にコピーされ伝わる情報モデルを用いて文化の伝統や継承について論じている。ミームに関してのより具体的な詳細は『利己的な遺伝子』を参照せよ。

 かつて新渡戸稲造は日本に咲き誇る固有の花を西欧に紹介した。岡倉天心、鈴木大拙もまた独自のパースペクティブを通じ世界に曲解が生じぬかたちでありのままの日本を提示することに成功した。以降も日本文化研究は日本国内のみならず海外においても盛んにおこなわれさまざまな切り口の日本文化が論じられている。しかし、日本文化に関する研究は源氏物語などの特定の分野を除いては、未だに研究がなされていない分野が数多く見受けられる。2000年代に入ってから日本のメディア文化を学ぼうとする各国の研究者は増加し、それに呼応するかたちで産官学がクールジャパンの名の下、安易で危うい文化振興策を推進している。しかし、秋葉原のメイド喫茶、ニコニコ動画、LINEのスタンプなどを不思議の国ニッポンの摩訶不思議な文化現象として無批判的に扱うアカデミック・オリエンタリズムの視点は今なお強い(水越、pp.285~286、東c、pp.135~160)。欧米人を驚愕させるカワイイ文化も高密度な情報社会が産み出した文化現象である。本稿は日本の高密度な情報社会がその雑居性の元で産み出す文化現象の複雑性を解きほぐし、安易なアカデミック・オリエンタリズムに抗することを企図する。高密度な情報社会がもたらす文化現象は数多あれど、今回本稿が論ずる文化現象の主題はカワイイ文化の中におけるアニメ・マンガ・ゲームといった一連のサブカルチャーにおける幼児性と性的イメージとがないまぜになったロリコン文化である。そこに焦点を絞り、その成立と普及、さらには日本におけるロリコン文化の妥当性について考察する。

 現在、ロリコンとオタク、児童性愛者と犯罪者、児童ポルノと児童虐待記録物、カワイイ、萌え、といった厳密には各々異なる概念が話者の恣意に基づいたまま混然と論じられている状況がある。孔子が「名を正せ」と語ったように、ことばの定義が乖離したまま議論や意思疎通を続ければ建設的な議論をすることはできず、必ず議論は破綻し双方にとって望ましくない結果をもたらす。オタク=ロリコン=危険な小児性愛犯罪者という短絡的な図式のステレオタイプは度重なるマスメディアの報道や日頃から接するSNSのタイムラインにおいて常態化してしまっている。昨今の海女萌えキャラ「碧志摩メグ」に関するオタフォビアやtwitter社の同人誌作家の事前告知なきアカウントの凍結、また日本の文化的風土に無理解な海外からの数多の批判(McCurry、Fletcher)など、統計と科学に基づかぬ感情の水掛け論が頻繁に繰り返されている。本稿がそうした罵詈雑言の応酬、相手方との議論の余地のない封殺などの対立の構図を解きほぐし双方の納得する新たな展開に付与する効果をもてれば幸いである。なお本稿ではロリコン文化の是非については付言しないことを明記しておく。

 ロリコン文化は日本に咲いた固有の花である。しかし、その禁忌性がゆえに見て見ぬふりをされるあはれな花である。筆者はその花の存在を広く天下に披瀝し、その存在を認知させたいと願う。何度も言うが是非は問わない。ただロリコン文化を産み出した、また産み出すに至った日本の文化的風土に徹底的に自覚的であることを望む。本稿は高密度な情報社会が生み出したロリコンという文化現象をクールジャパンなどといった危うい自画自賛の図式に則らせるというよりも、むしろ日本という過密情報社会を世界の中でもユニークなメディア現象の実験場と捉え丹念に批判的に実証・検討し得る場たることを表明する。不思議の国ニッポンがアカデミック・オリエンタリズムを乗り越え、客観的に実証・理解可能なものとなり、一般的な議論が展開されていくことを大いに期待する。同時に本稿がそうした可能性のひとつのきっかけに付与できれば幸いである。畢竟、本稿の目的は、ロリコン文化の生成過程を確認した上で、それを成り立たせる日本の社会的・文化的風土の理解の普及ならびにそれにまつわる近接概念の整理および共有にある。その上でロリコン文化にまつわる関連語の冷静で的確な使用を話者に求め、空虚で不毛なステレオタイプに走ることのない今後の建設的な議論のできる共創の議論の場の素地を形成することにある。

 本稿は、ロリコン文化を取りまく言説環境の混迷をもたらしている各近接概念を概観し、その名称・対象・関係性を整理し、その上で学際的視点からロリコン文化の成り立ちと普及の要因を明らかにする。ロリコン文化を取り巻く領域、すなわちオタク系文化、法学、統計学、心理学、生物学を越境し学際的に整理し論じている先行研究は管見の限り見受けられなかった。当然、エロ漫画研究家である永山薫の『エロマンガ・スタディーズ』やノンフィクションライターの高月靖の『ロリコン』、またオタク研究の第一人者であり精神科医の斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』などロリコン文化を成り立たせている要因や背景について冷静に考察がなされている秀逸な先行研究も多数見受けられた。同様に近年の認知科学(村上郁也、苧坂直行)、進化心理学ならびにビッグデータを用いた統計的観点からの性を主題とする考察も多数なされているが(オーガス&ガタム)、それらを包括して俯瞰し、ことロリコンに焦点を当て進化心理学や生物学、統計学といった分野を越境して学際的に概観する総覧的な研究は今のところない。そのためロリコン文化を成り立たせている要因を総覧的に一括してひとつの論に集約し整理する必要性があると考え本稿を記す。

 本稿はロリコン文化を学際的に総覧的に考察するという意味で先駆的意味を有し、ロリコン文化が日本においてある程度の必然性をもって成立した文化であることを示すと同時に、それだけにとどまらず、その学際的考察から幼い印象を与える二次元美少女という表象が主に思春期以降の男性にとって巧みに設計された超正常刺激の集合体キメラであることを示し、その欲望が励起される妥当性を論証した。

 新渡戸から時代を経て、現代の日本に花開いたロリコン文化、その桜花を育むにいたった我らがメンタリティーを日本のみならず世界に赤裸々に堂々に披瀝するものである。

 本稿の構成について述べる。第1章においては、ロリコン文化の定義とそれに関連することばの定義を行いロリコン文化を構成する各概念がそれぞれ近接概念であるにせよ、異なる概念を意味することばであることを確認する。第2章では、ロリコンということばの誕生と現在までの歴史を概観する。第1章で確認した近接概念間のことばの成り立ちを吟味し、各語の曖昧さがいかに密接に関連し生まれ使用され変容してきたのかを精査し、現在の混沌としたメディア環境を生み出すにいたった要因を考察する。第3章においてはメディア論の観点からロリコン文化を許容するにいたった社会的変化とそれに伴う身体と精神との変化から考察を行う。第4章では、なぜこと日本においてユニークなロリコン文化が生じたのかを、日本の伝統文化・社会風土の観点から考察する。第5章においては、日本の古来から続く線という造形表現が手塚治虫によりエロス化され日本社会に受容されていく過程を概観しつつ、快楽の記号表現を生物学的観点、およびメディア・テクノロジーの関係から考察する。結にて、ロリコン文化がいかにして生まれたのかを総括し、再度本稿の意義を述べ終える。

第1章 ロリコン文化の現在

1-1 ロリコン文化

 第1章では、ロリコンにまつわるさまざまなことばの定義を考察し近接概念の混同状態を解消し次章に続く議論の礎としたい。まず、ロリコン文化の定義からはじめる。ロリコン文化とは字義通りロリコンと文化が合わさった語であり、ロリコンに関する文化を意味する。精神科医の斎藤環が『メディアとペドフィリアーロリコン文化はいかに消費されたか』の中でロリコン文化ということばを用いているが、その論考は参考文献頁を含めて6頁と短く端的にまとめられているため、明確なロリコン文化の定義に紙幅を費やしてはいない。論中、ロリコン文化という単語が使われるのは5箇所ある。まず、タイトルの副題であり、続いて「ロリコン受容史で見てきたように、ロリコン文化の発生機においては、「パロディ」と「ユーモア」こそが重要な契機であった。(斎藤a、p.111)」「この一事をもって、「おたく」と「ロリコン」文化(ただし絵として描かれた虚構作品に限定するが)が無害であることを証し立てるには十分であろう。(同上)」という箇所、「宮崎が「国民作家」であるという事実に、ロリコン文化の裾野の広さとその性犯罪抑止効果を思うのは、果たして倒錯した視点であろうか。(同上)」という箇所、そして「現在のロリコン文化は、さらなる抽象化を経て、いっそうその虚構性を際立ったものにしつつある。(同上)」の計5箇所である。論稿全体および上記の記述から斎藤はロリコン文化を「絵として描かれた虚構作品」に限定しようとする態度がうかがえるわけだが、斎藤がその論考を執筆した1999年当時から現在まで15年以上もの歳月が経過しており、ロリコンにまつわる近接概念は大分変容している。ロリコンということばがマンガ・アニメ・ゲームと親和性が高いとはいえ、現実の幼い少女に対する性的な欲望にもそのことばは用いられているため本稿は今一度、斎藤の論考を参考にしながらもロリコン文化ということばを改めて定義したい。

1-1-1 ロリコン

 ロリコンとは、広辞苑によれば、以下の定義となる(新村、p.3014)。

ロリ-コン ロリータ-コンプレックスの略。

 ロリータ・コンプレックスとは、同書によれば、以下の定義となる(同上)。

ロリータ-コンプレックス(和製英語 Lolita complex)

性的対象として少女・幼女を愛すること。ナボコフの小説の女主人公の名に由来。ロリコン。

 また参考までに他の辞書であるデジタル大辞泉によれば、同語は以下の定義となる。

ロリ-コン 「ロリータコンプレックス」の略

 とあり、また同書によれば「ロリータコンプレックス」の項目は以下のように記述される。

ロリータ-コンプレックス 《〈和〉Lolita+complex 》

幼女・少女にのみ性欲を感じる異常心理。少女ロリータを愛する男を描いた、ナボコフの小説「ロリータ」による語。ロリコン。

 ちなみに、一般的な少女・幼女とも同書によれば以下のように記述される。

・しょう-じょ〔セウヂヨ〕【少女】

1 年少の女子。ふつう7歳前後から18歳前後までの、成年に達しない女子をさす。おとめ。

「多感な-時代」「文学-」

2 律令制で、17歳以上、20歳(のち21歳)以下の女子の称。

・よう-じょ〔エウヂヨ〕【幼女】

おさない女の子。

 幼女に関しては大辞泉の幼女の項目が同語反復的であり詳細が不鮮明なため、ここでは一般社会通年に基づき便宜上、幼女とは満1歳から小学校入学くらいいまでを指すことにする。

 大辞泉の定義はロリコンを異常心理という観点のみの記述にとどめている。それは誤りとまではいかずとも、今回参考にする定義としては適切ではない。と言うのも、ことばの意味は常に流動するためロリコンの意味も変わるからだ。現在では、ロリコンのさらなる略形である「ロリ」や「炉」というスラングまで現れている。幼女・少女への性的指向や恋愛感情、また広義で複雑な「萌え」という心理的側面のみならず、そうした感情を持つ者自身、およびその嗜好する表象を意味する場合もあることから大辞泉の定義はやや不十分であり、なおかつ紙幅の都合上文字数も少なく詳細な情報は割愛されている。同書によれば、ロリコンとは、18歳以下の女性にのみ、すなわち上記定義における少女・幼女に性欲を感じる異常心理であるロリータ・コンプレックスの略語と定義できる。

 ロリコン文化を定義するにあたっては辞書的定義を用いれば十分かもしれない。しかし、ここで確認しておかなければならないのは、辞書的意味が必ずしも正しいわけではないということだ。辞書は刊行されてから時間が経ち、ことばの鮮度を反映していない場合が多々ある。広辞苑と大辞泉においても厳密に見た場合、その意味も異なり、さらにはオタク研究の第一人者である斎藤がロリコン文化を論じる際に指摘する「絵として描かれた虚構作品(斎藤a)」といったニュアンスも抜け落ちている。

 さらにロリータ・コンプレックスとロリコンの関係においても単なる略語の関係だけにとどまらない。現在では、どちらのことばも社会環境の変化にともない略語の関係を保ちつつも相互に独立しやや異なった意味で共存している。携帯電話と携帯(ケータイ)が微妙に異なる概念を意味するように既にロリコンもロリータコンプレックスとは異なる意味を有し社会化している。日本語のロリコンはすでに和製英語化し、主に欧米を中心とするロリータ趣味とは意味する雰囲気も、中心となる表象形式も、文化的背景も大いに異なり、ロリコンはすでにLoliconとして当初のロリータコンプレックスとは違った意味でアメリカにも逆輸入されている(詳しくは第5章 ロリコン的記号の冒頭を参照せよ)。またロリータコンプレックスを幼女や少女に対する性的嗜好や恋愛感情のことを意味し、ロリコンをそうした感情を抱く者という使い分けもなされている。そのため、ロリコンとロリータコンプレックスということばの使用の際には十分に注意が必要である。

 

 上記の大辞泉のロリコンの定義では、幼女・少女にのみ性欲を感じる異常心理とあるため、それ以外の女性、つまり成人女性に対して性欲を感じればロリータコンプレックスではない、という帰結も導かれてしまう。そうであるならばたいていの男性が該当してしまい、ロリコンは極めて狭義の意味しか持ち得ず日本の秋葉原を中心として発展するロリコン文化を受容している大半の層が該当しなくなるだろう。

 ロリコン、ロリータ・コンプレックスということばはともに、18歳以下という年齢のみに性欲を感じるだけではなく、18歳以下のように見える姿態に対しても性欲を感じる場合にも一般的には用いられている。童顔の女性が好みの男性はロリコンと揶揄され、近年では性的欲求のみならずプラトニックな擬似恋愛感情まで射程を構える「萌え」概念の存在も考慮されなければロリコンの説明は十分とはいえないだろう。辞書的意味のロリコンと現在巷で用いられている意味でのロリコンとの乖離、そして巷で用いられているロリコンの話者の間による語の間の微妙な齟齬、そこにロリコンを取り巻くさまざまな誤解が生じる要因がある。

 現在の日本の、主に秋葉原を中心に栄える、幼い幼女・少女を思わせるコンテンツを嗜好する人々は二次元(空想)・三次元(現実)を問わず成人女性および成人女性に見える女性に対しても通常、性欲を感じる一般的な男子であり、一連のロリコン文化コンテンツの受容と消費の中心を占めている。好みや趣味の違いはあれど、幼い幼女や少女を思わせるコンテンツを嗜好する者の大半は自らの好みの女性であれば幼い・幼くないといった年齢軸、二次元(空想)・三次元(現実)といった次元軸を問わず、いずれも性的欲望の対象として両立可能である。二次元美少女ということば自体は、すでに社会化され「二次元美少女過多」の時代に突入しつつあるという指摘もあるが(吉田、p.3)、確認として本稿は二次元美少女を二次元における魅力的な少女という意味で用いる。東京大学名誉教授であり美学者の佐々木健一が「すなわち、民族によって、個人によって、美と認めるものは様々であっても、直感される見事さがある、という点はあらゆる民族、あらゆる人が認めるところである。(佐々木、p.16)」と美の普遍性を指摘しているが、この定義に基づいて美ということばを本稿では用いる。美でない二次元少女もいるが、受容者自らが選好・発見する美を有し、かつ幼い印象を与える幼女・少女を本稿では一括して美を接頭に配して美少女と呼び、明確にその虚構性を明示したい場合には二次元美少女と呼ぶ。

 なお確認として幼さという概念自体は美的質を持たないが、それが世界に表象された瞬間に美であるか否かといった価値判断が受容者に生じることを付言しておく。

 以上から、本稿で意味するロリコンとは、おそらく大半の者がそうではあるが、幼女や少女のみに性的欲望を感じる者に限定せず、成人女性に性的欲望を抱く場合であっても、幼い印象を与える三次元美少女ならびに二次元美少女間における類似的「鍵刺激」に対し性的な「萌え」を感じる者であればその適用範囲とする。そのため受容者がたとえ女性であっても男性的目線から受容が可能であるならばロリコンと定義する(斎藤c、p.86)。なお、広範で曖昧な「萌え」に関しては性的欲望と純粋な庇護欲求との間に性的濃度概念を導入することで連続的な現象に差異を設けられるよう配慮した(1-3-2-3 萌えと性を参照せよ)。なぜ上記の定義にいたったかに関しては第2章 ロリコンの誕生と歴史に譲る。ロリコンとは、基本的に成人男性の気質であり、それを有する者を意味し、セクシャリティーを内包する言葉である。以降適宜後述し確認していく。

 

1-1-2 文化

 ロリコンと同様、文化ということばも辞書的意味を吟味したのちに時勢を考慮し定義を行うわけだが、ロリコンに比べ、文化の方は辞書的意味のままで用いても問題ないと考える。文化とは、大辞泉によれば以下の定義となる。

   「ぶん‐か〔‐クワ〕【文化】

1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」

2 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。

3 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」

本稿のロリコン文化における文化とは、一般的な上記1の意味を用いて議論を進める。

1-1-3 ロリコン文化

 上記1-1-1、1-1-2から、ロリコン文化を、「二次元・三次元を問わず幼い印象を与える美少女に性的「萌え」をもたらす有形・無形を問わない文化コンテンツの総体」と定義できる。具体例としてあげれば、東京の秋葉原を中心に展開されている「萌え」を励起させるマンガ・アニメ・ゲーム・ライトノベル・アイドルなど一連のオタク系サブカルチャー・コンテンツ群を想定してかまわない。

 続章以降で詳しく言及するが、ロリコンとは、平安朝から脈々と続く「もののあはれ」と「をかし」を中心とするもろもろの日本文化のミームが戦後のマンガ・アニメ・ゲームといった一連のオタク系サブカルチャーに取り込まれていく過程で生じたことばであり、なおかつ近年にいたってはネガティブなステレオタイプをも内在してしまった概念である。そのためしばしばロリコンは「オタク」や「小児性愛者」、「小児性愛犯罪者」またはその予備軍と混同されがちである。こうした混同を相互にもたらす近接概念について、次項1-2で整理する。

1-2 擬似ロリコン

 本項目では、しばしばロリコンと混同されやすい近接概念について考察を行っていく。再度確認だが、しばしばロリコンはオタクと混同される。しかし、オタクと言っても、マンガ・アニメ・ゲームだけに限らず、特撮、フィギュア、コスプレ、同人誌、鉄道、切手、アイドル、ジャニーズ、プロレス、ラジオ、パソコンなどさまざまな幅がある(榎本)。マニア、コレクターとも似通った意味がある。オタクということば自体も「おたく」、「ヲタク」、「ヲタ」でことばも、そのことばが有するニュアンスも変わる。その一連の概念間にロリコンということばが加わればより概念間での混同を生じ、複雑になる。「おたく」の発見者で命名者でもある中森明夫は1983年の発見・命名時点で、おたくの本質をロリコンと評していることからも、おたくのはじまりからしてロリコンがおたくの主要な構成概念であったことを考慮に入れれば混乱は当然のことなのかもしれない。なお、おたく研究の第一人者斎藤環も「わが国におけるおたくの歴史とロリコン受容史は、そのかなりの部分が重なっている(斎藤a、p.110)」と指摘している。

 本項目は、しばしばロリコンと混同されがちなオタクがどのような内容を意味するのかを考察し、話者間の恣意的な混同を生じさせないようにすることおよび本稿論証の基盤となるための各語の定義を行う。

 言説においてロリコンと混同されるオタクとは第一世代の「おたく」なのか、第二世代の「オタク」なのか、それとも各世代のオタクを一貫する最大公約数的共通項なのか、ステレオタイプ的話者の混同した世代論に与せぬよう以下吟味していく。その際、下記に記す各世代において、いつの時代もその時代を彩るマンガ・ゲーム・アニメといった一連の媒体のコンテンツ中に幼い印象を与える美少女は描かれ、過去の名作は古典となった上で、同時並行的に次世代のコンテンツと共存し、同時代的受容世代と次世代のある一定の層に受容されてきたことは常に考慮しておく必要があろう。例を挙げるならば『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』などである(日本アニメーション大全、pp.572~666)。以下にあげるオタクの世代分類は諸説あるが、岡田斗司夫の『オタク学入門』、そして『オタクはすでに死んでいる』ならびに『新・オタク経済』を参考に時勢を考慮しながら分類した。また、しばしばオタクと混同されやすい「マニア」や「ひきこもり」に関しては、ロリコンと混同される場合がオタクに比べ少なく、そもそも「マニア」や「ひきこもり」はオタクという概念に括られたのちにロリコンと関連付けられるため割愛した。オタクと「マニア」の違いについては、岡田の指摘を参照せよ(村上隆、pp.164~185)。

1-2-1-1 プレおたく世代

 1950年前後の生まれであり、基本的にSFファンで50年代末の「劇画」(劇画については3-1-4-2 大人向けを参照)の登場によりマンガは大人も読むものとして認められつつあったが「アニメは子どものもの」という風潮が根強く残る社会環境の中で育った。成人後も子ども向けと言われる文化コンテンツから卒業せず趣味的にマンガ・アニメ・SFを好み、論評を行う一群を形成した。岡田はこの世代を特撮世代と命名し、オタク第1世代と定義しているが(岡田a、pp.56~57)、現在では時代も進みこの当時「おたく」は発見されていなかったことを考慮し、本稿ではプレおたく世代とする。彼らはしばしばマニアとも呼ばれ、彼らが開催したSF大会や日本漫画大会などは、その後の同人誌即売会に繋がる文化の先駆けとなった。代表される人物は、漫画評論家であり、コミックマーケット立ち上げにも尽力した米澤嘉博があげられる。興味深い点は、SFファンにロリコンが多いことが指摘されている点だ。1979年のSF大会に参加した男性のエピソードによると、イベントのため上京し、浅草のポルノショップで輸入物の少女ヌード写真を買おうと複数の店を回ったが見当たらず、店主に確認したところ、その男性と同じSF大会参加者バッジを付けた集団が買い占めていった、という出来すぎた話がある(高月、p.112)。このプレおたく世代から、「オタク」はある程度のロリコン気質を内在していたことうかがえる。

1-2-1-2 おたく(オタク第一世代)

 『新オタク経済』(原田、p70~75)によれば、オタク第一世代とは、1960年前後の生まれであり、現在(2015年)50代を中心に構成された世代である。1970年代中期から1980年代の前半にかけての青年期にアニメブームを担っていた世代である。教養主義的で選民意識が高いのがその特徴であり、岡田は『オタク学入門』にオタクの生活や思想を詳細に綴り、オタクを「日本文化の正統後継者」であると主張している。また精神科医である斎藤環はどのような人を「おたく」と呼ぶべきかに関して、以下のように指摘し、その特徴を4点列挙している(斎藤c、p33)。

 ・虚構コンテクストに親和性の高い人

 ・愛の対象を「所有」するために、虚構化という手段に訴える人

 ・二重見当識ならぬ多重見当識を生きる人

 ・虚構それ自体に性的対象を見いだすことができる人

 この世代が青年期を送った当時の主な人気アニメは『ルパン三世(第2シリーズ)』(1977~1980年放映)や『銀河鉄道999』(1978~1981年放映)、『機動戦士ガンダム』(1979~1980年放映)であり、とりわけロリコンブームの火付け役とも言われる『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年公開)もあげられる。まだアニメが子ども向けであるとされていた時代であり、「アニメの権威付けのためにSFを含めた文学や映画といったハイカルチャーよりの文化からアニメの元ネタやオマージュを探し当て、作品を批評的に読み解いたり、制作手法を研究したりして自らの言葉に権威と説得力を帯びさせようと尽力し(原田、p.74)」ていたため、専門知識が極めて豊富である。また、この世代が青年期を迎えた1980年代前半にロリコンブームが到来している。斎藤はしばしばこの世代に焦点を当て精神分析を行うが、彼によれば「おたく」は「アニメのヒロインを偶像化しつつ、日常的には代替物としての現実の女性で我慢するということではない(同上)」と指摘し、「おたく」は「欲望の見当識」をうまく切り替え運用しているという(同上)。この世代がアニメブームを迎えた頃に、それまでの趣味はあくまで趣味で秘匿し続けていくという大人の矜持としての慣習は崩れ、ロリコンのみならず趣味をカミングアウトする大人が一挙に現れたとも岡田は語っている(森永、p.36)。

1-2-1-3 オタク(オタク第二世代)

 オタク第二世代とは、1970年前後の生まれであり、現在(2015年)30代後半から40代前半を中心に構成された世代である(原田、pp.76~80)。1980年代から1990年代にかけて10代を過ごし、当時社会現象になり、今でもその人気が衰えない『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996年放映)や、「ジャパニメーション」ということばを浸透させた『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年公開)を青年期に体験した世代である。ヴィデオ・ゲーム機の性能が上がり、ゲームオタクが増加した時期と重なる。「PCエンジン」(1987年発売)、「メガドライブ」(1988年発売)、「セガサターン」(1994年発売)、「プレイステーション」(1994年発売)などで18禁または年齢指定のない美少女ゲームが多数発売された。オタク第二世代が青年期を迎えた頃の1988~1989年にかけて埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起こり、容疑者である宮崎勤の捏造されたオタク像がマスコミによって過熱報道され、オタクの身なりに気をつかわない外面的特徴や根暗で社交性に欠ける内面的特徴といった、中森明夫が「おたく」の発見時に蔑視・嘲笑したオタクのネガティブな典型的イメージが形成され社会に広く共有されるようになった。そのため、この世代はオタクであるとカミングアウトするには抵抗感を有している。

1-2-1-4 ヲタク(オタク第三世代)

 オタク第三世代とは、1980年前後の生まれであり、現在(2015年)20代後半から30代前半を中心に構成された世代である(原田、pp.80~88)。彼らは『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003年刊行、2006年アニメ化)に代表されるアニメ・マンガテイストのイラストをふんだんに使用し、「萌え」要素を前面に出した作風のライトノベル系コンテンツが活況を呈した時期に青年期を送っている。このライトノベルの想定される読者の範囲は小学生から成人までと幅広く、ロリコン文化を考える上で重要な点は、このオタク系ライトノベルの作品中において造形的に幼い印象を与える美少女が性的に描かれる挿絵が必ずといっていいほどに存在することである。当然、ライトノベルはこれ以前の「オタク」世代も読んでおり、この世代に限ったことではないが、1988年から全国規模に広まった朝の読書運動において、マンガは禁止でもライトノベルならば可能といった学校も多くその網目をぬってロリコンコンテンツが表現されたライトノベルが小中高生に拡散したと考えられる。筆者の教育実習の際の経験から言えば、ひとクラスあたり男女合わせて3分の1程度がライトノベルを受容していた。現在においてもそれを受容する小中高生は多いのではないだろうか。就学期から青年期にかけての趣味・娯楽の形成に関しては3-1-4 所与性を参照せよ。

 またオタク第三世代の特徴としては、ネットの活用と所有欲の減退があげられる。インフラとして整備されたインターネットの恩恵をもの心つく頃から受け、動画投稿サイトが登場し、合法・違法にかかわらずインターネットでさまざまな画像・動画コンテンツを前世代よりも格段に閲覧することが容易になった。より性的で、より過激なコンテンツに四六時中アクセスできるようになれば健全な男子は性的なコンテンツに興味を抱き受容し好奇心と趣味性のままに受容するだろう

 この世代はビデオデッキでもDVDでもなくインターネットを通じて閲覧するため、アニメなどの動画コンテンツに対してはネット環境が整っているところであれば、いつでもどこでも何度も閲覧可能なため、第一世代のオタクよりも集中して見ることはない。ともすればケータイを片手に片手間で見るか、もしくは2ちゃんねるなどの掲示板、twitterなどにて他者との同時閲覧を楽しむ傾向がある。情報の収集に際しては時間も金銭もかけない傾向にあり、インターネットを通じて極めて低コストで情報を収集するため、知識は集合知的辞書のWikipedia程度であり、込めるコストや熱量も圧倒的に異なり、第一世代のオタクに見受けられる教養主義はだいぶ薄れている。

 2002年から2003年の時期に大きな人気を呼んだ『機動戦士ガンダムSEED』という作品はこの世代の特徴を示す典型的な例だろう。この作品は女子の受容者を急激に増やし、オタクとなった者の多くがガンダムという壮大な作品に対する第一世代的網羅的な、深い知識から分析・嗜好を語るのではなく、特定のキャラクターや、その声をあてている声優、メカのデザインといった限定的かつ細分化した嗜好を持ち、細分化されたままにそれを語る。つまり、シリーズの歴史や旧来の教養主義的オタク的評論に縛られることなく、各自がそれぞれ自身の感じた嗜好を感じたままに「大きな物語」を喪失したまま野獣的に表明するのである。岡田もこの世代における「アニメファンの断絶」を指摘している(岡田b、pp.97~99)。

 他にもオタク第三世代が旧来のオタク世代と異なる傾向が見られる。モノを所有することよりも、イベントやライブといった体験型消費に主に金銭を使う傾向だ。なにより、オタク第三世代がこれまでのオタクと大きく異なるのが、テクノロジーの恩恵から大規模な発信力を持ったことである。2007年のボーカロイド「初音ミク」やイラスト投稿サイト「pixiv」、また動画投稿サイト「ニコニコ動画」もまた体験型消費の一形態であり、それ自身が一連の体験型消費および発信を通じた自己表現を加速させている。

1-2-1-5 ヲタ(オタク第四世代)

 オタク第四世代とは、1995年前後の生まれであり、現在(2015年)10代後半から20代前半を中心に構成された世代である(原田、p.88~109)。この世代の特徴はオタクのライト化とリア充化があげられる。この世代においてもオタク第三世代に見られる非常に浅い知識に基づいた上で細分化した嗜好を赤裸々に語る傾向は変わらない。そのため、ぬるいオタクを意味するぬるヲタやニワカなどとも呼ばれる。またリア充とは、リアルな生活が充実しているという皮肉的呼称である。このリア充ということばは非リアの対義語である。オンラインのインターネット上、オンラインゲームなどの仮想空間では充実した生活を送っている一方で、オフラインの現実の生活が充実していない状態、とりわけ現実の異性のパートナーを有していな状態を非リアという。このリア充・非リアということば自体が非常にパソコン文化ありきのオタク的スラングであり、「萌え」や「スレ」とともにオタク文化が極めて広く社会化した表れといえるだろう。このオタク第四世代は、かつてのオタクには総体として多く見られなかった高いコミュニケーション能力を持ち、人間関係係数が多いという特徴がある。第三世代から流行しだしたメイド喫茶や、近年のJKリフレ(女子高生による個室マッサージ)、JKお散歩(女子高生と手をつなぐなどして散歩ができるサービス)、また女性による耳かきサービスなどは享受する者にもある程度のコミュニケーション能力を必要とするわけだが、こうした一連のサービスの増加はオタク側のコミュニケーション能力の上昇と関係があるのかもしれない。この世代は、中森が「発見」した暗くひきこもっているような従来型のオタクとは異なる。それはあえて誇張すれば、サッカー部のレギュラーでクラスの仲間からの信頼もあつく、なおかつ彼女がいるオタクというかたちで形容される。博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダーの原田曜平はこうした新しい従来のオタクのイメージとは真逆のオタクを「秋葉原という街の変容をそのまま体現している最新型のオタク(原田、p.93)」であると語っている。

 アニメがすでに所与の存在となっていたオタク第二世代や第三世代がオタク第四世代の親となっている点もまた忘れてはならないだろう。第二・第三世代のオタク自身がアニメやゲームで育った世代であるため、マンガ・アニメ・ゲームなどのオタク文化に対して拒否感がそもそもない、または低いことが考えられる。電車の中でマンガを読むことがタブーだった時代はすでに過去の出来事である。2015年新国立美術館で開催された「ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム展」や同年、上野の森美術館で開催された「蒼樹うめ展」などのオタク系文化の展覧会が社会的権威のある美術館で開催されていることからもマンガ・アニメ・ゲームはすでに「マニアックな人の趣味」でなくなった。近年においては日常的に恒常的にオタク系文化に囲まれて育った世代が社会の大部分を占めるようになったため、かつて「不良の曲」であったビートルズが古典となったように、オタク系カルチャーの名作たちも古典化を迎えつつある。一連のオタク系文化コンテンツは表現形態のひとつとして社会化し受け入れられるようになったと考えていいだろう。

 上記各世代のオタクを概観してきたが、現在にいたる全ての世代で幼い印象を与える美少女はオタク系文化の中心にあり続けてきた(日本アニメーション大全)。そのためオタクと混同されるロリコンのイメージは、やはり第二世代が青年期を送った頃に起きた1988~89年の埼玉幼女連続殺人事件の影響が大きい。そうしたステレオタイプをともなったまま現在までオタクとロリコンはほぼ同概念として扱われてきたのも事実だ。しばしば皮肉、諧謔的に、ある種ネタとして用いられてきた経緯もあり、自虐や他者の揶揄としてのオタクにロリコンの異常心理を含意するケースも見受けられる。オタク第一世代である容疑者・宮崎勤のイメージをもとにマスコミによって捏造された「オタクは無垢な幼女・少女を性的に狙い生命に危害を及ぼす異常犯罪者である」というステレオタイプが統計上必ず断続的に起きる幼女・少女が被害者となる事件の報道を経るうちに、より誇張され偏見として社会化し、私たちの心理やことばの使用に根付いている。オタクのライト化が進展する一方で、ロリコンのイメージは論者によって、ライト化した面もあれば、ともすれば年々ヘビー化している二極的な面もあり、ロリコンのイメージは今も変容を続けている。

 とはいえ、おたくもロリコンも小児性犯罪者やペドフィリアとは厳密には異なる概念である。言葉が異なれば似たような概念であってもある程度微妙なニュアンスは異なることは先に確認した。ペドフィリアや小児性犯罪者ということばを知らない者はロリコンと形容するしかない場合もあるが、どちらも通俗的でその意味するところは話者の恣意性に大きく依拠する。以下、オタク以外のロリコンと混同されがちなことばを概観していく。

 なお混同される近接概念についてだが、主に乳幼児を性の対象とするネピオフィリアやティーンエイジャーの女性に性的な欲望を抱くニンフォフィリア、成人男性による思春期の男女に向かう性的嗜好を有するエフェボフィリアなどはロリコンと同義の部分も多分に含むが、混同という面で言及されることは極めて少ないため割愛し、ここでは主にしばしば言及される小児性愛者ならびに小児性愛犯罪者について言及する。

1-2-2 小児性愛者 

 ペドフィリアとも訳され、性別を問わず幼児・小児(一般的に13歳以下)を対象とした性愛・性的嗜好を意味する。日本の場合、主に成人男性から幼い女性に向けての嗜好で用いられ、ロリコンよりも病的・犯罪的ニュアンスを伴って使用されることが多く、対象が少女よりもさらに幼い幼女である場合をペドフィリアとして呼び分けられることもある。米国精神医学界の精神疾患の診断分類に用いられている『精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM-5)(pp.690~693)』によれば、ペドフィリアとは、Pedophilic Disorderとされ、以下の三つの基準のすべてを満たすものとされている。

A.少なくとも6か月間にわたり、思春期前の子どもまたは複数の子ども(通常13歳以下)との性行為に関する強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、または行動が反復する.

B.これらの性的衝動を実行に移したことがある.またはその性的衝動や空想のために著しい苦痛,または対人関係上の困難を引き起こしている.

C.その人は少なくとも16歳で,基準Aに該当する子どもより少なくとも5歳は年長である.

注:青年期後期の人が12~13歳の子どもと性的関係をもっている場合は含めないこと.

 また『国際疾病分類第10版(ICD-10)(pp.145~146)』にも同様の記述が見られ、思春期前の子どもにおける性嗜好障害を意味する。小児性愛者は日常生活に支障をもたらし、自分および他者に危害を加える可能性がある性的倒錯のひとつであり、『DSM-5』や『ICD-10』の診断項目を満たし、医師の判断に基づいた上で診断されるため、厳密には医師でない一般人がペドフィリアに該当していると思われる者をペドフィリアと判定することはできない。

 ペドフィリアは日本のみならず海外においてもしばしば性的な関心、嗜好を持つだけのペドフィリアと実際の児童虐待犯罪が一緒くたにされ、思春期前、思春期、それ以降の未成年に関しても区別されず使用されている。日本においては、ロリコンでも思春以前の幼女を欲望の対象とする場合、「ペド」、「ペドロリ」と形容される場合がある。

 ここで斎藤の論考を参考にロリコンとペドフィリアの違いを確認したい。ペドフィリアの嗜好する女性の年齢の射程は幼児から思春期以前までであり、実際の小児と性行為を行ってしまうような「本物」の欲望を有しているということだ。かつ性的対象に男女の別を設けていないことも異なる。一方、ロリコンの場合、その欲望の対象は女性であり、射程は幼女から少女、また年齢にかかわらず幼い印象を与える成人女性までと幅広く、二次元・三次元の別はないということを確認しておきたい。斎藤自身は、三次元については明言せず、「「ロリコン」とは仮想的な美少女への欲望を指す言葉と考えることもできる(斎藤a、p.107)」と指摘しているが、本稿では1-1-1 ロリコンにて時勢や社会状況を鑑み三次元を含むという定義を立てたためここでは三次元美少女も含ませている。

1-2-3 小児性愛犯罪者 

 小児性愛犯罪者とは、小児性愛でありかつ犯罪者ということである。念のため確認であるが、小児性愛者がたとえば万引きなどの犯罪を犯した場合にも厳密には小児性愛犯罪者である。とはいえ、ここで議論されるべきは小児性愛犯罪者の犯罪、すなわち児童虐待を意味する。小児性愛者は児童虐待を起こす可能性はあるものの、その時点では実際に罪を犯していないため犯罪者ではないが、小児性愛者が犯罪を犯せば小児性愛者かつ次項1-2-4で言及する小児性犯罪者となる。

1-2-4 小児性犯罪者

 ペドフィリアである小児性愛犯罪者と混同されがちであり、児童性虐待者とも呼ばれる。小児性犯罪者には大きく分けて2つに分類ができる。ひとつは状況的児童性虐待者である。ペドフィリアでない小児性犯罪者のことであり、本当は同等の成人と関係を結びたいのだが、自尊心が低くそれができないため子どもを標的にする退行型や、周囲を利用し暴力を振ることが目的であり、子どもがたまたま都合の良い標的として狙われることがある倫理欠如型などが挙げられる。それに対してもう一方は嗜好的児童性虐待者のことである。ペドフィリアであり、巧妙に子どもを丸め込む誘惑型や、社会的スキルの欠如のため見ず知らずの子どもか幼児を狙う内向型などが挙げられる。

 子どもへの性的虐待の犯人は医学的診断にもかかわらず一般社会、およびマスメディアから小児性愛者であると誤報道も含めてみなされがちである。小児性犯罪の一般的な犯行の動機がしばしば子どもに限定された性的興味にある場合も確かにある。しかし、家庭環境や社会における日々の悩み、成人異性との接触困難、不能など他のストレスに起因する動機も考えられ、実際には必ずしも子どもに性的な興味があるわけではないという場合もある。宮崎勤もビデオ収集オタクではあったが、児童性愛者では必ずしもなかったし、また1996年にベルギーで起きた8歳から19歳の少女6人を誘拐し、地下室に監禁し、強姦したうえで、4人を殺害したデュトゥルー事件の犯人であるデュトゥルーも鑑定の結果、児童性愛者でも同性愛者と認められなかった。そうした児童虐待犯罪者の誤報道例なども多数見受けられるため、小児性犯罪者と小児性愛者の区別には注意が必要である(園田、pp.115~120)。

1-2-5 小児性犯罪者予備軍    

 小児性犯罪者予備軍とは、1-2-4で言及した小児性犯罪者になり得る可能性を有した存在であり、しばしばオタクやロリコンがこれに該当させられる。再度確認であるが、ここでいうオタクとは切手や鉄道オタクというよりは、主に二次元・三次元を問わず幼女や少女を思わせるアニメ・マンガ・ゲーム等のコンテンツを嗜好するオタクのことである。

 ロリコンブーム時のオタクを形容する「ビョーキ」表現や、埼玉幼女連続誘拐殺人事件、またその年のコミケにて、10万人の宮崎勤がいるとマスメディアに報道されたことが積もり重なってオタクに対するイメージはネガティブなものに変容していった。1990年前後にメディアをにぎわせた宅八郎のようなオタクのイメージもステレオタイプの強化に拍車をかけたことは間違いない。奇妙で理解不能な性癖を持つオタク=ロリコンは潜在的に社会に危害を及ぼす存在として格好の「迫害」の標的とされた。視聴率的にも数字がとれるオタクという幻影(=イメジ)がマスメディアによって「捏造」され広く社会にそのイメージは共有され続けてきた(ブーアスティン)。目下、統計上はオタク=ロリコンと小児性犯罪者との間に明確な相関関係は見当たらないため、マスコミが求める典型的虚像の可能性が高く、小児性犯罪者とは性的搾取のみならず、広範な児童虐待も含まれるため、すべての人間が潜在的に小児性犯罪者になり得る可能性はある。

 1-2では擬似ロリコンを考察した。ロリコンと各世代のオタクや小児性愛者、小児性犯罪者またその予備軍の違いを確認した。次項では、ロリコンと密接に関わり、その複雑な快感情である「萌え」を考察する。

1-3 萌え 

 ロリコンを定義するにあたって「萌え」は欠かすことのできない概念である。というのも、ロリコンは性的な欲望のみならず、擬似恋愛やプラトニックラブ、庇護欲求から、はたまた禁忌の侵犯など複雑で微妙な感情を入り混じらせながら、そのことばを用いて自身の感情を吐露する場合がしばしばあるからだ。

1-3-1 萌えの誕生および普及

 本来、萌えとは、ヤ行下二段活用の動詞である「萌える(萌ゆ)」の連用形であり、草木の芽が出る(伸びる)語義を有し、その使用は万葉集にまで遡ることができる。

 現在の「萌え」、および本稿で考察する意味での「萌え」ということばが使われだしたのは、80年代末頃のパソコン通信の時代であり、異性や小動物等の愛玩的対象に対して、恋愛感情や性的欲求に近い感情が「燃え上がる」という意味のインターネットスラング「燃え燃えー」の変換遊びで発生したとされる(ササキバラ、p.20)。1993年のSFアニメ作品『恐竜惑星』のヒロイン萌を語源とする説や、1994年の『美少女戦士セーラームーン』第3期シリーズのキャラクターの土萠ほたるに語源を求める説があるが、ことばの語源は、時系列的に見てパソコン通信時代に求めることができるだろう(森川、pp.16~18)。2002年にはかわいく記号化されたキャラクターがアクセントとして描かれた萌え本が流行し、2004年には関東地区にて最大視聴率25.5%を記録した『電車男』で国民的規模でアキバ系文化に注目が注がれた。同年には「萌え」が「電車男」、「メイド・コスプレ」、「アキバ系」とともに流行語大賞にノミネートされ、「萌え」という概念が一挙に日本社会に浸透し人口に膾炙されるようになった様子がうかがえる。現在では名詞としての用法を含み、ア行下一段活用の動詞となっている。「泣く/泣ける」や「笑う/笑える」などの情動を表す動詞と同様にしばしば特定の主体や客体を明示せず曖昧なままに自立した意味として用いられている。つまり、「萌え」とは異性や小動物等の愛玩的対象に対する愛情を意味する「燃える」が、パソコン文化というオタク系文化を経由する過程で、文字変換遊びも加わり、「萌える」ということばに次第に変化し、そこに本来芽ぐむを意味する「萌ゆ」ということばのニュアンスも加り、穏やかなで静かな心からじわじわと湧き上がるような情愛がパソコン文化圏と親和性の高いオタク系文化の一連のキャラクターなどの対象に次第に込められ、用いられるようになったことばである。

1-3-2 萌えという概念

 では、「萌え」とは何であろうか。現在の「萌え」とは一般的にはサブカルチャー文化発祥のスラングであり、マンガ・アニメ・ゲームなどの媒体に登場するキャラクターへの強い好意などの感情を表すことばとして使用され、近年ではさまざまな対象に適用領域を拡大しつつある。

1-3-2-1 それぞれの萌え

 一般的な定義を踏まえつつ、オタク系文化に造詣の深い論者たちによる「萌え」の定義も参考までに概観してみよう。コラムニスト評論家の本田透によれば「萌え」とは「記号に発情する、動物化された行為(本田、pp.85~88)」であり、漫画編集者でアニメ評論家のササキバラ・ゴウによれば「キャラクター的なものに対して強い愛着を感じる」ことであり、思春期以上の人間が持つ「異性に対する感情のような色合いを帯びたものである(ササキバラ、p.20)」と語る。加えて「アイドルや歌手や芸能人(とくに異性)のファンになるようなもの(同書、p.20)」であり、その対象が人間の偶像だけではなく、「まんがやアニメなどのキャラクターにまで広がったもの(同書、p.20)」と続ける。思想家であり哲学者の東浩紀は「萌える」ことを「キャラクターを無数の萌え要素へと分解し、各要素の背後にあるデータベースを消費すること(東、pp.75~78)」であると定義している。オタク第一世代の岡田斗司夫は単に美少女に感情を掻き立てられるだけではなく、そのような状態に自らが陥ってることを客観的に観察するメタ的視点を含んだもの(岡田b、pp.100~101)と指摘する。オタク系グッズデザイナーである染谷洋平は「自分にとって都合のいい恋愛行為の代替物(MdN、p.28)」とも定義している。このほかにも「萌え」には有名無名を問わず論者の数だけさまざまな定義があり、2ちゃんねるの掲示板や情報キュレーションサイトであるNAVERまとめやtoggeterなどにおいてもプロ・アマチュアが入り乱れ日夜「萌え」をはじめロリコンの定義や議論が行なわれている。これはオタクということばと同様、時代が変わればことばの意味も変わること並びに興味関心のある領域に対する話者の語りたい欲望に起因している。加えて「萌え」には性的興奮の意味合いが込められることもある一方で、極度のヘビーな性的要素が見受けられた場合には「萌え」ではなく「エロ」であるとする論考もある(藤山)。またオタク・ライターの海猫めろんは、二次元の存在に対して、好きすぎてマスターベーションができなかった体験を語り、そのキャラクターを神と形容し、そうした感情を本当の「萌え」であると語るケースもある(コンドリー、p.308)。近年では「工場萌え」など無機物にまで「萌え」の拡散が見てとれ、オタクの拡散(榎本)と同時に対象範囲が徐々に変容・拡大しながら現在にいたり定義はいっそう困難を極める。

1-3-2-2 萌えの共通項

 しかし、「萌え」の来歴や取り巻かれているさまざまな言説を考慮した場合、「萌え」は感受者・発話者が対象に対して魅力を感じた際に発せられることは共通している。かつ「萌え」という概念がオタク系文化を発祥とし、オタクが主に嗜好するマンガ・アニメ・ゲームの二次元美少女に対する「架空のキャラクターに対する恋愛感情」を出発点としているため、「萌え」の対象は主に空想的であり、セクシャリティーを内包している点も共通して見てとることができる。本稿の目的は現在の日本においてロリコン文化が誕生し隆盛を極めている原因の探求と、冷静なロリコン文化を巡る葛藤の調停のための建設的議論の場の素地を形成することとにある。そのため、それに最も付与しかつ妥当な定義、すなわち、「萌え」とは「主にオタク系文化コンテンツにまつわる美少女に対する広範な愛情」であり、さらに敷衍すれば「オタク系文化における美少女によって励起される恋愛感情および疑似恋愛感情、または保護欲求、庇護欲求、性的興奮等のさまざまな快感情が入り混じったハイコンテキストで妙味な感情をメタに感じている質感」という定義を採用し、以下論証を続けていく。

1-3-2-3 萌えと性

 また付言して「萌え」を論じる際には、性的な要素にも常に注意を払う必要がある。詳しくは次章ロリコンの誕生と歴史で言及するが、歴史的経緯も考慮に入れた場合、ロリコンということばは、幼い少女を性的欲望の対象にすることと密接な関わりがある。主に思春期以降の男性が幼い印象を与える美少女に「萌え」る際、表象が性的であるか、または受容者が性的質感を感じれば、その分だけ表象も受容者もロリコンであるとする合意は得られやすい。しかし「萌え」は擬似恋愛感情ならびに保護欲求、庇護欲求、性的興奮、またプラトニックラブや性的でない恋愛感情などの広範な愛情を含む概念であり、一概に全ての「萌え」が性的であるとは限らないためロリコンを定義する際に性的でないロリコン、主に少女趣味的なロリコンという矛盾した存在も視野に入れ検討されなければならない(詳しくは3-3-4-1 少女趣味を参照せよ)。

 そのため本稿は「萌え」を考察するにあたって顕在意識に生じる性的質感に濃度概念を導入し、この曖昧性を払拭しようと考える。性的なロリコンと性的でないロリコンという、一見すると相矛盾するふたつの存在を隔絶したものとして扱わず、両者を階層的にひとつながりの存在として考察の対象にするということである。つまり、主に思春期以降の成人男性においては、たとえ対象が生まれたばかりの乳幼児であれ、女性であれば「性的欲望の対象」とみなす性的な質感が立ち上がる、または立ち上がらざるえを得ないことを前提とし、その性的質感の濃度に応じて「萌え」を分析し、そこからどのようなロリコンであるかを考察するということだ。すなわち少女を見たときに我々は必ず「性的対象」としてみていることを前提とした上で、性的対象としてその性的質感の濃度をどこまで顕在意識の中で自覚できるかということである。端的にいうならば意識的または無意識的に抑圧されてもなお、立ち上がる性的欲望の質感を顕在意識においてどれだけ自らが客観的に語り得るかに尽きるということである。たとえば、基本的に私たちが母親に対して性的まなざしを向けないのは、近親相姦という禁忌が意識的か無意識的かで私たちの欲望を抑圧し、顕在意識にまでその性的質感を立ち上がらせないためである。しかし、男性は一瞬たりとも母親の裸を見たときに、祖母や姉、妹の裸を見たときに、一瞬たりとも女性を意識していないと言い切れるだろうか。脳情報通信総合研究所所長の川人光男は「意識とは無意識化で生じている非常に膨大かつ並列に行なわれている感覚運動統合の不良設定性を解消するための計算を、非常に単純化されたうその直列演算で近似することである(川人、p.402)」と指摘しているが、これは私たちの意識は私たちが感じている膨大な情報の一部のみしか顕在意識で自覚できないことを意味している。主に思春期以降の一般的な男性はありとあらゆる女性に性的まなざしを向けていると考えても問題はないはずだ。純粋な保護欲求や庇護欲求、プラトニックラブや性的でない恋愛感情とはすなわち、性的欲望の対象を抑圧し、顕在意識に立ち上がる性的質感を何らかの理由で意識しないと考えていいのではないだろうか。性的欲望を自覚せずに純粋にかわいいを希求する男性については3-3-4 女児化する世界を参照せよ。

 本稿の第一の目的はロリコンの定義ではなく、ロリコン文化が日本で誕生し発展した原因を探求することが目的であるため一般的な定義でも構わないのであるが、ロリコンの定義は不毛な論争に終止符を打ち、建設的議論へと導くためには必要なことであり、かつロリコン文化を定義づけるその前段階として必要なステップであるとも考え、ここではあえてロリコンを定義した。とはいえ、工場やストーリー上の形式にまで拡散される「萌え」概念の遊戯的拡散を止めるつもりは毛頭ない。本稿は上記定義に基づき考察を進めるわけだが、ただひとつ注意を求める点は、議論を行う際に話者は自らでどの「萌え」の定義に基づくか、基づいているか自覚的であれということだ。その際に話者が「萌え」の定義を持たないか、また自覚的でないのならば、上記定義を推奨するまでだ。

 ここまで「萌え」の来歴を概観した。では次に「萌え」と一口に言っても、主に美少女のどこに「萌える」のだろうか。性格なのか、全体の見かけなのか、部分なのかという分析対象のカテゴリーについてまだ考察する余地も必要もあるだろう。対象に寄せられる愛情は、恋愛感情および疑似恋愛感情なのか、また保護欲求、庇護欲求なのか、性的な興奮なのか、純粋なプラトニックな愛なのか。また、それらが入り混じった複雑な感情はどのように生じるのであろうか、引き続き詳細に考察を続けていく。

 

1-3-2 フェティシズム

 心理学では性的倒錯のひとつのあり方で、物品や生き物、人体の一部などに性的に引き寄せられ、性的魅惑を感じる心のはたらきを言い、極端な場合は、性的倒錯や変態性欲の範疇に入る。現代の日本でフェティシズムという場合、上記のうち後者の心理学的な意味における「性的フェティシズム」を指すことが多く、本稿も主に後者の心理学的側面からの意味で論じていく。人類学・宗教学では呪物崇拝と呼ばれ、経済学では物神崇拝と訳される。

 本来、精神医学ではかなり深いこだわりを指し、日常生活に支障をともなう段階においてフェティシズムと認定される。DMS-5などの診断マニュアルを踏まえた上でこれも小児性愛者同様、医師の診断をもってはじめて認定される。一般には省略形・俗語でフェチとも言い、単なる性的嗜好程度の意味で誤用され一般化している。脇フェチ、尻フェチ、二の腕フェチなど一層細分化され、パーツへのこだわりという現象が顕著になってきており、近年ではめがねフェチ、鎖骨フェチ、声フェチ、腹筋フェチなどといったパーツ化された嗜好も一般に語られるようになり、その射程は人の数だけあり、極めて広範である(オーガス&ガタム)。しかし、確認であるが、これらは俗称かつ誤用である。その誤用もあって、似た嗜好を表現するに親和性の高い「萌え」が近年、「工場萌え」にまで拡散されたのではないだろうか。インターネット・ライブラリーであるWayback Machineによれば、Wikipediaの「萌え」項目において2004年4月の段階で関連項目にフェティシズムの記載が見受けられることから、「萌え」とフェティシズムの高い関連性が指摘されていたことがわかる。

 誤用ではあるが、日本国内における「萌え」とは、もはやライトなフェティシズム、性的嗜好であると言って差し支えないだろう。斎藤環は、「萌え」とフェティシズムの違いを、端的に定義する。すなわち、「萌え」とは二次元であり、フェティシズムは三次元である、という。これもまた論者により定義は多様だろうが、どちらにせよ、「萌え」であれ、フェティシズムであれ、興奮の程度差はあるものの快感情を抱いていることは間違いないだろう。

 しかし、「萌え」の場合、フェティシズムと性的という点でややニュアンスが異なるかもしれない。「萌え」はその大部分においてセクシャルなクオリアといった観点から意識的か無意識的かを問わずフェティシズムと領域が確かに重なるが、「萌え」における複雑な感情を構成する中に性的以外の要素、すなわち純粋な保護欲求や庇護欲求、または矛盾するかもしれないが純粋にプラトニックな恋愛感情といった質感を性的であるフェティシズムの集合に加えていいのかということである。

 恋愛はそもそも性的なものであるだろう。しかし、愛に関してその射程は広大だ。ここにおいて先に言及した性的質感の濃度概念を導入し、この考察を続ける。たとえば性的な恋愛対象以外の愛である。親や兄弟、子ども、祖父母、ペットなど、近親相姦や獣姦などの性的倒錯でない限り、一般的には性欲が介在しない愛の例はたくさんある。脳を物理的に解析して、快楽的な興奮はすべて性的興奮を司る部位が活性するため、すべての快楽的な興奮は性的である、という神経科学的結論を持ち出し、すべての興奮を性的だと位置付けることも可能であるかもしれない。しかし、ここでは「萌え」とフェティシズムには性的質感の濃度の差異を認め、「萌え」は濃度の濃い性的なものも含めるが、濃度の薄い、また顕在意識では感じることのできない、限りなくゼロに近い濃度、すなわち性的でない純粋な愛に近い興奮もその射程に含める、ということを確認するにとどめておく。性的欲望およびプラトニックな恋愛、さらにはかわいい対象そのものへの同一化願望のいずれをも広範な愛情である「萌え」に集約させ、考察を進める。性的欲望を自覚せずに純粋にかわいいを希求する男性については3-3-4 女児化する世界を参照せよ。

1-3-3 データベース

 東は「萌える」という現象をデ・ジ・キャラットを例に挙げ、消費者の関心を触発するため独特の発展を遂げた「メイド服」や「触覚のように刎ねた髪」、「猫耳」などの表象を「萌え」を効率よく刺激する「萌え要素」だと分類している。その各属性の来歴を東は「たとえば、「メイド服」は八〇年代後半んアダルトアニメ『くりぃむレモン・黒猫館』を起源とし、九〇年代に入ってノベルゲームを中心に勢力を広げてきたことが知られている。また「触角のように刎ねた髪」は、筆者の観察では、九〇年代の半ばノベルゲームの『痕(きずあと)』で現れたことから一般化し、現在では多くのアニメやゲームで見られるデフォルトの要素に成長している。(東a、p.66)」と指摘し、「ほとんどはグラフィカルなものであるが、ほかにもキャラクターの口癖であったり、設定、物語の類型的な展開、あるいはフィギュアの特定の曲線など、ジャンルに応じてさまざまなものが「萌え要素」になっている。(同書、p.67)」と「萌え要素」が多岐にわたることを説明する。東は「萌え」を「萌え要素」によって喚起される質感ととらえ、もはや二次元美少女に関する表象に限定しておらず、興奮の刺激の一要素としてとらえている。

 東は一般的に議論される二次元のキャラクターが描かれたグラフィカルな静止画のみに限定されない、有形・無形の一連の「萌え要素」の集合をデータベースと名付けた(同書、p.71)。オタクはこのデータベース、言うなれば過去の記憶から引用する/思い出すかたちで「萌え要素」を享受して楽しむ。具体的かつグラフィカルな「萌え」要素として、コスチューム(メイド服、ゴスロリ、巫女、各種制服)やヘアスタイル(ツインテール、アホ毛)、装身具や衣服の一部(眼鏡、ソックス、リボン)、身体的特徴(スレンダー、巨乳、貧乳、猫耳、尻尾、エルフ耳)、また外見的特徴以外では、職業、地位、身分、性格、境遇、続柄、言葉遣いなどが挙げられる(永山、pp.113~114、堀田、pp.51~54)。しかし、ここで注意しなければならないのは、このデータベースはどれも「萌え」属性であり、その要素それぞれがオタク的表象であるにしても、それ自体は幼い印象を与える要素ではないということだ。つまり、これらの「萌え」要素は幼い印象を与える美少女とともに複合的に表象されて初めてロリコン的相乗効果を発揮する場合がほとんどである。そして、例えば、足の裏やスカートのチラリズム、またSM、ボンテージ、特定の身体部位への射精、レイプなどの過激な成人女性に対しても表象される性表現が幼い印象を与える美少女に適用される結果、興奮を増大させもする(5-3-4 性的鍵刺激を参照せよ)。

 東のデータベース消費において重要な要素は、端的に言ってしまえば受容者の記憶である。可愛らしい造形表現の静止画を見た折に、過去の可愛らしい類似的なキャラを想起し、想定される声優の声や表象されていない情報までをも付与し、余白を自らで補う形で消費するということだ(4-7 間を参照せよ)。東は「彼ら(オタク)は一〇代の頃から膨大なオタク系性表現に曝されているため、いつのまにか、少女のイラストを見、メイド服を見ると性器的に興奮するように訓練されてしまっているのだ。(東a、pp.130~131)」と端的に「萌え要素」とセクシャリティーとを結びつける。つまり、一見すると非性的なコンテンツであれ、その対象が過去に読んだ性的なイラスト、ロリコンマンガであったり、プレイしたアダルト・ゲームを想起させた場合には、その非性的なコンテンツが性的に見えてしまうこということだ。絵柄が同様であったり、その絵柄に影響を受けたイラストレーターが書いた絵柄であったり、声優が同じ、また似た声の声優だったりといった似通った表象を受容した際に過去の対象を意識的か無意識的かに踏まえた性的な「萌え」を感じるということである。近年のオタク系文化に極めて多く見受けられるキャラクターの表現手法として、頬や膝、肩、腿などの身体部位を薄いピンクで赤らめ、そこにハイライトを加える描写がある。また全体的に透明感のある色調で描かれるセル画肌の姿態はアダルト・ゲームまたは、性的描写の強い作品の登場キャラクターを想起させ、意識的、無意識的を問わず記憶が必然的に過去に受容した「萌え要素」データベースへと繋がり、まったく性的でないモチーフを性的なものに変化させてしまう場合がある。

 直近で物議を醸している海女萌えキャラ「碧志摩メグ」( 碧志摩メグ公式サイト)はこれが原因であろう。つまり、オタクだけを「萌え」させ励起させていたアダルト・ゲーム調のキャラがオタクの拡散とメディアテクノロジーによって、多くの女性をネガティブな意味でデータベースにアクセスさせ性的に「萌え」させてしまったわけである。

 思春期以降の男性に話を戻すと、データベース消費は当人にとって無意識でなされる場合にはもはや客観的に論証する手段はないわけだが、そもそも対象が女性という時点でもの心つく頃か思春期を迎えた男性からすれば、「オタク的データベース」のみならず女性に関するものならば生物学的に性的な濃度を含まざるを得ないのではないだろうか。それゆえにかオタク系文化の、とりわけ美少女コンテンツを論じる論客たちは「萌え」を論じる際にセクシャリティーの観点を前提としている。

1-4 まとめ

 第1章では、ロリコンにまつわるさまざまな概念が混同している状況を確認したのち混同しないように各語を定義付けた。ロリコンにまつわるさまざまな近接概念を辞書的意味、社会的に流通している用法、また話者による定義の相違を分析し、「萌え」とフェティシズムの相違を概観した。端的にまとめれば、ロリコンとは、ロリコンクオリアをもたらす表象、およびそのクオリアを嗜好・選好するもののことである。ロリコンクオリアとは、幼い印象を与える幼女・少女に対して性的に「萌え」ることを意味する。ロリコンとは、幼い印象を与える美少女に性的「萌え」を感じ、客観的に自虐的に自覚する、または語り得る者のことである。ロリコンとは、日本の文化的・社会的風土における男性から少女へと向かう性的なエロースであると言えるだろう。そうした人々が嗜好する文化コンテンツをロリコン文化と定義する。ロリコン文化とは、小児性愛者文化でもでなく、小児性犯罪者文化でもない。マンガ・アニメ・ゲームなどのオタク系文化を中心に見られる幼い印象を与える美少女にまつわる有形・無形を問わないコンテンツの総体のことである。

1-5 共創の場への提言

 本章では、さまざまな「萌え要素」の存在を確認した。通常、この「萌え要素」の集合がある形式をとって「萌え」を喚起させる作品または現象となる。オタク系文化が複雑さを極め、国内の根拠なきフェミニズム勢や他の文化圏と論戦を招くのは、大部分がこの「萌え要素」の集合体を説明しないことならびに無自覚であることに起因するだろう。たとえば、一般的にオタク系文化とみなされるマンガ・アニメ・ゲームを想定してみよう。そして、その表現媒体に幼い印象を与える美少女が登場すると仮定する。どのコンテンツもロリコン文化的要素を有するコンテンツ群に括られるわけだが、そのコンテンツを構成する複合的要素を紐解けばその構成要素はさまざまだ。世界観はSFなのか、異世界ファンタジーなのか、学園ものなのか、絵柄はどうかなど、これを逐一、分析していくことでそのコンテンツの構成群を明らかにすることができる。

 興奮をもたらす要素が「萌え」なのか「フェティシズム」なのかはここでは問わない。その要素が単体で効果を及ぼすのか、またはある要素と組み合わされることで快感情を作用または増幅させる相乗効果があるのか、または打ち消すのか、などの質感を分析する作業をもってロリコン文化コンテンツを分析することを推奨するまでだ。建設的な議論の際にはロリコン文化コンテンツは美学という俎上に乗せられてはじめて双方にとって有益な論証が可能になる。

 本稿が提唱するのは、論争の際の建設的議論の土台作りである。たとえば、『ルパン三世』の峰不二子や『銀河鉄道999』のメーテル、中原淳一や竹久夢二、林静一などが描くキャラクターがロリコン文化コンテンツ化どうかを議論する際に、各個人の感じ方で議論を応酬するのではなく、詳細に共通の分析項目を設定して議論の礎を形成していくということだ。

 そのキャラクターが幼い印象を与えるか否か、また目に見えない設定はどうであるのか、どのシーンか、誰の作画か、作者はアートワールドに属するか、サブカルチャー作家か、描かれた表象は性的か否か、またそれは主観的か客観的か、コンテンツが生じた歴史的背景や同時代へのコンテキストの配慮など、さまざまな観点から論争従事者が合意点と相違点を事細かに共有するその素地を形成することにある。

 論争をもたらしている対象が示す性的刺激「エロティック・キュー(オーガス&ガタム)」は「幼女なのか・少女なのか・また幼女のように見えるのか・少女のように見えるのか・etc…」にはじまり、「着衣なのか・水着なのか・半裸なのか・全裸なのか・etc…」、「極めて性的なエロなのか・ライトなエロなのか・非エロなのか・etc…」、「ポージングはセクシーなのか、カッコよく見えるのか・etc…」またメディアは「マンガなのか・アニメなのか・ゲームなのか・イラストなのか・etc…」・「作者にエロを想起させる特定の意図はあるのか・ないのか・etc…」・「足裏・スカートとニーハイソックスの間の絶対領域(オーガス&ガタム、pp.90~91)・うなじなどのフェティシズム的領域はあるか・etc…」・「動きはあるか・ないか・etc…」・「感情移入できるのか・できないのか・etc…」・「ストーリーは面白いか・面白くないのか・etc…」・「色はあるのか・ないのか・またある場合にはどんな色なのか・etc…」など考察を試みればその分析項目は枚挙にいとまがない。そして、今上記に言及した項目においてもまたさらに微細に多岐に分析をこなうことが可能であり、厳密さを追求する上では徹底的な分析が可能であり、望まれるだろう。

 本稿は、ロリコン文化コンテンツの具体的対象の内容分析を対象としていないので詳しくは割愛するが、あるコンテンツが論争の対象になった際にはその分析の必要性があると触れるにとどまる。他にも上記のみならずオタク系作品と呼ばれることで捨象される快楽原理の要素があることは明示しておきたい。これはオタク文化に造詣の深い論者にも指摘されていることであり、漫画編集者の竹熊健太郎は静止画よりも動きに関してセクシュアリティーを感じると語っており(東b、p.103)、漫画評論家の伊藤剛も「コマ割りを経ることによって得られるもの、物語に没入しての感情体験、キャラクターを描く微妙な曲線の具合、コマ運びによる時間処理の妙味、あるセリフに共感したり、語られる主題に自分の生活実感を重ねたり、人生上の指針を得るといった、作品を媒介にした個人史上の体験による快楽(同書、p.225)」を言及している。ひとつの物語、ひとつのシーン、ひとつの静止画など、分析対象を精査するだけでその要素は認識カテゴリーの数だけある。

 ロリコン文化コンテンツには造形的表現以外にも声や動き、データベース/記憶など目に見えない快楽感情をもたらす要素がたぶんに含まれている。議論する際には前提として何を論じるか、そのために必要な双方の定義における合意を経たのちに、建設的な議論ははじめて可能となる。

第2章 ロリコンの誕生と歴史

 第2章では、ロリコンということばの誕生ならびに概念の普及と変容について考察する。本章を述べるにあたり高月の先行研究が極めて秀逸であったため、しばしばそこから大部分を引用する。

2-1 ロリータ・コンプレックス

 ロリータ・コンプレックスの辞書的意味に関しては第1章で確認した。ロリータ・コンプレックスの由来については1955年のナボコフの小説『ロリータ』にさかのぼることができる。12歳という前思春期の少女にあらわれる性的な魅力を表現し、それにとらわれる成人男性の姿を描き社会に衝撃と影響を残した作品である。日本でロリータ・コンプレックスということばが、いつどのように使われはじめたのかは定かでないが、ことば自体は1969年に出版されたラッセル・トレーナーの『ロリータ・コンプレックス』の邦訳が日本で初出とされている。しかし、そこで意味される内容は「中年男性が少女に性的関心を抱く」という現在主流の意味とともに「少女が中年男性に性的関心を抱く」という現在とは真逆の意味も研究の対象とされていた。1972年に澁澤龍彦が『少女コレクション序説』においてロリータ・コンプレックスを女性視点ではなく、男性視点からとらえるべきものである(澁澤、pp.19~20)、と指摘したのが現在のロリータ・コンプレックスの用法の発祥とされている(高月、p.6)。現時点において極めて確かなのは、現在のロリータ・コンプレックスの用法が1974年の和田慎二『キャベツ畑でつまづいて』の中で使われたことであり、その頃にはある程度のことばの意味と概念が社会の一定層に認知されていたことがうかがえる(同書、pp.32~34)。

 なお、ロリコンということばや概念が存在しない時代においても、現在のロリコンと同等、またそれに近似する質感は存在していたと考えられる。強いて例をあげれば源氏物語の若紫にまで遡及は可能であろう。とはいえ、近代において「少女」概念が誕生した以降のまなざしの端緒としては田山花袋の小説『少女病』、『布団』があげられる(同書、pp.39~41)。谷崎潤一郎もまた『痴人の愛』にてロリコン概念の先駆とされているナボコフよりも30年早い段階で少女に魅了される成人男性の葛藤を描いている。また太宰治は『グッドバイ』にて花袋や谷崎とは異なった「少女」の内面に同化するロリコンのまなざしを披瀝している(3-3-4 女児化する世界を参照せよ)。

2-2 ロリコンの誕生

 ロリコンということば及びその概念がどのように生じ、発展してきたのか。その語源とロリコン概念の形成に付与したと思われる要素を考察していく。

2-2-1 ロリコンという略語の誕生と普及

 ロリコンというロリータ・コンプレックスの略語が一般に使われるようになったのはいつ頃からだったのだろうか。『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年公開)の劇中でロリコンということばが使われることから、この時点で略語がより広く社会の中で用いられていたことがうかがえる。高月は1970年代後半にアンダーグラウンドなロリコン雑誌の編集者が略語を使いはじめたという証言の存在を述べている(同書、p.7)。さらに高月は「1960年代の末には、幼い少女をモデルとしたヌード写真集が日本で一般に流通し、1970年代から子どもの裸を扱ったヨーロッパのポルノ雑誌が一部のポルノショップに出回り始めた(同書、p.7)」ことから、そうした嗜好はすでに存在しており、それがアニメーブームと同期し、二次元美少女キャラクターを愛するオタク文化の広がりとともに実写のロリコンと同時代的にブームとなり、ロリコンが概念とともに人口に膾炙されるようになった。

2-2-2 ロリコンという概念

 次にロリコンという概念がいかにして誕生しブームとなったのか、その形成過程を概観する。

2-2-2-1 少女写真集ブーム

 1980年代前半のロリコンブームの以前に、男性同性愛専門誌や、SM雑誌、また日常に潜むエロティシズムを前面に押し出した盗撮モノ、スカトロジーといったアブノーマルなフェティシズムがアンダーグラウンドに存在し、その中のひとつとして少女ヌード写真は存在していた。ロリコンブームは主に二次元美少女を中心に消費されたブームであると現在では思われているが、写真を中心とする現実の幼い美少女コンテンツも同時代的に大規模に消費されていた事実は今日あまり言及されておらず、その資料も現在では児童ポルノに相当するたるため一般的な社会で触れる機会は極めて少ない。当時のロリコン関連本で実写の女性器が写っている雑誌の一部は現在国立国会図書館にて閲覧禁止措置がとられている(マンガに関しては閲覧可能)。実写の少女写真もまた二次元美少女と同様ブームとなっていたことは現在のロリコン文化隆盛を語る上で忘れてはならない事実だ。

 高月によれば、少女写真集ブームがはじまる1969年の『ニンフェット 12歳の神話』が発刊されるまで、幼い少女の裸体写真は医学書や個人的写真売買の形式をとって少数の幼い少女の裸体を嗜好する者たちを喜ばせていたという(同書、p.49)。当然、杉田五郎などのあっけらかんとした解放感に満ちた少女写真や裸体画も存在していたわけだが、こと『ニンフェット 12歳の神話』に関しては、その制作に関わった編集者の証言から、初めから12歳の少女を性的に消費する意図が見受けられる。高月はこれを端的にまとめている。以下は高月からの引用である。

 「もちろん芸術がエロティシズムを嗜好するのはあたり前のことだ。ただ12歳の少女の裸が性的な目で見られ得ることについて、当時の社会は公然と議論する言葉を持たなかったらしい。そこで人々は結局、健全な成人男性はファインアートである少女ヌードを性的な目で見ないといった建前に基づいてこれを許容したのだろう。

 だが、水面下では、12歳のエロティシズムが男性読者を惹きつけ得るという認知ギャップが意識されていた。というよりそもそも、ファインアートが大衆的な市場でブームになってレコードまで作られるということがあり得るだろうか。12歳のエロティシズムを鑑賞するため、男性読者の多くがすすんで認知ギャップの共犯者になったことは想像に難くない。(同書、p.52)」

 当時の日本国内では幼女や少女の全裸の写真が一般書店で売買されており、経済規模も極めて大きいものであった。『LITTLE PRETENDERS 小さなおすまし屋さんたち』は20万部売れ、また同年出た『les Petites Fees プチフェ ヨーロッパの小さな妖精たち』と『ロマンス』は各25万部売れたとされている(同書、p.55)。また『ヘイ!バディー』(1980年創刊)のように70年代末から80年代末にかけて定期刊行されたロリコン雑誌は15タイトルもあるわけだが(同書、p.62)、高月の指摘通り、この圧倒的な物量からも男性を中心とする多くの受容者は確信犯的に少女ヌードを消費していたことがうかがえる。

 また、性器や陰毛の描写も一切禁じられていた当時、パートナーのいない成人男性は女性の局部を見ることを渇望していたため陰毛がない少女の局部を代替手段として消費したわけである(蛭児神、p.52)。当時わいせつと認定されていなかった少女の局部は唯一の女性器を見る手段であった。この少女写真集ブームは以降アニメブーム、ならびに二次元美少女のロリコンブーム、80年代前半の三次元可愛らしさを前面に押し出してくるロリコンアイドルブームと同時並行的に進行していく。

2-2-2-2 アニメブーム

 当時アニメは戦後のサブカルチャーのひとつの分野として認識されていた。「明日はオトナになるボクたちのマガジン」というコンセプトを持った若者向けのサブカルチャー雑誌であった『月刊アウト』は1977年6月号において「堂々の60ページ!!」の特集を組み『宇宙戦艦ヤマト』を取り上げ、増刷までいたる異例の事態をもたらした。その後、『月刊アウト』はSFやロック音楽、B級日本映画といったサブカルチャー特集をしながら、次第に読者の需要に応えるかたちでアニメ記事を増やしアニメ雑誌の先駆的存在となり、アニメブームを支えた。同年の8月に『宇宙戦艦ヤマト』はテレビシリーズを編集したダイジェスト版として劇場公開されると、公開初日前夜にファンの若者が行列をなしメディアに注目され社会現象となった。以降、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、『ルパン三世』シリーズ、『銀河鉄道999』、そして『機動戦士ガンダム』とアニメブームが到来した(高月、pp.94~96)。なぜアニメがオタクを中心とする若者にブームたり得たかについては、3-1-4 所与性を参照せよ。

 

2-2-2-3 ロリコンブーム

 少女写真ブームとアニメブームが先行して展開する中、1980年代前半のロリコンブームに両者が集約され、絡み合い三つ巴のままそれぞれにブームが展開された。

2-2-2-3-1 プレ「萌え」

 1980年代前半のロリコンブームの直前にアニメブームがやや先行する形で起きていたわけだが、『宇宙戦艦ヤマト』も『銀河鉄道999』も『機動戦士ガンダム』にはこれといって特筆される幼女や少女を性的なものと結びつけるシーンがでてくるわけでもなく、現在のロリコンにつながる要素はそれほど見当たらない。しかし、ヒロインの下着や裸体を見せるシャワーシーンなどのお色気的サービスシーンはあり、当時の男性を中心とする受容者が二次元美少女に魅惑されていたことは疑いないだろう。もちろん、アニメブームの中で放送された作品は上記に言及したものだけではない。78年から82年までの5年間の年間アニメ放映数の平均は63.8本であり、その中には『まいっちんぐマチコ先生』(1981年放映、原作は1980年)『うる星やつら』(1981年放映、原作は1978年)や『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982年放映)、『The♡かぼちゃワイン』(1982年放映、原作1981年)もある。アニメおよびアニメと造形的に類似する質感を有するマンガにおいても、かわいいキャラクターやお色気シーンは多数見受けられる。そうした二次元美少女に励起される形容できない現在の「萌え」と同等の感情を表明することばおよび概念を当時の受容者たちは有していなかった。高月は「(ロリコン)ブームとともに美少女キャラクターに対するアニメ少年たちの関心が高じて、何らかの枠づけが必要になったのだろう(同書、p.97)」と述べている。

2-2-2-3-2 幼い印象を与える類似的表象

 1980年12月号の『月刊アウト』、1981年第17号の『アニメック』、1982年5月号の『アニメージュ』でロリコンについて特集する記事や特集が組まれアニメにロリコンという概念が侵蝕していく経過が見て取れる(同書、pp.97~98)。この侵食状況は、二次元の美少女と実写の少女との間に類似の美的質感が共通していたのが原因ではないだろうか。というのも、デフォルメされた二次元の美少女は、マンガの性差を使い分ける描画コードによって目が大きく誇張され、口と顎も小さく描かれ幼い印象を与える顔に必然的になってしまうためだ。そうした造形的表現が顔は童顔なまま幼さを残しつつも、身体が成熟していく思春期の美少女と類似する質感を有していたと考えられる。とりわけロリコンを自称する者は性的な欲望の対象として三次元の思春期前後、すなわちおよそ10~13歳の少女を統計的に好むのも二次元美少女の造形表現にもっとも類似するからなのかもしれない(同書、p.15)。一般的なレンタルビデオ店においてもアダルト二次元美少女コンテンツに隣接するかたちでジュニアアイドルや「ロリ系」と表される極めて幼い印象を前景化させる成人女性の三次元女性コンテンツが配置されているが、これはマーケティングならびに情報整理の観点から両コンテンツを近似的として扱い並置しているからだろう。

2-2-2-3-3 ロリコンブームのきっかけ

 ロリコンブームの大きなきっかけになったのが先に言及した『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年公開)であり、登場キャラクターであるクラリスの影響は極めて大きい。1982年5月号の『アニメージュ』において「『クラリスマガジン』というもう有名になってしまった同人誌あたりから、いまの〔ロリコン〕ブームがはじまった」という記述があることから、80年6月にロリコンファンジンの原点をかたち作った『クラリスMAGAZINE』の登場をもってロリコンブームがはじまったと考えていいだろう。『アニメック』(1981年第17号)によれば、ファンが作った「クラリスMAGAZINE」と呼ばれる同人誌が1980年6月に登場し、大きな反響を呼び、同年12月の続刊も短時間のうちに完売したとある(同書、pp.101~102)。

 現在よく話題になるロリコン同人誌とは異なり、『クラリスMAGAZINE』には性を前景化させる描写はなかった。当時のロリコン同人誌は以下の3種類、すなわち「乙女的でメルヘンチックなかわいい世界、アニメなど既存の美少女キャラクターに熱中する世界、そしてエロチックなポルノの世界(同書、p.102)」が絡まり合いながら発達した。高月は「『クラリスMAGAZINE』がポルノ抜きでも大きな人気を集めたのは、清純可憐なカリスマ性がそれだけで十分なインパクトを持っていたからだろう。」と指摘している。可憐でいたいけなクラリスは性的いかんを問わず、それだけで十分に魅力を有しており、それを背景にした同人誌がロリコンブームの火付け役を担ったと考えられる。

2-2-2-3-4 カミングアウト

 はじめは先行する世代や、やおいの女子たちに対する「シャレ」や「パロディ」だった同人誌が徐々にポルノを中心とするコンテンツに重心を移し(4-4 をかしを参照せよ。)、「アニメタッチの美少女がエロチックに描かれる青年マンガ(同書、p.102)」であるロリコンマンガの専門誌が商業誌として多数発刊され、「メジャー/商業コンテンツとマイナー/同人誌の間でロリコン表現が強力にフィードバックされていった(同書、p.102)」。このブームに乗って潜在的に大多数いたロリコンたちが自らで雪だるま式にカミングアウトをしはじめたのもこの時期であり、ロリコンはトレンディなものとなった。当時は宮崎勤事件の前であったのでロリコンを即座に凶悪な性犯罪者と結びつける発想がなく、ロリコンと自称することは現在の「萌え」や「オタク」を表明するくらいにライトなものであった。こうした一連の動きは新しい奇異な現象として捉えられており、アニメ雑誌の記事も単純な好奇心から紹介したものが多く、幼い印象を与える記号的な二次元美少女を性的に消費する若者たちは「ビョーキ」と呼ばれ危ういイメージも強調されたが、性的に表現された二次元美少女たちはパロディとして受け入れられる余裕がまだ社会にはあったようだ。ロリコンは理解不可能な現代の若者心理といった「新人類」の中のひとつの側面といった文脈で擬似イベントを都合よく生み出すマスメディアに大いに取り上げられ(ブーアスティン)、その過程で「ロリータ・シンドローム」や「クラリス・シンドローム」またそれを略した「クラコン」、または「二次元コンプレックス」またそれを略した「二次コン」などの同等ならびに近似内容を意味する一連のことばが、アンダーグラウンドならびに雑誌界隈で先行的に存在していた、幼い印象を与える三次元の美少女への主に性的な情愛を意味する「ロリコン」に、発音のニュアンスや、しやすさなどとも相成って、徐々に集約していった。

2-2-2-3-5 デフォルメ・エロティシズムⅡ

 記号的美少女を対象とした性的欲望の需要が潜在的に拡大する中で、石井隆やダーティー松本を中心とするエロ劇画ではもはやこうした需要に応えることはできなかった。ロリコン漫画は「劇画」に対して劣勢であった手塚系漫画絵の復権運動でもあり(永山、pp.86~87)、手塚調のデフォルメされた明るい絵柄はありとあらゆるものが記号化されるシミュレーショニズムの中で三無主義の若者たちが構成する時代の雰囲気に合致しつつ、性的商品として再発見されるにいたった。その過程で吾妻ひでおの功績は大きく、漫画編集者の大塚は「彼が性的表現に持ち込んだのは、手塚的な絵と萩尾望都ら二四年組が少女まんが表現の中心に置いた内面であった(大塚i、p.86)」と述べ、「吾妻はこれらの文体がともに「性」を強く暗喩しながら同時に隠蔽してきた表現であることを、この二つを性的メディアに持ち込むことによって明らかにしてしまったのである。(同書、pp.86~87)」と語り、「劇画の文体が最初から反手塚的な暴力や性を伴うリアリティを体現すべく作られたのとは対照的に、吾妻は決して性を描いてはいけない表現で性を描いた。つまりそこには禁忌の侵犯があったのである(同書、p.87)」と指摘している。吾妻は女児向けの世界にふさわしい、ある意味神聖な絵柄をもってして、描いてはならぬエロをパロディとして描いたということである。この禁忌の侵犯は今現在の同人誌に顕著に見受けられる。吾妻がもたらした二つの文体の統合が記号絵の中に隠蔽されたエロスを「ロリコンまんが」という新しいエロティシズムのかたちで提示したのである(同書、pp.48~49)。そして、吾妻や内山亜紀に見られる手塚的美少女の記号絵で描かれるエロを中心としたロリコン漫画が描かれ、総体としてのロリコンブームが到来した。

 当時のロリコン漫画の書き手の多くは三流劇画誌の描き手であったため「反劇画」という意識は必ずしもなく「オレたちはアニメっぽい、漫画っぽい絵でエッチな漫画を読みたい」(永山、p.87)という永山の記述から前世代の否定といった意味での対抗文化の影響も見て取ることができるだろう。そして同時に、当時の女性たちの中にも、むしろ男性よりも早く同人誌を通じて形成された性表現をポルノグラフィーとして消費する視点が内在・準備されており、女性まんが家たちは表現対象としての性を見出す一方で、商品化された性を消費者としての女性が支えるという構図ができていた。それらの女性が好んだのはアニメや少女まんがふうの「記号絵」と極めて古典的なポルノグラフィーの構図やモチーフの結びついたものであった(大塚i、pp.42~44)。

 3-1-4-2 大人向けの項目にて「劇画」がさまざまな主題やエロおよびフェティシズムを前面に押し出し、大人向け漫画表現を模索したことを確認するが、重く、暑苦しいテーマを主題にする劇画ブームはあさま山荘事件とともに若者から敬遠され、しらけ世代の台頭とともに収縮していった。しかし、劇画の内容、すなわちエロ(フェティシズム)ミームは以降もロリコン漫画のモチーフとともにマンガのみならず、アニメ、ゲームといったさまざまなメディアへ脈々と受け継がれていった。デフォルメされた手塚調の、吾妻ひでおや内山亜紀に代表される絵柄とともに、劇画の造形表現形式はやや廃れたとはいえ石井隆やさいとうたかを調の絵柄で幼い少女を性的に描く「劇画」のロリコンマンガもロリコンブーム時には同時並行的に消費されていたことは忘れてはならない事実だ(米沢、pp.253~280)。少なくとも83年の時点まで劇画調のエロマンガが主流であった(大塚i、p.42)。とはいえその後、手塚調のデフォルメされた二次元美少女が「劇画」調の二次元美少女を生産量の面で駆逐していくのも事実であり、日本人は「国民の総意」としてデフォルメされた二次元美少女を選好したと言える(5-2-1 デフォルメ・エロティシズムⅠ)。

 

2-2-2-4 同人誌

 現在夏の風物詩ともなった同人誌即売会にコミケがある。1975年の第1回にはじまり、現在では毎年3日間の開催期間中に60万人近い規模の動員を誇る。1977年『宇宙戦艦ヤマト』の映画公開にはじまるアニメブームと並行して、蛭児神健による先駆的ロリコン同人誌『愛栗鼠』(1978年発行)や同氏による文芸誌『ロリータ』(1979年創刊)、またこれらと協力関係にあったロリコンマンガ同人誌『シベール』(1979年創刊)が刊行され、これら冊子がコミケットで人気を集め、行列、まとめ買いが行われる同人誌の走りとなった。アニメブームが拡大するなか、先に言及した『クラリスMAGAZINE』をはじめとする同人誌の需要が急拡大しロリコンブームが到来する(コミックマーケット公式サイト)。しかし、この男性主体のロリコンブームの原初には女性の存在があったことも忘れてはならない。現在のロリコン文化が隆盛を極めているのは、何も男性のみが主体的に生産・消費のサイクルを担っているからではない。そこには女性の生産・消費も存在している(3-1-6 ビジネスを参照せよ)。

 同人誌でアニメのキャラクターにセックスを演じさせたり、シニカルなパロディを最初に試みたのは、男性のオタクではなく、マンガ同人誌を作っていた少女たちである。同人誌を通じた作品研究、パロディの二次創作はオタク文化の際立った特徴のひとつであるが、初期のコミケでそれを担ったのは女性であった。1番最初のコミケ参加者700名のうち9割が女性であったことは現在からすれば意外に思えるかもしれない。しかし、萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子ら「二十四年組」と呼ばれる美少年の同性愛セックスを描く人気少女マンガ家の影響を強く受けた少女マンガサークルが自らの手で異性愛の男性キャラクターに同性愛セックスを演じさせる喜びが定着し、1970年代半ばにはすでにそうした内容の同人誌が存在していたという(高月、pp.109~110)。アニメブーム初期の少年たちがSFやメカに魅了される中、少女たちは得意げに少年たちと同じ物語を素材に同性愛セックスを描いて見せ合っていたのである。ロリコンブームの中心的担い手であった吾妻や蛭児神らは性をめぐる少年と少女のアンバランスに対抗するという意識を持ちながら、女性が中心を占めていた同人誌という分野に参入し、オリジナル作品および少女たちが扱っていた性愛というテーマを二重にパロディにするかたちでロリコンブームの先駆を担っていった(同書、p.111)。引用とパロディ、および性と笑いの文化的ミームについては4-4 をかしを参照せよ。

2-2-2-5 二次元コンプレックス

 ロリコンブーム時のアニメ雑誌の記事中にしばしば、二次元のキャラクターしか愛せない、あるいは二次元のキャラクターを偏愛する二次元コンプレックス、略して「二次コン」ということばがしばしば登場する。この二次コンのうち、特に美少女キャラクターへの偏愛がロリコンとして位置づけられていくのは(同書、p.98)、「絵に描かれた架空の美少女に対する恋愛感情」が幼い印象を与える現実の美少女に対する偏愛と類似の美的質感を有し、かつ現在の「萌え」に相当することばの不在から「ロリコン」ということばに集約せざるを得なかったからではないだろうか。

 ロリコンブーム以前にも「二次コン」はあった。古来の日本の説話集である『御伽百物語』には衝立に描かれた女性に恋をする男の話がある(湯本a、p.76)。春画の肉筆画は中世にも見られ、浮世絵、終戦直後のカストリ雑誌などに描かれる二次元美少女を見て現在の「萌え」と同等また、それに近似する質感を感じていた者がいただろう。事実、そうした表象は少なくとも春画に関する限り鑑賞以外に自慰としても用いられていた。その中の幾人かは「二次コン」を感じていたのではないだろうか。

 戦後は手塚が描いた『やけっぱちのマリア』や『奇子』、永井の『ハレンチ学園』といった濃いエロティシズムに満ちたマンガを受容し性的な興奮を抱いた者が数多いたことが報告されている(5-2-1 デフォルメ・エロティシズムⅠを参照せよ)。艶のある色気を醸し出すマンガは結果的に読者の少年少女に印象深く性的なイメージを植え付けたが、公然と語られることはなく、子供向けのマンガの性的なイメージは建前もあってか、長い間見て見ぬ振りをされていた。その結果として、1980年代初頭のロリコンブーム時には多くの若者が二次元美少女の魅力を雪だるま式に「ロリコン」ということばに集約させ一斉にカミングアウトしだした。当時のアニメ雑誌には同時代から過去に渡ってのマンガやアニメのさまざまな幼女・少女ヒロインを諧謔的にランキングし論評し、「二次コン」をロリコンを通じて吐露する足がかりにしているのが見受けられる(『アニメージュ』1982年5月号、p.126)。

 また二次元美少女に対する偏愛を語るアニメのクリエイターも多い。1958年の公開当時17歳であった宮崎駿は『白蛇伝』のヒロイン白娘への憧れを語っており、続く後の世代も世界名作劇場の少女ヒロインなどに魅了されていたことがわかる。1968年の公開当時18歳だった和田慎二は『太陽の王子ホルスの大冒険』のヒロイン、ヒルダへの偏愛を語るのもその例だ(高月、p.99)。関西学院大学教授で情報人類学者の奥野卓司は「「萌え」とは、もともとは、今日のオタクたちがマンガやアニメの女性主人公に対して恋情を抱く状態を指している。その恋情の対象は一般的には美少女とされるが、そのルーツは、例えば松本零士の「銀河鉄道999」のメーテルや、モンキー・パンチの「ルパン三世」の峰不二子のような姉御キャラクターだった。自分には身近な存在でありながら、立場はかけ離れているために、恋情をストレートに表現できない、もやもやした気持ちが「モエ」であり、萌える男はその対象の代替物としてポスターやフィギュアを集めることになる。つまり、二次元の異性を自分の内側で三次元の世界に引き出す(もしくは混同する)のが、モエることだ(奥野、p.168)」と指摘しているが、「萌え」のルーツが姉御キャラクターにあるかどうかは他にもクラリス説などあるためここでは言及せず、恋愛感情や憧れ、庇護欲求といった二次元美少女に対する「つかみどころのない曖昧で広範な愛情」が当時から存在していたことがうかがえる。

2-3 まとめ 

 第2章においては主に高月の先行研究を参考にロリコンの誕生と普及について考察した。少女写真集が恒常的に市場で売買される中、「ブームとともに美少女キャラクターに対するアニメ少年たちの関心が高じて、何らかの枠づけが必要になったのだろう(同書、p.97)」という高月の指摘を敷衍し、筆者はアニメにおける二次元美少女と実写の少女との間に類似の美的質感が共通していた可能性を付け加えた。また氏の「枠付け」がロリコンということばに集約する過程を明示し、その情報を整理した。つまり、ロリコンブームの時期になってようやく二次元美少女に対する「萌え」と同等の感情が、二次元美少女と類似的美的質感を有する実在の三次元美少女に対する愛着を意味するロリコンということばで受容者が感じている質感をある程度物語ることができるようになったということである。不特定多数の視聴者に向けられるため基本的に性的に抑圧的描写で描かれるテレビアニメの二次元美少女への主にかわいいを中心とする「つかみどころのない曖昧で広範な愛情」と、一部の特定の人に向けられた同人誌における性的な描写で描かれる二次元美少女への「性的な愛情」とが同時並行的に受容される過程で、マスメディアの性を前景化させる過熱報道によって思考とことばを規定された結果、広範な二次元元美少女に対する愛着の感情は主に幼い印象を与える美少女に対する狭義の性的な欲望を意味するロリコンということばに集約されたのである。

 そして、1999年11月1日に施行された児童買春、児童ポルノに係る行為等の規則及び処罰並びに児童の保護等に関する法律によりヌード美少女写真の製造・販売が固く禁じられて以降は、児童ポルノとはみなされない虚構の二次元美少女のアニメ絵および一部のジュニアアイドルの「着エロ」のみが製造・販売され今にいたっている。斎藤の「おたく」の定義に関して、第二次性徴以降の性欲を持ち、かつ「アニメに描かれた女性でマスターベーションが可能であるか(斎藤c、pp.62~63)」という例示を参考にすれば、1-1-1 ロリコンの末尾で述べたように、ロリコンを、主にオタク系文化コンテンツにおける幼い印象を与える二次元美少女に性的欲望を感じる者、すなわち性的に「萌え」る者であると定義できる。そして、その定義に付け加えるかたちで派生的または周縁的に実写の幼い印象を与える美少女に対しても性的に「萌え」る者と歴史的に包括的に定義しても問題はあるまい。

第3章 ロリコンと現代日本社会

 第2章において、ロリコンとオタクが極めて密接に重なる概念であることを確認した。放送作家兼小説家の岩崎夏海は日本人男性は9割9分ロリコンであると指摘している(Gigazine)が、本章では蛭児神の「男のアニメファンなど、八割がたロリのケがあるに決まっているのだ。」という指摘も参考に、その「9割9分」および「八割がた」のオタク兼ロリコン(以下、オタク(=ロリコン)と記述)に関して主に考察を進めていきたい。

 なお現代を戦後以降の社会と定義し、大まかに20世紀後半から現在にかけての日本社会の観点からオタク(=ロリコン)を考察していく。ロリコンの成り立ちを理解することはオタクを理解することと軌を一にする。それゆえにオタク=ロリコンという図式がオタク系文化にまつわる議論において混乱をきたすわけだが、本章ではむしろその近接性を利する形式でオタクの観点から考察を加え、ロリコンをより深く理解することを企図した。ここでひとまずオタクの発生過程を概観することからはじめてみよう。

3-1 オタクと現代社会

3-1-1 おたくの誕生

 おたくということばの語源をたどれば御宅ということばにたどり着く。おたくとは、デジタル大辞泉によれば以下のように記述されている。

お‐たく【御宅】

一[名]

1 相手または第三者を敬って、その家・住居をいう語。「先生のお宅にうかがう」

2 相手または第三者の家庭を敬っていう語。「お宅は人数が多いからにぎやかでしょうね」

3 相手の夫を敬っていう語。「お宅はどちらへお勤めですの」

4 相手の属している会社・団体などの敬称。「お宅の景気はどうですか」

5 ある事に過度に熱中していること。また、熱中している人。「アニメお宅」

[補説]5は「オタク」と書くことが多い。1980年代半ばから使われ始めた言葉か。初めは仲間内で相手に対して「おたく」と呼びかけていたところからという。特定の分野だけに詳しく、そのほかの知識や社会性に欠ける人物をいうことが多い。

二[代]同等の、あまり親しくない相手を、軽い敬意を込めていう語。「私よりお宅のほうが適任でしょう」

 「お-たく」とは、「オタク」の登場まで、相手または第三者を敬ってその家や住居を意味することばとして主に使われており、今も使用されている。おたくという音をただ発せられた時、近年では主に[補説]5の意味で用いられる場合が大半であろう。しかし、今でも御宅のご子息様、ご令嬢様が、などというように文脈や話者によって相手方の家庭を敬って用いられることも当然ある。御宅は上層武家が日常用いたことばを基盤に明治時代に成立したとされる山手ことばであり、現在では身分の高い人々や成金を揶揄する役割語としても用いられる。高度経済成長を迎え核家族化が日本社会に浸透していく過程で主に専業主婦が相手宅の状況などを尋ねる際に用い、それが徐々に幼少期や就学期に「御宅」話者である専業主婦に育てられたオタク、またはその予備軍である子どものあいだに浸透していったと考えられる(村上隆、p.189)。

 御宅ということばの存在を確認したわけだが、「お-たく」ということばがオタク的層に主に使われ出すのはSF小説『ウルフガイ』(1971年)だという。作中、主人公が「おたく」という呼びかけを用いたことを皮切りにSFファンが真似をしてSFファン同士を「おたく」と呼び出しあったのがはじめとされている。『超時空要塞マクロス』の作中にも用いられ、一般化するようになった(keith中村)。

 自称オタキングこと岡田斗司夫は「そもそもおたくはコミケなどで見ず知らずの人間と積極的にコミュニケーションをとる。そのときに用いる二人称が『おたく』なのである。即ち『君』や『おまえ』が通用しない非日常の空間に多く接するのであるから、おたくという人種は一般の人間以上に外向的であるのだ(同上)」と語り、おたくという語の非日常空間での適性を指摘している。コミケットというそれほど相手の素性をよく知らない者同士が集い趣味・関心領域の情報交換をする上でオタクにとって同筋の者を意味する暗号的ニュアンスが、岡田が指摘する第一世代特有のエリート意識(岡田a)を伴って、最適な二人称として用いられるようになった背景もあるだろう

 そして、先に言及したアニメ・ロリコンブームの1983年に中森明夫が『漫画ブリッコ』誌上でおたくを徹底的に嘲笑・揶揄するかたちで「おたく」を発見・命名し、「おたく」の概念が誕生と同時に定着した。ちなみにこの時の「おたく」はロリコン、SFオタク、アイドルオタク、コスプレオタク、鉄道オタク、オーディオオタクなどもろもろのオタクが一括して括られていた。

3-1-2 核家族化

 オタクの語源となった御宅ということばの使用背景にオタク誕生の要因があるかもしれない。戦後のアメリカ文化の急激な流入と高度経済成長は理想の郊外都市型生活を理想的なモデルとし核家族化を促進した。東京近郊をはじめとする大都市の郊外に一戸建て、団地群の建設ラッシュが相次ぎ、新しい新婚夫婦はマイホームを持ち、余った部屋を子どもに与えると同時に、子どもたちが選好する玩具も与えた結果、子どもの部屋にサブカルチャーを収集・貯蔵できる空間が生じ、生活に一定の余裕をもった子どもたちは玩具やお菓子の付録、雑誌を得て自らの部屋を子どもなりに思い思いの趣味グッズで飾るようになった。核家族化は祖父母との時間を減らし、より密接に母親と過ごす時間を増やすことにつながり、母の監視のもと秩序に服従する「良い子」のエロスは剥奪されやすい傾向があるが、その一方で本質的に管理を逃れようとする中で多様な性的指向が生まれた、または生まれる準備をしていたと考えられないだろうか。商品化住宅が定着しはじめる1960年代後半頃に子ども部屋という個人的な趣味を堪能できる居心地のいい空間を有した子どもたちの世代がオタク第一世代を形成しているこの状況を高月は端的に「これがオタクたちの「宅」である(高月、p.182)」と指摘している。

3-1-3 消費社会

 消費社会の浸透は子ども向けのテレビや玩具、書籍を大量に生み出し、一連の子ども向けコンテンツを消費する機会を大規模に継続的に提供した(日本アニメーション大全)。『鉄腕アトム』の放映開始年である1963年の時点で白黒テレビの普及率は日本全国の世帯の過半数を超えている。そして1960年前後生まれのオタク第一世代は、プレおたく世代から続く紙芝居、雑誌、貸本、テレビ、お菓子、玩具などさまざまなメディアのもとで幼少期から就学期にかけて『鉄腕アトム』(1963)、『ウルトラマン』(1966)などを筆頭とするマンガ・アニメ(当時は「まんが映画」と呼ばれていた)・特撮コンテンツにメディアを超えて越境的に大量に触れ続けるメディアミックス(スタインバーグ、p.35、p.102)の環境下にいた。竹熊はプレおたく世代とオタク第一世代の違いをその人数の量の差異に認めており、プレおたく世代である手塚、宮崎を例示しつつ、オタク誕生の背景には生活的・経済的余裕の必要性について言及している(東b、pp.104~105)。高度経済成長期における消費社会の到来は、国民規模で生活的・経済的余裕を生み出し、国民的規模で趣味を享受できる潜在的オタクを大量に生み出し、先に言及したメディアミックスと相成り、オタク誕生の大きな一因を成した(3-1-4-1-3 メディアミックス)。

3-1-4 所与性

 オタク第一世代にとって、主に子ども向けに作られたマンガやアニメ・特撮などのサブカルチャーは既に自然なものであり、なんら違和感を伴わない存在であったのではないだろうか。以下、さまざまな所与の存在について考察をしていく。

3-1-4-1 幼少期の順化

 現在の第三・第四世代オタクがインターネットを所与のものとして受け入れているように、第一世代のオタクはマンガ・アニメ・特撮などのテレビを中心とした子ども向けコンテンツを所与の存在として幼少期から受け入れていた。

3-1-4-1-1 テレビ

 1953年にテレビ放送が始まり、1970年には白黒テレビが90.2%、1975年にカラーテレビが90%を上回ったことからも物心つく頃にはすでにテレビが家にあった。彼らはテレビを中心とした多様なメディアを通じ、一連のサブカルチャーを成人したのちも継続的に享受してきた。しかし、幼少の頃にマンガ・アニメ・特撮などのサブカルチャーに慣れ親しんでいたからという理由で人は必ずしもオタクになるわけではない。とはいえ、少なくとも所与として与えられたメディアに関して人は戸惑うことなく受容できることは疑いないだろう。事実、パソコンを使えない、というよりは使おうとしない明らかに幼児や児童よりも賢く社会的経験を積んでいる高齢者の存在があり、彼らはまったくアニメやマンガといったメディアを受容しようとはしない。彼らと児童との相違とはなんであろうか。すなわち、対象を受容する上での慣れが最も大きいのではないだろうか。またテレビは人間の外出活動を低下させる研究結果が出ており、人々はますます家に閉じこもるようになった(パットナム)。近代において誕生した家に閉じこもる「少女(大塚a)」という存在はまさに御宅(オタク)的な存在なのかもしれない。

3-1-4-1-2 慣れ

 人はある美的な作品を享受する上で慣れがなければ享受できない場合がある。音楽は聴取する音楽に対して聴取するジャンルの音楽の素養を持ち合わせていた方がより深く味わい鑑賞することができる。それは書や文学、絵画、バレエ、アイススケートから、はては数学などさまざまな美的経験を鑑賞者に付与する作品または現象についても当てはまる。主にマンガやアニメを中心とするサブカルチャーも絵画や音楽と同様、長きにわたり慣れ親しむことでより馴染みやすく深く鑑賞できるようになってもおかしくはあるまい。カリフォルニア工科大学で認知心理学者の下条は「特定の対象をただ繰り返し経験するだけで、その対象に対する好感度、愛着、選好性(=その対象を選ぶ可能性)などが増大する。これがこの効果の眼目です。特に「ただ経験するだけ」というところがミソで、その対象について、とりたてて知識を与えられたり、何らかの関わりを持ったりする必要はないのです。(下条、p.192)」と語り単純呈示効果を説明する。単純呈示効果は音、表意文字、無意味語、絵、写真、有意味語、名前、多角形、実際の人物・ものいったさまざまな刺激の種類による違いを超えて統計的に見受けられる(同書、p.195)。下条の指摘に則れば一連のサブカルチャーも特定の対象だけでなく経験すれば経験するだけ、そのジャンルや似た表現、およびそのメディア形式を選好するようになるはずだ。アニメ受容者はアニメそのものの動きや声優の声、かっこいいメカのデザインなどのさまざまな要素がもたらす快楽感情を同時に受容しており、そのいずれの要素に対しても慣れ、その結果、嗜好するようになる、またはなっているのかもしれない。

 また、男性のビジュアルな性的指向が形成される時期は青年期の一定の期間に限られているという報告がなされており、神経科学者たちはその時期を「臨界期」と呼んでいる。オスのヒツジをヤギに育てさせる実験において、オスのヒツジは「臨界期」に当たる若い時期にヤギだけを見て暮らした結果、そのオスのヒツジはヤギとしか交尾しようとしなかった。つまり、オスのヒツジに対して、性的な「刷り込み」が成功したということだ。しかし、メスのヒツジに関しては正反対の結果であり成長したメスのヒツジはヒツジと交尾するようになったという。ヤギをヒツジに育てさせた場合もオス、メスともに同様の結果となり、オスは性的な刷り込みを打ち消すことができず、メスへの刷り込みはほとんど効果がなかったという。性的な刷り込みに関しては、ヒツジやヤギのみならず、キンカンチョウを用いた実験でも裏付けられている。とはいえ、人間の男性の性的嗜好は、必ずしも形成される瞬間がはっきりしているわけではない。形成される時期は必ずと言っていいほど、青年期から20代初めの時期であるわけだが、決定的な瞬間ではなく、何年かかけて、特定のパーツを好むようになるという(オーガス&ガタム、pp.91~99、)。性的初体験を13歳の際に13歳と過ごした男性は以降、長きにわたり胸の小さな女性を選好すると語っていることなどから(同書、pp.104~107)、オタク(=ロリコン)もこれと同様に少年期から青年期を過ごした多感な時期に二次元美少女による「刷り込み」がなされていたと考えられる。

3-1-4-1-3 メディアミックス

 メディア研究者でコンコルディア大学准教授のスタインバーグは、メディアミックスを以下のように定義している(スタインバーグ、p.35)。

①メディアミックスは、ある特定のキャラクターや物語や世界観を中心とするメディア上のモノや要素のシステムとして現れる。

②メディアミックスは、そうしたメディアの周辺に発生するある種の社会性の土台になる。

③メディアミックスは、消費者と生産者との間のフィードバックシステムである、メディアミックスの目的が消費者を生産者にしてしまう手段化するという程度にまで発展している。これはマンガ・アニメの周辺で発生しメディアの生成における一モデルとなっているが、その後、映画やアイドルなどのメディア領域にも「輸出」されている。

④メディアミックスは、物語や視覚的表現の実験の場である。

 スタインバーグは、キャラクターや世界観が実写やマンガ、アニメ、お菓子のおまけ、シールなどさまざまなメディアを越境して、二次創作も含めて拡散し展開される日本の全体的状況を精緻に指摘し、メディアミックスということばを用いている。彼は現在の私たちの環境の起点を『鉄腕アトム』に求める。アニメ『鉄腕アトム』は放送当時20%台半ばから40%以上もの視聴率を獲得し(同書、p.67)、お菓子企業との提携を皮切りに、アトムが描かれた数多くのステッカーやシール、おもちゃを大量に社会に浸透させた。子どもたちはステッカーやシールを筆記用具や机、ランドセルに貼り、たえずトランスメディアなアトムと共に時間を共有することになった。アニメキャラクターに日常のいたるところまで取り囲まれる生活はアニメ絵に対して慣れを形成する上で大きな要因であっただろう。アトムが示したテレビを中心とするメディアと企業とのタイアップ広告モデルは以降業界のスタンダードな形式となり、さまざまなキャラクターにおいて展開されキャラクタービジネスのモデルを作り上げた(3-1-6 ビジネス)。テクノロジーの発達とともに、メディアミックスは、スタインバーグが指摘する少なくとも4つの段階(1.鉄腕アトム、2.角川春彦、3.角川歴彦、4.ニコニコ動画)を経て現在にいたっている(同書、pp.36~44)。

 映画大学准教授でメディア研究者の中川譲は、コンテンツ文化史学会(2015年11月28日)にて、マンガ(雑誌、コミックス、同人誌)、アニメ(TV、ネット、Blu-ray)、グッズ(フィギュア、Tシャツ、キーホルダー)などに囲まれている私たちの所与の環境が海外に比べ異常な状況であると語り、カリフォルニアのトランスやオレゴンのポートランド、南アフリカのケープタウンの事例を挙げ、いずれの地域もオタク系文化コンテンツの店舗数・書店数ともに日本に比べ人口当たりの割合が圧倒的に少ないことを指摘した。日本の、主にオタク系文化コンテンツを取り扱うアニメイトが全国の県に一店舗以上あり、地域によっては複数店舗ある過密状態は海外に比べた場合異様とも言える。続けて、中川は、この国民規模にわたる大規模なメディアミックスを支えたのが、全国津々浦々にリアルタイムにコンテンツを頒布する世界的に極めて稀有な物販システムであると指摘する。駒澤大学社会学教授の片岡栄美は「都市部の青少年ほど消費文化に多く接触しているかというと、居住地の人口規模によってほとんど際は生じていない。(片岡)」と平成13年の内閣府の調査にて結果を報告しているが、この状況は日本のマスメディアの「55年体制(水越、pp.67~82)」という大枠のもとで書籍・雑誌を流通させる寡占的な取次や各小売業の隆盛があるからこそ実現可能なのだろう。

 また購買力のない子どもが上記のメディアグッズを得ることができるのは、子どもにモノを買い与える風習が存在していたことが挙げられる。江戸末期から明治初めに来日していたお雇い外国人の日記などにも日本の子どもを大切にする風習や文化の記述が見られ、子供の天国とまで形容されている。その頃から子ども向け玩具の存在や、子どもに玩具を与えていた報告から(斎藤孝、pp.102~103)、少なくとも幕末から日本には子どもに玩具を買い与えてやるという風習があったがゆえに根付いたメディアミックスなのである。

 しかし、それだけで人はオタクになるものではないだろう。アトムを大人になっても見続ける大人は少ないのではないだろうか。オタクになるには他にもまだ要因がありそうだ。

3-1-4-2 大人向け 

 オタク誕生の背景のひとつにサブカルチャー、ことマンガやアニメ、における大人向けコンテンツの登場があげられる。「右手にジャーナル、左手にマガジン」を持ちはじめた若者たちの多くがそのままマガジンを持ち続けた理由を考えてみたい。

3-1-4-2-1 劇画 

 1950年代末、辰巳ヨシヒロが提唱し始めた「劇画」という概念がある。劇画は手塚治虫主催の雑誌『COM』や白土三平主催の『ガロ』などの漫画専門誌の原点でもあり、それ以前の「漫画は子供の読むもの」という風潮から脱却し、青年層への漫画の定着の嚆矢となった。作風としてはハリウッド映画やハードボイルド小説の影響が大きく、大人が受容しても読み応えのあるハードなコンテンツがマンガというメディア形式の中に流入してきたのである。「1960年代、劇画は辰巳とその他の作家によってマンガ表現の可能性と社会批評を求めるメディアになった(鈴木、p.72)」と鈴木は語っている。これはオタク第一世代がそのまま成人後もマンガを受容し続けた理由の大きな要因になったと推測される。つまり、この劇画という概念は、従来のマンガ・アニメ・特撮などのある意味で子ども向けサブカルチャーに大人も受容するに足り得るコンテンツ性を付与したのではないだろうか。この劇画ブーム自体は赤軍事件の頃に収縮していくわけだが、劇画は重く暑苦しいテーマをマンガというメディアが扱えることを示し、一連のサブカルチャーへも波及したと考えられる。岡田も『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』といった青年を対象にしたアニメがなければアニメブームも起きなかったのではないだろうか、というコメントを述べており、米澤嘉博は、ロリコンブームの背景に主に成人男性が受容していた70年代末の三流劇画ブームのエロ表現の流入を見て取っている。

 補足だが「劇画」とはそれ以前のマンガの技法からより映画的な表現に踏み込んだ実験的営みであり、扱うストーリーの主題が重く暑苦しいことも含む概念であった(竹内、p.181)。そのため絵柄はデフォルメされた少年・少女向けのものでもかまわないのであるが、さいとうたかを調の絵、すなわち「描線の多いリタルタッチな画風の漫画」が「劇画」であるという定義が現在主として用いられているわけだが(pixiv辞典)、進化心理学的に大人は子どもより複雑な図像を好むような傾向があるため、内容のみならず、外面的な描線の多いリタルタッチな画風の表象が「子どもっぽくない」メディア形式として、青年や大人を魅了したとも考えられる。

3-1-4-2-2 大学生 

 オタク第一世代が青年期を迎えていたロリコンブームの1980年前後に男性の大学進学率は40%近いことが統計からわかる。これに比して同時期の女性の大学進学率は12%と男子に比べて3分の1にも満たない(e-Stat)。大学生というモラトリアム期間に若い男性が遊ぶ時間と金銭的余裕を持てたこともオタク誕生の要因としてあげられる。『おたくのビデオ』や『アオイホノオ』においても大学生がオタク系文化サークル活動の主な母体となっており、学問のかたわら趣味や娯楽といった遊びとしてのサークル活動に暇と金をもって従事することができたのがうかがえる。青年期の男子は性欲も強く性的なコンテンツに敏感に反応する時期でもあるため、幼い印象を与える美少女を選好する青年男子のリビドーが三流エロ劇画を継承した大人向けロリコンマンガおよび少女写真を積極的に受容するようになった。永山は、ロリコンブームを支えた「オタク世代が大学生となり、あるいは社会人となって可処分所得が増加するのと並行してマーケットは倍々ゲームで膨らんでいく。(永山、p.87)」と語った上で、「文字通り「終わりない学園祭」の時代が始まったのだ(同書、p.87)」と指摘している。

3-1-4-2-3 複雑選好性 

 ここ日本においてもひと昔前まではマンガやアニメは大人になったら卒業するもの、つまり対象を趣味的に受容することを切り上げるものとされてきた歴史がある。しかし、これもアニメーションの歴史を見れば当然のことなのかもしれない。というのも、戦前から終戦直後にかけてのアニメはディズニーに影響され過ぎたこともありキャラクターの動きもコミカルで内容も大人が受容するコンテンツに比べれば子どもだましな感も否めないものであった。そのようなコンテンツであれば、卒業するのも当然だと言える。事実、それは今の子どもたちも似たような状況にある。たとえば『アンパンマン』、『ドラえもん』の例があげられる。とりわけ『アンパンマン』に関しては就学期を迎えた児童がそれまで肌身離さず持っていた『アンパンマン』から突如なんの前触れもなく卒業する例が多数報告されている(toggeter:b)。精神科医の内海健も『アトム』だけであれば、第一世代のオタクもアニメを卒業できる、と筆者とのインタビュー時に語っている。つまり、過去においても、現在においても幼少の頃に慣れ親しんだコンテンツから卒業することはあり得るということだ。

 しかし、これは幼少期に慣れ親しんだコンテンツを卒業するケースの一例にはなっても普遍化にまでにはいたらないだろう。というのも、『アンパンマン』は明らかに子ども向けコンテンツであり、就学期を迎えた子どもたちの趣味はより複雑なコンテンツを好むように自然と推移していくからだ。仮にもし成人後も『アンパンマン』というコンテンツを積極的に受容していなくとも、他の内容のアニメを好んで受容している状態が定期的にあるならばオタク第一世代ではなくとも現代のライトなアニメオタクであるアニヲタに括ることができる。『ちびまるこちゃん』や『サザエさん』などを例にすれば、子どもなどの家族が見るから一緒に見るケースや、手持ち無沙汰に消極的に受容する例もあるかもしれない。しかし、いずれにせよ、それも広範なアニメ受容といって言いだろう。現在は、主に子どもや未成年を対象にする日中の全年齢アニメとならび、放送時間が大人向けである「深夜アニメ」というジャンルが形成され、その中の一部は表現形式も内容も大人向けに作られている。日本国内における2013年のアニメ放映本数は271本であり(『アニメ産業レポート2014 サマリー』、p.5)、その大半が受容者を大人と想定した「深夜アニメ」枠で放映されていることから、ある程度大人の鑑賞にたえる、むしろ楽しめる複雑さを備えたアニメがここ十数年にわたり増産され、大人に受容されている(3-1-4-2-1 劇画を参照せよ。)。日本においてアニメが放映されない日はないと言っても過言ではない。アニメコンテンツは日常の大部分に大きく溶け込んでおり、コンテンツ自体も複雑性を備えているがゆえに、大人はそのままアニメというメディア形式がゆえに卒業をするということは極めて少ないのではないだろうか。

3-1-4-2-4 文化の中間領域 

 子ども文化のメディア研究者である角田巌はテレビが子どもと大人の区別を解消させたと指摘するブーアスティンや、情報化社会は子どもが社会に接する環境を一変させることで、子ども期を喪失させたとするポストマンに触れながら、「情報化社会はこれまで子どもが囲まれていた家庭、学校という対面的な生活圏をワープさせ、直接に一挙に現代消費社会に一消費者として浮上させ、これまで家庭と学校がになっていたスクリーニング(screening ふるい分け)と検閲を解除させた。(角田、p.76)」と語り、子どもと大人が摂取する情報の境界が情報社会によって消失したことを端的に指摘している。続けて「子どもは高学歴社会での過酷なストレスを現代消費社会での気晴らし的、娯楽的、趣味的なレクリエーションによって解消させると同時に、次なる新たな欲望を掘り起こされると言う欲望の資本主義的操作に陥らされた。(同書、同上)」と続け、子どもが消費効率の高い存在として企業にみなされ、それに応じた商品開発がなされたと言う。角田は若者の先駆的サブカルチャーが低年齢にも浸透し、子ども文化を変容させた結果、「1, 子どもの文化の大人文化への浸透 2, 子ども文化と大人文化との連続 3,子どもの文化に対する大人の許容(同上)」の3点の特徴を有した居心地の良い中間的な、子どもと大人の文化が移行的に交わる「文化の中間領域」が生じたと指摘している。

3-1-5 趣味・娯楽

 直前の角田の引用にもある通り、過度なストレス社会における娯楽的レクリエーションは必要不可欠なことでもある。オタクたちが成人後もオタク系文化を継続的に受容し続けた理由は、単純に対象がオタクに快感情を与え続けたからだと考えられる。つまり、ただ単純に楽しかったからということだ。オタク第一世代が趣味・娯楽としてオタク系文化を受容し続けた背景には、戦前から続く旧来の価値観に縛られず自らの心の赴くままに楽しいことを続けることが可能な社会の存在が挙げられるだろう。オタクに関しては現在もライト化が進行し、もはや中森明夫が発見した「おたく」は極めて少ない。アニメが好きならばアニヲタに括られることは先に確認した。もはやアニメを定期的に見ているだけで、オタクと括られてしまうほど、オタクは限りなく定義を拡散し細分化してしまった(1-2-1-4 ヲタク、1-2-1-5 ヲタ)。少子高齢化が進む日本においては、もはや娯楽と化したマンガ・アニメ・ゲームなどオタク系文化を受容する層は限りなく幅広い。オタク第一世代の年齢である50代半ばを考慮した場合、すでにそれより下の世代の日本人の多くが幼少期からさまざまなメディアを通じて選好するかは別にしてオタク系文化に何らかのかたちで大量に触れ続けている。

 戦前や終戦直後生まれの者たちの趣味は、囲碁や将棋、盆栽などあまりオタク系文化に関係なさそうに見える。そもそも彼らはオタク系文化にそれほど興味がないようにさえ思える。年齢を重ねれば好奇心が減退するのは生物学的にいたし方ないことだろう。しかし、彼らが興味がなくともオタク系文化はしたたかであり、囲碁、将棋、盆栽、刀剣をはじめとする非オタク系分野にもすでに程頭身の「萌え」キャラを中心とするオタク系文化が深く侵蝕している。もはや日本文化にオタク系文化が流入していない領域はないと言っても過言ではないのかもしれない。とはいえ、戦前・終戦後の下の世代が彼らの文化をオタク系文化で染め上げようとしても、戦中・戦後生まれの者自身がオタク系文化に興味・関心を示さないことは多々ある。彼らがオタク系文化に興味を持たない理由はなんであろうか。おそらく、その理由のひとつに前項目3-1-4 所与性で論じた幼少期からの順化がないということ、また「マンガやアニメは子ども向け」という刷り込みがあげられるだろう。彼らが幼少期の頃にはマンガもアニメもなかったか、あるいはあったにせよ、それは極めて子ども向けであり、大人になったら卒業する類のものであり、その内容も「劇画」のように大人の鑑賞に堪えるものでもなかった。またテレビのない当時の世代が「マンガ」や「まんが映画」を見る機会は手塚治虫や宮崎駿のような都市の富裕層の子息でなければ見る機会はそれほど多くはなかっただろうし、幼少期から青年期にかけて戦争があったため、戦後のオタク系文化的趣味や娯楽に勤しむ生活的な余裕や時間もそれほどなかったはずだ(3-1-2 核家族化、3-1-3 消費社会を参照せよ)。竹熊によれば、オタクとはある意味で豊かさに裏打ちされた文化である(東b、pp.104~105)、という指摘もあり、それは戦後の高度経済成長期の豊かさとオタクの母数の増加とで整合性が取れる。市場調査の世界には、人は趣味世界で思春期に体験したものをその後も引きずっていくという「思春期仮説」があるわけだが(堀田、p.200)、もはや「新人類」とうたわれた人々の多くが鬼籍に入ってしまう現在において、この理論に基づけば、あと十数年も経てば老人ホームやデイサービスにはマンガやアニメ、ゲームなどのオタク系文化コンテンツが並ぶ日もきっと近いはずだ。

3-1-6 ビジネス

 オタクの誕生以来、オタクが絶えず生産されてきたのはオタク文化がビジネスとして機能してきたからに他ならない。オタク系文化関連産業従事者がいて、それに憧れる若者が同様の職種に就いて再生産される構造ができてはじめてオタク系文化も社会に根付く。それは、プレおたく世代もオタク第一世代も変わりはなく、キャラクタービジネスも含め(スタインバーグ、pp.70~71)、産業として機能するビジネスモデルがあって制作がなされ各メディアを通じて受容者のもとに届く。中川はコンテンツ文化史学会(2015年11月28日)にて、各小売業がピークを迎えた年代データを例示し、1950年代後半に菓子小売業がピークを迎え、1970年代後半に玩具小売業がピークを迎え、1980年代後半に書籍・雑誌小売業がピークを迎えたと各小売業の隆盛を統計的に指摘している。1950年代後半は『鉄腕アトム』を中心とするお菓子に付属するキャラクターグッズのおまけが、1970年代後半は『ガンダム』をはじめとするプラモデルが、1980年代後半は週刊少年ジャンプをはじめとする雑誌の人気に、各小売業のピークの要因の大きな一端があると語る。受容者はお金という対価を支払い消費することで商品やキャラクターを支持し続けるからこそ、オタク系文化は存続し、現在も活況を呈している。消費者に支持されない、またはビジネスモデルを生み出せない文化コンテンツはただ消えゆくしかない。人はより刺激的で楽しい趣味と娯楽にお金を使う傾向があり(Barrett)、面子やベーゴマが現代のモバイルゲーム機やスマートフォンのゲームに勝つことは難しいだろう。プレ・おたく世代から、第一世代、第二世代と受容者が生産者側に回る構造を生み出し続けられたからこそ、今のオタク文化がある。現在においては各世代への広がりを見せ、オタクのライト化と細分化を経て現在推定3兆円規模の市場を形成するにいたっている(原田)。

 なお、ロリコン文化よりも集合の広いオタク系文化であるマンガ、アニメ、ゲームそのものは女子の生産者も受容者も多く、男性向けマンガを女性が読んだり、女性向けマンガを男性が読んだりと性別を超えて越境的にコンテンツ受容がなされ、男女ともに総体としてオタク文化系コンテンツを消費し、その文化産業を支えている。男性が女性・女児向け文化コンテンツを、女性が男性・男児向けコンテンツをどのように受容しているかは人によって異なるため定かではないが、受容の形態がいかなるものであれ、男性が少女向け性教育漫画を、女性が男性向けスポーツ漫画を「誤読」したり、越境的に両性ともに異性向け文化を消費している。また女性もポルノを多様なかたちで消費しており(守)、ロリコンマンガを受容する女性や、女性のロリコンマンガ家も多数おり生産者を担っている。2015年11月13日付の日経MJにおいて「これまでアニメグッズや関連イベントを総称する『オタク市場』は男性向けというイメージが強かったが、今や女性もその一翼を担う」という指摘がなされているが、これはまったくの「誤報」である。ロリコンブーム時にもすでに男性のみならず女性の受容者・生産者も多数いた。大塚によれば、『レモンピープル』とならぶロリコンマンガ雑誌である『漫画ブリッコ』の読者の半数弱が十代の女性であり、執筆者もまた半数が彼女たちよりはわずかに年長の女性たちであった、と指摘している(大塚i、p.43)。コミケ初期の頃から参加者の大半は女性であり、同人誌生活文化研究所の三崎尚人によれば、現在もサークル代表責任者の6割が女性である。とりわけ初期になればなるほどそれは顕著であり、最初期のコミケにいたっては女性が9割以上を占めており(2-2-2-4 同人誌およびコミックマーケット公式サイト)、コミケ以前においても男性より極めて早い段階で同人活動を行っていたのは女性であった(ササキバラ、pp.21~23)。

3-2 身体の変化

 社会の変化は必然的に生物である私たちの身体の変化をもたらす。私たちは今なお遺伝子と環境との複雑な影響下において進化の途上にある。私たちは明治からたった150年ほどで、平均身長は伸び、鼻は高くなり(埴原、p.201)、ひと昔以前よりも出っ歯でなくなり(同書、pp.250~251)、歯槽性突顎が少なくなり(同書、pp.24~28)、西洋人の顔に近づきつつある。また、それだけに限らず小顔化し、ひいては親知らずの生えるスペースがなくなり歯ならびに支障をきたすまでにいたっている(同書、pp.257~270)。戦後の栄養状態の大幅な向上やGHQによる徹底した民主化とアメリカ文化の流入は、高度経済成長下における消費社会の中で、わたしたちの身体や精神をどのように変え、それがどのようにしてオタク=ロリコン文化を誕生させたのであろうか。

3-2-1 平均寿命の上昇

 まずもって私たちの身体に起きた最も大きな変化は私たちの平均寿命が大幅に伸びたことであろう。厚生労働省によれば2014年における日本の平均寿命は、男性が80.50歳、女性が86.83歳とある。1947年の平均寿命は男性が50.06歳、女性は53.96歳であり、男女ともに、約30年近く平均寿命が伸びたことがわかる(厚生労働省『平均余命の年次推移』)。これはインフラストラクチャーの進歩と医療技術と生活環境が大幅に改善されたことが大きな理由であろう。そもそも私たちの社会は戦前から昭和の初めにかけて女性は10代前半で婚姻関係を結び子どもを産むことが慣習であった。刑法は13歳未満の性交を違法としており、女性に関しては16歳で結婚可能という現在の価値観とは大いにかけ離れた法は未だにその名残を残している。山田耕作の赤とんぼには「15で姉(ねぇ)やは嫁に行き」という歌詞があるが、明治から戦前にかけての一般的な農村の風習を歌にしたものである。それ以前の江戸、安土桃山、縄文に遡れば遡るほど平均余命はますます下がるわけだが、日本の性風俗については赤松が詳しく、農村の少女は13歳~16歳で一人前の娘と見なされ生殖を行う一員として共同体に再編入された、と指摘している(赤松)。

 上記からロリコンは、ある意味で生物学的観点からは度を超えた小児性愛でない限りそれほど異常な反応ではないと言えるのではないだろうか。たしかに二次性徴をまったくもって迎えていない幼女を性的対象とすることはマイノリティーという意味では異常だろう。だが10代前半の二次性徴を迎える頃の女性を性的対象とすることは、男性にとってむしろ正常な反応と言えるのではないだろうか。2002年の『データブック NHK日本人の性行動・性意識』によれば、男性の場合、13歳未満の相手とのセックスについて、「してみたい」と積極的に回答した男性は、10代(16-19歳)では6%、20代では5%、30代では4%、40代では1%、50代では8%、60代では0%と報告がなされている。また「どちらかといえばしてみたい」という問いには10代(16-19歳)では8%、20代では7%、30代では3%、40代では1%、50代では0%、60代では1%と報告がなされている。各世代について「してみたい」と語った割合を見ると、10代(16-19歳)では14%、20代では12%、30代では7%、40代では2%、50代では8%、60代では1%となり、性欲が旺盛な10代、20代、30代の若い世代の平均を見た場合、この世代のみを見た場合11%、すなわち10人に1人が13歳未満とセックスをしてみたいと考えていることがわかる(NHK「日本人の性」プロジェクト、p.247)。

 また男性の場合、18歳未満の相手とのセックスについて、「してみたい」と積極的に回答した男性は、10代(16-19歳)では25%、20代では22%、30代では13%、40代では8%、50代では7%、60代では2%と報告がなされている。また「どちらかといえばしてみたい」という問いには10代(16-19歳)では32%、20代では22%、30代では16%、40代では8%、50代では9%、60代では5%と報告がなされている。各世代について「してみたい」と語った割合を見ると、10代(16-19歳)では57%、20代では44%、30代では29%、40代では16%、50代では16%、60代では7%となり、性欲が旺盛な10代、20代、30代の若い世代の平均を見た場合、この世代のみを見た場合43.3%、すなわち10人に4人が18歳未満とセックスをしてみたいと考えていることがわかる(同書、p.246)。

 13歳未満との性交を望むものは少ないが、18歳未満との相手と性交を望むものが多くいるのは規模的な点から考えれば異常とは言えないだろう。同性愛を性的倒錯から除外することに尽力した性科学者のリチャード・グリーンは、小児性愛感情を持つ一般人は20%~25%存在していることを指摘し、ペドフィリアもまた性的倒錯から除外するよう主張している(Green)。そして、ロリコン、ロリータ・コンプレックスのことばが存在しない以前の時代、および平均寿命の短い時代においては、どの文化圏においても未成年との性交は自然なことであり、生物学的に10代の若い女性に性欲を抱くことは異常なことではなかった。

 ちなみに刑法で13歳以上との性交が違法でないからといはいえ、仮にそれが真の合意を得られていた場合にせよ、児童福祉法や児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童保護等に関する法律、また青少年育成条例違反、ならびに売春防止法などの法律に抵触する可能性はある。

3-2-2 思春期迎年齢の低下

 また戦後の社会は平均寿命の上昇のみならず、思春期を迎える年齢の低下をもたらしている。栄養状態が豊かな社会においては統計的に女性の思春期を迎えるのが栄養状態が豊かでない社会より低年齢化する (Soliman&Santics)。つまり、性成熟の年齢が早まるということである。初潮を迎えた場合、年齢を問わず生物学的には性的成熟の証拠であり、生殖が可能である。たとえ、それが若い個体であろうと性成熟を迎えたメスを性的対象とすることはオスにとって不思議なことではない。しかし、生物学的に正しいことが道徳的に正しいことを意味しないことは明記しておく(ソーンヒル)。

3-2-3 童顔選好性

 豊かな社会関係資本は私たちの異性の顔の好みまで影響を与えるようだ。BIOLOGY LETTERSに掲載された論文によれば、豊かな社会において男性はより童顔の女性を魅力的に感じる傾向があり、日本は最も女性らしい童顔な顔を好んだ結果が出ている(Ursula)。これは場合によっては前項と同様の内容を見方を異なる角度から見ていることかもしれない。というのも、思春期の低年齢化ということはそれだけ童顔なままに性成熟を迎えることを意味しているからだ。

 ロリコンがしばしば問題になるのは、豊かな社会関係資本がもたらした平均寿命の上昇と性的成熟の低年齢化という真逆のベクトルの現象が生み出したギャップに起因しているからではないだろうか。ロリコンとはそうした生物学的な身体変化と現在の女性や子どもの人権意識の向上、搾取関係の是正といった世界的な風潮、年を経た女性の若さへの嫉妬など、さまざまな社会的倫理や葛藤の絡む中に形成された複雑な現象であると言える。

3-3 精神の変化

 「金の卵」と謳われた集団就職の世代、文化・経済ともに爛熟を迎えた「新人類」世代と、私たちの精神性は総体としてたえざる変容を繰り返してきた。ここでは戦後から昨今の「ゆとり世代」や「さとり世代」の若者たち、あらゆるメディアに囲まれる「オタク世代」たちの精神の変化に焦点を当てる。

 社会学者の宮台真司は上野千鶴子との対談において、「萌え」の象徴的存在である「デジコやデジキャラットというエプロンをつけたメイド・ロボットのようなキャラクター(NHK「日本人の性」プロジェクト、p.162)」を例示し、コミュニケーションやアフターケアが面倒な「オタク世代」の若者が現実の女性よりも楽にセクシュアリティーを発露できるメディア・セックスを選好するというのも、また総体として変わりゆく精神のひとつの例だろう。

 ロリコンの誕生には、豊かな社会関係資本における身体の変化のみならず、私たちを取り巻く現在の環境および歴史的コンプレックスもあげられるのではないだろうか。岸田秀が『ものぐさ精神分析』において指摘した外的自己と内的自己との相克を参考にしながら(岸田)、本項では私たちの精神の変化について考察を試みたい。

3-3-1 アメリカン・コンプレックス

 日本が太平洋戦争でアメリカに敗戦したのち、GHQが日本の政治・経済・文化といったありとあらゆる分野で改革を行った。戦前禁止されていたアメリカ文化が怒涛のように流入し、憧れの存在というアメリカのイメージは日本人の精神性に大きな影響を与えた(吉見a)。オタク系文化の源流を第4章で論じる日本の伝統文化に見ることは間違ってはいないが、江戸の文化が直接的にそのままオタク系文化と結びつくわけではないだろう。東は「オタク系文化の歴史とはアメリカ文化をいかに「国産化」するか、その換骨奪胎の歴史だった(東a、p.20)」と指摘しているが、戦後のアメリカ文化がもたらしたサブカルチャーがあって、はじめて日本のサブカルが生まれたことは忘れてはならない(ニッポン戦後サブカルチャー史)。

 しばしば日本はアメリカの第51番目の州であると揶揄されることがあるが、文化のみならず、こと政治経済から国防まで日本はさまざまな分野でアメリカと極めて親密な、一見すると従属的にすら見える関係を築いている。アメリカに対するコンプレックスは、今もなお米軍の傘に守られている私たちにとってある種のあきらめをもって受容されている思想である。現代日本文化研究者で明治大学准教授の森川嘉一郎はディズニーがもたらした、暴力と性を徹底的に排除したセルアニメに暴力と性を徹底して込めて表現すること並びに、マイクロソフトがもたらしたパソコンに美少女を表現させることとを日本人の支配の欲望の発露であると指摘しているが、それもまたひとつのコンプレックスの証であると考えていいのかもしれない(森川、pp.106~109)。

 戦後のアメリカの文化は私たちの美意識に影響を与え、それは現在まで何ら変わってはいない。こと美意識に関しては、幕末のウェスタン・インパクト以来、高身長、二重で大きな瞳、高い鼻に見られるギリシア彫刻的西洋の美が日本における目指されるべき美の基準となり、欧米コンプレックスとして今日にも脈々と受け継がれている。海外のとりわけ、欧米の文物ならばなんでもありがたがる傾向は未だなお根強い。近年のプリントクラブに搭載されている目を異様なまでに大きく加工させる機能は肌を白くさせる美肌効果と共に頻繁に使用され、SNSなどのプロフィールにその写真がきわめて多く用いられているわけだが、かつて宮崎駿が語った「日本人は日本人の顔が嫌いだ(草薙、p.98)」とする過激的な発言もあながち嘘ではないようだ。

 なぜ西洋人の、西洋的な顔は美しいのか。進化心理学的に西洋人の高い鼻などの傾向はほとんどの文化圏において、たとえ西洋の文化圏に触れたことがないエイポ人の文化圏においても性的魅力として機能している。それは中国、ヨーロッパ、アフリカでも同様だ(レンチュラー、p.18)。西洋人的な鼻柱は神経美学的に普遍的に「美しい」と言える。また色白を優れたものとみなす美意識は『日本書紀』における「白粉で飾らずとも美しい」という記述から、日本においても奈良時代からあったと考えられる(日本顔学会、p.359)。総じて現代においてもなお西洋的な顔立ちが美しいのは、西洋人が近代以降の世界を牛耳る力を持っており、それと交配することが種の保存に有利だからという進化心理学的理由も少なからずあるのかもしれない。

 西洋的な美しさは三次元だけではなく、二次元においても私たちの美意識を変化させた。森川はこの美意識の変化について「これまでも日本の漫画やアニメの美少女を、平安の引き目鉤鼻から江戸の浮世絵の美人画に連なる美人画の系譜に位置づけるような雰囲気はあった。そしてそれは、ある程度の妥当性を帯びているようにみえる。平安美人から江戸の瓜実顔まではなだらかな変化の系図をたどれるし(図1参照)、それは竹久夢二(一八八四 - 一九三四)や高畠華宵(一八八八 - 一九六六)らを代表とする明治・大正の美人画を経て中原淳一(一九一三 - 八三)らの昭和初期のイラストレーションにいたるまで、スムーズに延長できる。(森川、pp.97~99)」と語り、続けて「ところが、戦後のアニメ絵に繋ぐには、一つ無視しがたい突然変異ともいうべき変化がある。それは、眼の異様な巨大化である。確かに竹久から中原にかけて、浮世絵の美人画の糸のように細い目はつぶらでぱっちりしたものに変わっていった。西欧文化の影響にともなう、美人観の変化がそこに刻印されている(図2参照)。ただしアニメ絵の、顔の半分を占めんばかりの巨大な眼は、そうした美人観の変化で説明するにはあまりに異形である。そこでもう一つ注目すべき違いは、アニメ絵の美少女がおおむね幼女のごとく幼顔に見えるということである。アニメ絵を見慣れたオタクの眼は無意識に上方修正するような歪みをきたしているが、アニメ絵の顔だけの部分を外国人に見せると、その絵が描かれた時に意図されたキャラクターの年齢よりもずいぶん低く取られることがほとんどである。眼が大きいというのは、赤子や幼児の顔のプロポーションの特徴なのである。(同書、pp.99~100)」と指摘する。つまり、日本古来からの、ウェスタン・インパクトを経てもなお、繋がるゆるやかな連続性に基づく二次元美少女と戦後の二次元美少女の造形表現の間には明らかに大きな変化があるということだ(日本顔学会、pp.402~404)。そして、その異様な目を伴った幼い印象を与える造形的変化が形成された背景に森川は日本の文化的ヒエラルキーという巨大な戦後的構造と手塚治虫という絶大な影響力を持った作家の存在を挙げている(森川、pp.94~102)。手塚治虫に関しては5-2 手塚治を参照せよ。

 二次元美少女のみにおける変化のみならず、三次元の人形においても同様の変化の傾向がうかがえる。とりわけ、リカちゃん人形においては初代リカちゃん(昭和42年)から二代目リカちゃん(昭和47年)を経て、ロリコンブーム真っ只中の三代目リカちゃん(昭和57年)の頃にはすでに今と変わらぬ「和洋化」がなされ、バービー人形のような初期のアメリカ的リアルで「奇妙」な造形表現から大きく抜け出し、大きな瞳で小顔な幼い印象を与えるかわいらしいデフォルメされた的造形へと変容している(増淵)。また3-3-3 禁忌の侵犯で二次元美少女の鼻についても言及するが興味深いのは、リカちゃん人形の顔の鼻の造形表現についてであり、鼻の穴がより目立たないように、鼻の存在感を消していく造形がなされていく過程が見て取れ、それはリカちゃんの妹の変遷過程において極めて顕著に見受けられる(同書、p.162)。

  

  

3-3-2 抑圧社会

 海外と比較した際、日本社会はしばしば抑圧的で閉鎖的な社会であると言われる。メディアアーティストの藤幡正樹も筆者とのインタビュー時に同様のことを語った。抑圧ということばには大きく分けて心理学的側面と社会学的側面といった二つの意味があるが、本稿においては思ったこと、感じたことを自由に発話したり、行動することを制限する、すなわち遮る、憚る、慮るといった心理的な自主規制ならびに、そうせざるを得ないような雰囲気を生み出す強烈な同調圧力といった双方の意味で用いる。

 均一化を求め異分子を排除しようとする学校生活やスーツ姿で黒一色に染まりながら、個性を消す就職活動は海外の目には奇異で異様に映る。海外をよく知る日本の識者は国民全体で発狂しているとすら言う。手書きで大量の履歴書とエントリーシートを書かねばならない無駄な労力の前例踏襲は未だ改善されず、不採用の際には「お祈りメール」が送られ、たとえ就職できたにせよ法令遵守を掲げる大手企業でなければ残業手当も出ないまま長時間労働を強いられる。ブラック企業はまだまだ多いのが現状だ。4-7で言及する男社会における会社組織は、一部ベンチャー企業や外資系資本企業を除き、未だなお多様性を認めず年功序列的や抑圧的な封建制度および封建的雰囲気を根強く残す。ヴェイユは労働者を真に苦しめるのは、仕事が求める肉体的苦痛や物理的拘束ではなく、雇用主や工場長といった上位社が求める恣意的で理不尽で不透明な従属であると指摘し、それが労働者の身も心も傷つけると結論している(ヴェイユ)。

 また個人が主流でない意見を述べた際に共同体から冷遇されたり、社会的な圧力、または乱暴な反応を受ける可能性を危惧することで自由に話すのをためらう社会的雰囲気も抑圧社会の表れであり、そうした社会的風土を取り払うことの方が政府の抑圧や規制を防ぐことよりも困難である。身近な共同体レベルでの自由な言論環境の醸成は、こと日本に関しては、政府の方針によって是正されることが望まれるわけだが、2015年に国境なき記者団より発表されたデータによれば日本は世界各国の中で61位と先進国中では極めて言論の自由が抑圧された社会であると示されている(2015 WORLD PRESS FREEDOM INDEX)。思ったことが自由に言えない社会においてはますますストレスが増大し、その結果として、匿名のヴェールに包まれた有象無象で構成される罵詈雑言の言論空間がSNSや2ちゃんねるにおいて形成されるのではないだろうか。

 抑圧的な日本社会において過度なストレスにさらされ適応できない者は、心を病み、うつ病を発症したり、引きこもりとなり、最悪の場合には自殺にまでいたる。年間3万人近い人々が自殺で命を落としている現状は社会が何らかのかたちでストレスという名の心の負荷を多くの人に与えていることの表れとみて間違いない。

3-3-3 禁忌の侵犯

 アメリカン・コンプレックスと抑圧的な社会とロリコン文化とは密接な心理的関わりがあるように思える。というのも、私たちの心理現象や美意識もさまざまなコンプレックスの影響を受けて形成されているからだ。

 エロ劇画の時代から西洋的な美を有した二次元美少女を日本人男性は「犯」してきた(米澤b)。近年において興味深いのは、視覚的造形的な顔の変化、とりわけ二次元美少女の鼻の小型化である。精神科医の斎藤環が『けいおん!』を素材とした描画スタイルの変遷過程を示したパロディ作品を紹介しているが、そのパロディ資料からは60年代アニメからゼロ年代アニメのヒロインの変遷過程が見受けられる。斎藤は目の変化について言及するため画像を提示したのであるが、そこに副次的に鼻の小型化も見てとれる(斎藤d、p.127、図3参照)。

 90年代までは鼻の鼻梁は線で描写されていたが、近年の二次元美少女の正面顔の造形表現においては鼻を明瞭に描かず小さな点のみ、もしくは描かない、描写が主流になりつつある。鷲田清一は『ひとはなぜ顔を気にするのか-〈顔〉の現象学』の中において魅力的な顔に見られたいと願い行われる化粧を考察する過程で「その時代に誰もが好ましいと思う顔の造作に倣うことでしか,自分を魅力的に見せることはできないからである.だから,みながその時代に流行している化粧法になびく.時代が変わればあっと驚くような化粧法に,みなが殺到するのである.(日本顔学会、p.334)」と指摘している。鷲田の論を敷衍すれば、鼻の小型化が2015年の現在において多くの人々にとって流行にいたるまで魅力的であると言っていいだろう。そして、その一方で、キャラクターの横顔においては戦後、ともすれば明治から鼻が高く鼻梁も浮き上がり極めて西洋人顏的造形表現が一貫して行われている(同書、pp.124~125)。この近年見受けられる二次元美少女の魔術的描写に西洋コンプレックスとさらなる美的嗜好の変化が指摘できる。

 かつて、私たちは欧米に憧れ、それを追いつき、克服しようとした歴史がある。しかし結果は第二次大戦の敗戦というかたちで終結を迎えた。日本の男性の多くが決して勝ち得ぬアメリカおよび決して逆らえぬ上位者という存在を西洋的外観を備えた最弱者のイコンたる少女に仮託し、矮小化し、それを性的に消費することで征服・所有し、本能としての雄としての面子を保つという防衛機制を働かせてきたのではないだろうか。ロリコンマンガに数多く見られる強姦シーンは男としての本能を思い出し自負心を得られる極めて安易な手段と言える。なぜ対象が二次元の成人女性ではないのかといえば、趣味性の問題が大きく、受容者の好みに大きく依存するからだろう。しかし、サディズムの快楽が相手に苦痛を与えることに加えて、社会的に容認されるはずのない被虐行為を行っているとメタ認知することによってその快楽が増幅されることは確認しておきたい(廣中、p.136、オーガス&ガタム、pp.319~321)。それゆえに児童を保護する法律が整備されればされるほど(3-2-1 平均寿命の上昇)、より低年齢の、鼻が小型化された、より無垢な幼い二次元美少女へと対象を移行すればするほど、禁忌性が増し、快楽もそれに応じて増幅される。

 私たちは自覚的か無自覚的に西洋人の顔に美を認め、そのモデルに基づいて現実には存在し得ないキメラ的美少女を合成し、長きにわたり憧れながら、それを性的に消費し、犯し、戯れてきたわけである。私たちは上位者に対する憧憬と憎悪の複雑なコンプレックスを解消するために、性を通じた、セクシャリティーのリアリティーを通じルサンチマンを解消・発散させ精神のバランスを保つ。斎藤は「「日常的現実」と解離した「もう一つの現実」という空間を維持するためには、しばしば「セクシュアリティーの磁場」が必要とされる(斎藤c、p.320)」と指摘しており、性欲こそが虚構化によって破壊されず、抵抗可能なものであり、虚構空間に移植することができるものである、としている(同書、pp.320~321)。顕在意識の世界においては性を通じた肉体的実感を伴って次元を超える。

 日本のポップカルチャー研究者でありマギル大学教授のトマス・ラマールや比較メディア研究者でマサチューセッツ工科大学准教授のイアン・コンドリーは、オタク的行動に資本主義的支配を打倒する、または何か代替的な道をもたらす可能性を指摘しており(コンドリー、p.303)、東はさらにオタクによるロリコンマンガの受容を社会への容易な抵抗であるとも指摘している(Mcnicol)。

 現実には不可能な逆らってはならぬ相手に逆らうこと、および抵抗すること、またルールを逸脱することを性という極めて身体的でアクチュアルな方法を駆使して禁忌を侵犯することで私たちは瞬間的に抑圧的な社会に対するインティファーダを行っているのではないだろうか。社会的な成熟と爛熟、そして長期的な平和の実現によって憧れの対象がマッチョイズムとしての西洋的美から、より無垢な、よりかわいいものへ、両立可能なままに移行・変容しつつある。マンガ・アニメ描写に見られる正面からは鼻をあまり描かず大きな目を造形的に持ち、なおかつ横顔が西洋的美をともなった近年の二次元美少女はその過程で生じた表象と言えるのではないだろうか。

 昨今の引きこもりやうつ病、自殺は同調圧力の極めて高い逸脱を許さぬ社会が主たる原因だろう。日本の抑圧的な社会における規則やルールからの束縛から逃れたいとする衝動は、女児という極めて犯すことが許されざる禁忌的存在をペックナンバー的に性的に消費するという形で表れている。経済的な不況が長引く中、経済的に恵まれない層にとってウェブにアクセスすれば即座に召喚できる二次元美少女は極めてアクセスしやすいストレス解消の手段として機能している。1982年の月刊総合誌『潮』にも当時のロリコン大学生のインタビューが掲載されており「(ロリコン的行為に際して)犯罪を犯したっていうか、実にいけないことをしてるって快感があるんです。あのパンティーをかぶったOB田中康夫の性癖もなんとなくうなずけますね。いわゆる“ださい、もてない、なさけない“の三重苦に悩む大学生のはけ口として、絶好の精神安定剤になっているんじゃないでしょうか(キャンパス誌『一橋マーキュリー』編集部の中田勇君=三年)(岩田)」という言説からもその禁忌の侵犯の快楽性がうかがえ、その快楽原理は現在においても変わらない。

 しかし、そうした禁忌的存在を性的に消費するのみにおいて、日本の男性はストレスを解消しているとは言い切れないだろう。いくばかりかの性的濃度からは逃れられないとはいえ、かわいい対象を性的に消費せず、癒しとして受容する姿も見受けられる。そうした曖昧で複雑な受容態度は不思議の国ニッポン像を醸成し、海外のみならず日本国内においてもさまざまな論争をもたらしている。

3-3-4 女児化する世界

 大塚が『少女民俗学』において世界が少女化すると予言してから、四半世紀が経ちそれは現実のものになりつつある(大塚a)。昭和天皇がかわいいと形容され、ありとあらゆるものがかわいいの対象となった昨今、カワイイはkawaiiとなり世界の主要先進国に輸出され受容されている。人類学的観点から見れば自己家畜化がはじまった5~6万年前から人類において幼児化および女性化が進行しているとも言えるわけだが(テイラー、pp.298~304)、そのカワイイはテクノロジーの発達により、より身近な存在になり、より単純呈示効果を増し顕在化している。ここで興味深い実験を紹介したい。人間によって人間に懐きやすいよう35世代の選択交配をされた野生のキツネは、オスもメスも頭蓋の高さと幅が小さくなり、鼻は短く、かつ広くなり、また攻撃性も低くなった。つまり、家畜化したオスは「メス化」したということである。研究者の中にはこれがネオテニーの特徴であり、人間は自らを自己家畜化した動物であると考える者もいるが(同書、pp.307~311)、仮にこのネオテニー説に則った場合、日本は国際的に外見、内面共に幼児・女性化した社会である言えるのかもしれない。統計的に歴史を通じて人類の暴力は徐々に減少してきている(Pinker)。このまま私たちは、豊かで平和な世界で「ユートピア的」ボノボのように(ズデンドルフ、p.51)、性を超えた性交に耽りながら、平和的に、よりいっそうかわいくなっていくのだろうか。

 本項目ではカワイイ男たちがなぜ幼い印象を与える美少女を性的に消費、すなわち空想の中で征服・所有することと同時に対象そのものに没入し、精神的・肉体的に同一化しようとするのか、考察をしていく。

3-3-4-1 少女趣味

 少女趣味とは、一般的な少女に共通して見受けられる感傷的で夢幻的かつ甘美な情緒を好む傾向である。ここでは第2章 ロリコンの誕生と歴史の冒頭にて言及した田山花袋とは異なる類のロリコン、すなわち太宰が『斜陽』にて「少女」に自己を仮託することで感受していた質感を享受して「萌える」ロリコンについて吟味を行う。なお少女を性的に消費せず純粋にかわいいという点で受容する態度がロリコンと言えるかどうかに関しては、1-3-2 萌えという概念を参照せよ。ここでは、幼い印象を与える美少女に対して濃度の差はあれ幾ばかりでも性的な質感をを当人、または第三者が感知すれば、広義な意味でのロリコンであるとして、考察を続けていく。

 明治維新時、富国強兵のもとで『少女界』が明治35年に創刊されたのを皮切りに多数の少女雑誌が発刊されジェンダー的役割を明確化した(増淵、p.17、米澤a、pp.14~15)。厳しい抑圧的な家父長制のもと良妻賢母の価値観が広まる中、主に雑誌を通じて表象された甘美で幻想的な少女趣味が少女たちを「癒し」、かつ「少女」化した。それは戦後の大量消費社会において一段と加速し少女漫画雑誌の付録などと相成り継続的に国内に遍く受容された(大塚d)。

 男性の少女趣味は古く、ともすれば『土佐日記』で知られる紀貫之にまで遡及可能であり、その心性の文化的ミームは脈々と現代にまでつながっている。しかし、女性同様男性においても近代以降の「少女」概念の誕生から少女趣味というものについて考えてみたい。少女趣味に関しては稀有なことではなく小説家の川端康成や三島由紀夫を筆頭に、少女漫画を描いていた手塚治虫やその後継者たち、コミケットの立ち上げに尽力した米澤嘉博や自らを「少女」と形容する漫画編集者の大塚英志、またあまり知られていない事実であるが宮崎駿や高畑勲など日本を代表する男性文化人で少女趣味を有している者は多い。アーティストや編集者のみならず、一般の男性においても少女趣味を享受する者は多く、その多くが美少女、とりわけ二次元美少女を性的に消費することと同時に性的濃度の薄い幻想的で甘美な少女趣味として受容し、その中間領域を気ままに楽しんでいる。

 マンガ編集者の伊藤剛は、美少女系マンガ家たちが「私は、女の子になりたくて美少女絵を描いている。現実の自分は決してかわいい女の子になれないことをじゅうぶん、わかっているから、女の子絵を描くのだ(東b、p.229)」という告白を何人からも実際に聞いたと証言している。男性がかわいい存在を性的に消費するだけでなく、趣味的に極めて性的濃度の低い顕在意識で趣味的に受容すること、ならびにストレス社会における一時の清涼剤的癒しを求めることは珍しいことではない。首都大学教授で社会学者の宮台真司は、1970年代からアノミーに陥った少女が陸奥A子に代表される「乙女ちっく」的な「かわいい」に繭籠りして心身を守っていたと指摘し、その繭という防衛手段が少女たちから少年たちへ受け渡されたとも語っている(東c、pp.75~77)。また宮台は「先が読めず、夢も持てない時代、「かわいい」をベースにした社会的文脈の無関連化機能は、どこの国でもその有用性が見出される可能性があります。日本だけでなく世界中で、直接的・間接的にグローバル化によって危機的状況に陥る人間が増えれば、「かわいい」の延長線上に展開したアキバ系キャラによって楽になれる人間もどんどん増えていきます。(同書、p.82)」と指摘し、宮台は是非はともかくとして、医学的観点から、何らかのコクーニングツールが存在することで、各種メンタルな病気の症状化を防ぐことができることを肯定的に捉えている(同書、p.82)(3-3-2 抑圧社会)。マンチェスター大学で日本文化研究者のキンセラ教授は、1980年代の日本の若者が「かわいい」を現実的生活からの避難場所として受容していることを指摘しているが(Kinsella b、p.252)、それは現在においても変わってはいない。2003年の『日経消費経済フォーラム会報』のレポートでは、20代男性においては商品を通じてキャラクターに接した時に全体の25パーセントもの男性が「癒される」に近いイメージを有している、と報告されている(堀田、p.199)。またコンテンツ文化史学会(2015年11月28日)においてキャラクター・データバンク代表取締役社長の陸川和夫によれば、2015年6月の調査においてキャラクターの効能として癒し・やすらぎを求める男性が32.6%であると報告している。2003年から10年余りが経過するがキャラクターに癒しや、やすらぎを求める男性の数が増えていることがうかがえる。男性がキャラクターに癒しや、やすらぎを求めることは意外に知られていないわけだが、男性自ら語る者も極めて少数で、単純に男性のかわいい受容が顕在的に知られずらかっただけであろう。しかし、それがテクノロジーの発達によって、また時勢の変化でオープンに語られる機会が増加したことで顕在化し、男女間における越境的ジェンダー文化の受容は近年ますます盛んになっている(3-1-6 ビジネスを参照せよ)。女子が少年漫画を読んだり、男子が少女漫画を読んでいたとしても一昔前に比べ驚きはしないのではないだろうか。

3-3-4-2 大きいおともだち

 大きいおともだちとは、『プリキュア』などの女児向けアニメを視聴したり、ゲームセンターなどで『アイカツ!』の筐体で遊びに興じ、女児向けコンテンツを消費する成人男性のことである。彼らは二次元美少女を性的に征服・所有しながら消費しつつも、その一方で対象と同一化したいという願望を有している。

 ロリコンは性的に二次元美少女を受容するだけでなく、単純に女児が通常視聴する受容態度で、限りなく性的に薄い濃度の質感を感じながら、幼女向けアニメを閲覧している場合が考えられる。『プリキュア』の視聴や『アイカツ』の筐体で遊ぶアイカツおじさんなどは、3-3-2で言及した抑圧的な社会に対する抵抗の果てに辿り着いた退行現象であり、児童回帰願望の現れであると考えることができるだろう。しかし、単純な児童回帰であるならば女児アニメである必要はない。仮面ライダーシリーズもウルトラマンシリーズもアンパンマンもある。しかし、あえて女児向けコンテンツを志向する背後には児童回帰願望とともに「かわいい」対象とひとつになろうとする同一化願望が心理的側面にある。

 大きいおともだちがかわいいに向かうベクトルの心理的解明は近年話題になりつつある「男の娘」がヒントを与えてくれそうだ。次項では「男の娘」について考察し、男たちが「かわいい」を希求する要因を考察していく。

 ちなみに、小学生向け性教育漫画、たとえば『ないしょのつぼみ』など、を成人男性が読むケースがあるが、それはアイカツおじさんが純粋に女児向けコンテンツを受容する態度とは異なり、禁忌的な女児の心の恥部を覗き見する快楽を性的に受容している。そのような層の存在がある限りアイカツおじさんの大半も同様の眼差しでコンテンツを受容している可能性は排除できない。性欲とプラトニックラブとかわいい対象への同一化願望が複雑に絡み合う受容者の質感に関しては冷静かつ客観的な美学的考察が必要である。

3-3-4-3 男の娘

 2000年代半ばから注目されるようになった男の娘(おとこのこ)という概念がある。これは女装男子とも呼ばれ、「オカマ」や「オネエ」、「シーメール」とは異なる新たな概念である。男性でありながら外見や性格が女性にしか見えない者を指し、性転換の有無や性的指向が同性愛か異性愛かは問わない。「〈オタク〉文化は一貫してフェミニズム的な批判に晒されてきたが、〈男の娘〉は、もはや〈少女〉を欲望の対象にしていない点において、これまでの欲望のあり方とは異なるように思われ、驚きを与えた(ユリイカ、p.85)」という日本近代文学者の樋口康一郎の指摘は、先に言及した大きいおともだちが〈少女〉を、少なくとも顕在意識下では性的欲望の対象として見ていないという点で軌を一にしている。彼女たちの存在もまた近年の社会がもたらした「かわいい」と内面的・外面的に一体化しようとする現象の一部なのではないだろうか。

 比較文化研究者の佐伯順子は「「性同一障害ではなく、女の装いそのものを楽しむ「彼女たち」の背後には、「生きづらい男社会の現実」や、男でいることの閉塞感が、現実の社会の映し鏡のように見えてきた」と指摘されるように、女装は「背広は嫌い!思いっきり嫌いっ!」と管理社会へのアンチテーゼとなり得、当事者から、いまだ男性に主流的に担わされている生計や社会的責任からの解放を期待されてもいる(同書、p.83)」と指摘し、「かわいい」ものへの一体化が抑圧的社会からの逃走であり、なおかつ闘争でもあることを示している。抑圧的な社会に対する抵抗の詳細に関しては3-3 精神の変化を参照せよ。

 少女漫画における花の二十四年組から脈々と続き、昨今、市民権を得たと言っても過言ではない女性の同性愛を描く百合文化というものがある。樋口は「〈百合〉文化を受容したオタク男性たちは、〈少女〉を賛美する文化において、〈少女〉の清らかさに同一化した果てに、男性性を醜いものとして嫌悪して「所有」の欲望を廃棄して(もちろん完全に捨て去ることはできないのだが)、〈少女〉に「なりたい」という「憧憬」の欲望を持つに至ったと説明できるだろう。(同書、p.88)」と語り、続けて「〈百合〉ブームの後で、〈男の娘〉が登場するのは、〈少女〉に「なりたい」という欲望がエスカレートし、現実化していく過程と捉えることができる。(同上)」と述べている。

 日本近代文学研究者の久米依子によれば、『らき☆すた』や『けいおん!』といった「少女たちしか登場しない学園ものにおいて(久米、p.79)、オタク男子たちには「少女のコミュニティーに紛れ込みともに戯れたいという願望が潜んで(同上)」おり、「男性は女性をリードするべきだという規範を、男性自らが忌避する傾向が示されている(同書、p.80)」と指摘しているが、マジョリティーの男たちにとっては純粋に性的欲望なく少女たちの中に紛れ込みたいという願望のみではないはずだ。やはり、先に言及した完全に除去し得ない生物学的男性の種の保存に基づく性的欲望はマジョリティーの男子であればいかなる濃度であれ存在していると考えていい。「かわいい」に近付こうとする男たちは少女という対象を征服する快楽と、それに同一化する快楽との二つの微妙なクオリアを同時並行的に享受し「一体化」しているといった方が適切ではないだろうか。

 「男の娘」現象の理由を経済史的マクロな観点から求める向きもある。メディア文化研究者の田中東子が男性学研究者である伊藤公雄の論考(伊藤、pp.1~28)を参考にした上で自身の見解を語っている。以下は引用である。

 「男性による女装、とりわけ男性がかわいさを追求する「男の娘」という新しい現象を成立させている理由について、男性学での議論がひとつの回答を与えてくれる。伊藤(二〇〇九、二二)によると、近年、「地球規模で生じつつある近代的なジェンダー構造からの転換の動き」が進み、「男らしさ」イデオロギーが揺らぎ始めているという。確かに、近代化は人々を男性的主体化へといざなう壮大なプロジェクトである。かつて、フェミズムの目的のうちには、いかに男性的主体と対等な立場を獲得するか、というものがあった。それに対して、脱近代(ポストモダン)は、男性的主体への一体化・同一化からの自己の解体の時期にあたるとも考えられる。工業化から脱工業化へと産業構造が変容し、ケア労働と気遣いのコミュニケーションが必要とされる時代。こうした転換は、とりわけ男性たちの間に、「多くのストレスと不安、さらに生活の困難を生み出」(同上)していると伊藤は主張する。(ユリイカ、pp.128~129)」と語ったのち、田中は「ケア労働と気遣いのコミュニケーションが要請される社会では、男性でもイケメンであること、少なくとも見苦しくない外見であること、自己身体への厳しい配慮が要求される時代になった。(同書、p.129)」という指摘をしているわけだが、これは世界的潮流における女性化ならびに、こと日本における少女化を意味しているのではないだろうか。

3-4 まとめ

 第3章では、オタクが豊かな現代の社会関係資本とアメリカに対する歪んだ精神構造のもとに生まれた現象であることを確認した。抑圧された社会の中で男たちは幼女や少女という弱者のイコンを征服し、所有すると同時に、その対象に同一化し、癒しを求めようとする複雑でハイコンテキストな感情を享受しながら現代の過度なストレス社会に抵抗し心のバランスを保っている。かつて和辻はもののあはれを女の心に咲いた花である、と形容したが日本男性の心の中にもかわいらしい花は咲いていたのである。

第4章 ロリコン文化を許容する伝統的風土

 日本に特異的に見られる文化にもののあはれがある。本居宣長も新渡戸稲造も日本の象徴に桜を選んだわけだが、日本で生じたロリコン文化にも桜を愛でる心と共通のものがある。本章では、高階が「美しいものに対する上代人たちの感受性は、今もなお生き続けているように思われる(高階a、p.213)」と語ったように、高階の指摘を参考に(同書、pp.203~213)、今なお私たちの中に生き続けている伝統的文化的風土ならびに社会的風土からロリコン文化の考察を行う。

4-1 もののあはれ

 もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)とは、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つであり、折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁を意味する。苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念である(清水)。日本文化においての美意識、価値観に影響を与えた思想であり現代の私たちの文化的ミームに脈々と受け継がれ、それはわびやさびなどの日本文化の基盤を構成している。ロリコン文化もまた本質的にもののあはれと密接に繋がっているのではなかろうか。ここでは興味深い現象を紹介したい。

 1970年代末から80年代当時のロリコンブームの際に人気を集めたキャラクターに共通点が見られる。それは『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年放映)の登場人物であるクラリス、『アルプスの少女ハイジ』(1974年放映)のハイジやクララ、『母をたずねて三千里』(1976年放映)のフィオリーナ、また『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年放映)のヒルダに見られるように、幸薄で、どこか病弱で、はかなく、健気な印象を与える少女が人気を集めていることだ(『アニメージュ1982年5月号』、p.126)。当時のアニメーションは放映数が今よりも少なく、作品も勧善懲悪的でキャラクターが魅力的になるためにあえて感情移入しやすい健気なキャラクターを出演させたためそこに人気が集まったのかもしれないが、いずれにせよ、もののあはれを喚起させるキャラクターを制作者が選び、そしてその受容者の多くに共感され人気を集めたことがうかがえる。この2次元美少女キャラクターたちの共通点に関して永山のことばを借りれば「壊れやすいもの、繊細なもの、小さきもの、幼いもの、か弱きもの、不完全なるもの、断片的なもの、愛らしいもの、歪んだもの、病んだもの、儚きもの……(永山、pp.81~82)」といった「フラジャリティー」があげられる。このフラジャリティーに美的感情を抱くことは源氏物語や平家物語にさかのぼることも可能であろう。高月がインタビューした漫画家はロリコン的なものに惹かれる理由をこう語っている。「(繰り返しになりますが、)純粋にかわいいから…というのと、やはりどこか儚いものを感じているからかもしれませんね。命短し恋せよ乙女、少女の時期は短くてあっという間に過ぎ去ってしまう。だからこそ、その瞬間を永遠につなぎとめておきたいと願い、幻想を追い求めるんじゃないでしょうか。そして二次元の世界ではそれが可能なので、みんな創作に熱中するのかもしれません。(高月、p.121)」と語るように、彼は少女にはかなさを感じていることがわかる。この少女に感じるはかなさと桜が散るはかなさ、ならびに蛍や花火という表象に類似的質感を感じることはできないだろうか。総体として「フラジャリティー」を愛でるしみじみとした情感を享受する美的嗜好が見てとれるはずだ。斎藤が指摘する日本人好みの「戦闘美少女(斎藤c)」も性的倒錯的観点からの分析もあろうが、ただ単純にはかなく、かわいい存在が懸命に頑張る姿に共感し、もののあはれを感じているという要素の方が大きいのではないだろうか。

4-2 かわいい

 元来「かわいい」ということばも「もののあはれ」に似通った部分がある。古くからあることばの歴史に注目してみよう。日本文化に親しむ者が抱く懐深い心情表現からその痕跡をうかがうことができる。

 「かわいい」は「かはゆし」という顔はゆしに由来し、顔が火照る気持ちを表したことばである。文献に初出するのは12世紀に編纂された今昔物語集においてであり、「痛ましくて見るに忍びない。気の毒だ。不憫だ」という意味であった。「かわゆし」が現在の「愛らしい。かわいらしい。子供っぽい」という意味で用いられる原型は1603年にイエズス会が刊行した日本語辞典に見ることができる。そこには、Cauaijという項目があり「同情、憐憫の情を催させる(もの)、あるいは同情の念を抱く(こと)(四方田、p.34)」と説明されている。近世には「かはゆらし」、「かはいがる」など新名詞・動詞化がなされ、近代になって現在の意味での「かわいい」ということばと意味が一致するようになった(同書、pp.33~36)。また大塚も動物マンガ『ほのぼの』のシマリスを例に〈かわいい〉と〈かわいそう〉の同義性について同様の指摘をしている(大塚a、p.246)。

 また平安期に現在の「かわいい」に相当することばは「美し(うつくし)」であり、11世紀初頭の『枕草子』にその使用を見て取ることができる(四方田、pp.31~33)。小さなもの、また幼く、無邪気で、純真で、大人の庇護を必要とする「かわいい」未成熟な存在に美を認め肯定的に愛でる日本人の心性は千年前から文化的ミームとなって脈々と受け継がれている。また、そのテキストも時の淘汰に耐え今も共感されながら読まれ続けていることから、日本人はメタに自らの美的嗜好を自覚してもいる。語用例からも「恥ずかしくて見苦しい」から「不憫で見ていられない」という哀れみの意味に移り、最終的に愛らしい、子供っぽい意味としての「かわいい」に変化した。つまり「かわいい」は弱者や不遇なる者に対する憐憫に深く根ざした概念を原初に持ち、そこから派生するかたちで「フラジャリティー」を愛でるポジティブなものへと変容したわけだ。かわいそうなもの、あはれむべきものに美を見出す美意識は私たちの文化的および生物学的・遺伝学的ミームに根強く残り、現在も脈々と私たちの感受性の中に受け継がれている。

 日本の文化は古来より、少なくとも平安の時代からはかなく散りゆくものを尊んできた。日本文化にある程度慣れ親しむものであるならば、かわいそうなもの、およびかわいいものを嗜好する美的傾向が男女問わずあるはずだ。今をときめくアイドルでもあるAKBのセンターを務める指原莉乃によれば、ダンスは拙いくらいの方が丁度よいといった類のコメントを述べている。アメリカや韓国などの海外のアイドルは歌も踊りも完璧なショービジネスを求められる傾向にある一方で、日本は拙さを含めた、子どもっぽい、応援したくなる部分を残している方が好まれるというのも、かわいいに重きを置く心性を有しているからだろう。

 ロリコンブームの初期コンテンツには極端に性的な要素、すなわちエロ要素が大規模になかったことは先に確認した。ブームのはじめは、もののあはれを喚起させるはかない二次元美少女に「あはれ」と「かわいい」が混在した「フラジャリティー」を感受するだけで、オタク第一世代にとっては十分に魅力的だったのである。

 しかし「pity is akin to love」という英語のことわざもある。恋愛は憐憫に近し、憐れみは恋の始まり、とも訳されるこのことわざはひょっとすると洋の東西を問わず恋と哀れに美的質感において共通な部分があることの証なのかもしれない。悲劇や健気な少女が活躍する物語は万国共通であり、もののあはれを尊ぶ文化だけでは、ロリコン文化がなぜ花開いたのか、その理由を説明するにはまだ十分ではないだろう。次項は日本における造形的な文化的土壌を考察する。なお「かわいい」存在に対しての所有・征服、および同一化の欲望に関しては3-3 精神の変化を参照せよ。

4-3 丸・柔・華奢

 古来より日本で好まれる造形的デザインがある。それは丸いもの、柔らかいもの、華奢なものである。ポケモンやキティちゃんに見受けられるかわいい印象を与える造形表現は、現在の秋葉原の街角を彩る低頭身キャラクターである萌えキャラに代表されるようにアニメ・マンガ・ゲームなどさまざまな分野で見受けられる。ゆるキャラなど現実空間においても全国津々浦々幅広く老若男女に受容されており、果ては天皇陛下にまで受容されている。丸く、柔らかく、華奢な造形表現は歴史的にさかのぼれば、国風文化にその起源を垣間見ることができる。遣唐使の廃止以降、中国を中心とする大陸文化の影響を脱した日本では国風文化が花開いた。この国風文化の時期の仏像(例:『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』など)はそれまでの大陸伝来の硬質なデザインとは異なり、和様と呼称され全体的に丸く優美に柔らかくデザインされている。国風文化の絵画で有名な『鳥毛立女屏風』も柔らかな輪郭線で丸くふくよかな輪郭線が見て取れる。近世の例をあげれば琳派や円山応挙、仙厓もあげられるだろう。当然、日本のデザインのすべてが丸くて、柔らかで、華奢な文化から構成されていると主張するつもりはない。ここで確認したいことは、日本の文化に丸くて、柔らかで、華奢なものが歴史的に造形デザインのひとつの主流を成してきたことである。高月がインタビューしたロリコン漫画家は幼い少女の魅力について「まず純粋に見た目で言うと、小さくてかわいらしい、柔らかそう。そのまんまですね。子猫なんかと同じ小動物的かわいさと、あとこれは二次元限定ですが、そこに幾らかの性的魅力がプラスされたような感じでしょうか。ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、個人的にはこの世で最も完璧な造形を持った存在だと思っています。(高月、p.118)」と語っていることから、丸くて、柔らかく、華奢なものが合わさった造形表現として、そのすべてを満たす表象に女児があるのではないだろうか。

 事実、現在巷にあふれているロリコン文化を代表して表象するキャラクターの大半は、顔は丸く柔らかで、手足は華奢な造形表現がなされている。そもそも女性それ自体が丸く、柔らかく、華奢であり、女児とはその女性性をさらに強調した存在である。また手塚治虫の代表キャラクターであるピノコに見られるような二頭身、三頭身といった頭数の数が少ないずんぐりむっくりした女性キャラクターも華奢ではないが、丸く、柔らかいという2つの要素がより強調された造形的表現で構成されている。日本文化に慣れ親しんだ者はこうした丸く、柔らかで、華奢な造形表現を選好するようになるのではないだろうか。

 『魔法使いサリーちゃん』(1966年)から現在の『Go!プリンセスプリキュア』(2015年)まで「魔法少女」モノは半世紀もの間、絶え間なくモチーフを変えながら描かれ続けてきた(須川)。かわいらしいヒロインたちは一生懸命に健気に奮闘し、受容者に「あはれ」で「かわいらしい」質感を与えてきた。そして、それは今もなお女児のみならず「大きいおともだち」に対しても広範に受容されている(3-3-4-2 大きいおともだち)。

 デジタルハリウッド学園創設者の杉山知之は、「かわいい」存在がなぜ好まれるのかについて以下のように語っている。「つまり「かわいい」ものを持つこと、愛でることでの「癒し」や「安心」を得ているのではないだろうか。『楽しい』だけとも違い、心の安定が得られたり、気持ちがおだやかに、なごやかになるのだろう。一九九〇年代の後半から、「癒し系」「なごみ系」という言葉が盛んに使われるようになり、『たれぱんだ』も一斉を風靡した。デザインやデザイン史から見ると、とくに美しいとも優れているとも言えないけれども、「なごむキャラクター」として人気が出た。(杉山、p.80)」という杉山の指摘からもこうした丸く、柔らかい造形表現は近年の日本において変わらず好まれていることがわかる。そして、こうした造形的特徴は現在、ゆるキャラや「萌え」キャラの中に文化的ミームとして脈々と受け継がれている。癒しに関しては3-3-4-1 少女趣味を参照せよ。

4-4 アニミズム

 生物・無機物を問わず、認知可能で、かつカテゴリー分類可能な存在や現象そのもの、またその中に、霊魂、または神・霊的なものが宿るとする考えである。イギリスの人類学者タイラーによって「発見」され、普及させられた概念であり、語源はラテン語の魂・生命を意味するアニマに由来する。動きを与えることで、ひとつの生命体を生み出すに等しいことから、魂を付与するという意味でアニメーション、アニメにもその言葉が用いられている。日本においては、自然崇拝、汎霊説、精霊信仰、地霊信仰などとも呼ばれている。タイラーによって発見される以前から、日本においては古来より、すでにアニミズムの信仰はあり、太陽や山や海、川、空、大地などの大きなカテゴリー的自然、また雷や雨、風、火などの現象的自然から、岩や動物、人など様々なカテゴリーに分類可能な対象に神・霊的なものが宿ると考え、崇拝の対象としてきた。上記の自然崇拝は神道として今もなお日本文化の中核を担っている。ロリコン文化とアニミズムの関係は、擬人化にある。神・霊魂的なものが宿るとされる対象・現象を人とみなし、人と扱うことでコミュニケーションが可能となり、人々はその対象の霊魂の「不在」を余白として自らで補う。擬人化は少なくとも『鳥獣戯画』にまで遡ることができ、「萌え」キャラもゆるキャラも擬人化において魂を付与された存在であり、歴史的連綿性が見て取れる。オタク文化はさまざまな対象を貪欲に擬人化し、キャラ化し、ネタにする。現在では備長炭や艦隊から、電子機器、技術系、元素、はてはテロ団体から「日本鬼子(リーベンクイズ)」という侮蔑語、さらには擬人化の擬人化まで、その擬人化の射程は極めて広範であり、そして、その中の大部分が「萌え」を想起させる二次元美少女に擬人化させられている(斎藤d、pp.211~216)。お気に入りの二次元美少女を「俺の嫁」と形容し、ロリコン文化コンテンツの主要な造形物である「痛」枕を抱いて眠る行為も擬人化によって支えられている。

4-5 をかし

 をかしとは、対象に没入することなく、知的・批評的に観察し、捉えることで生じる情緒のことである。平安期に盛んになった『源氏物語』に代表されるもののあはれと並ぶ美的理念のひとつであり、『枕草子』にその典型的な使用が見受けられる。社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込む狂歌や川柳にも「をかし」は見られ、オタク=ロリコン文化、およびそれを構成する「萌え」や「同人誌」、「パロディ」などの諸概念にも客観的、つまりメタに機知を楽しむ知的かつ批評的な「をかし」の態度が見受けられる。

 オタク的気質としてしばしば自虐があげられる。自らを嘲笑、および皮肉的に客観的にメタ認知する思考であり、しばしば二次元美少女に対しての強い思い入れを表現する際に顕著に現れる。特定の二次元キャラクターに対する強い愛着を表す「俺の嫁」ということばは恋愛対象を二次元にしていると自らで主張する自虐的なことばであり、異性から好意を寄せられることがない、または極めて少ない「非モテ」という意味も込められることがしばしばある。他にも車を二次元美少女で飾り立てる「痛車」や、抱き枕やマウスパッド、ベッドシーツなどの二次元美少女グッズをあしらって装飾した「痛部屋」などが「痛い」例としてあげられるだろう。「痛車」や「痛部屋」の「痛」という文字は痛(イタ)いを意味し、本人はかっこいいと思っているが、それが一般世間や社会から見た際に非常に珍妙で非常識な状態であることを意味している。オタク(=ロリコン)が自らで「痛」をつけることによってメタに自虐的に見ていることは確実だ。近年話題になったISISを揶揄するクソコラグランプリという加工写真も、あえてクソというネガティブ語を接頭辞とすることで自虐的視点が付与されている点は「痛い」というメタ的自虐と共通している。

 ロリコン文化の中心を占め、しばしばその過激な表現から非難や規制の対象になるロリコンマンガがあるが、これも近年に限って見られた傾向ではない。誇張されたペニスや乳房、また大量の精液、そして、子宮の内部まで描かれる造形表現などはすでに江戸の浮世絵にそのいずれの表現も見ることができる(美術手帖b、p.46、p.52など)。浮世絵は、笑絵とも呼ばれ、受容者たちはひとりのみならず複数以上で集まって現実には”あり得ない”造形表現を笑いながら堪能していたわけだが、この二次元の誇張・脚色された性表現は虚構だと分かった上での娯楽であり(高月、pp.124~125)、ひとつのシャレとしての「をかし」をそこに見てとることができる。

 同人誌の世界に詳しい米澤嘉博によれば、「〔ロリコンは〕アニメの美少女キャラを題材にした男の子の遊び(同書、p.104)」であり、「パロディをやりやすい対象として、アニメやマンガの美少女キャラがある(同上)」と語っている。竹熊もアニメ美少女のロリコン表現は「最初は『シャレ』とか『パロディ』の一種だったと断言できます(東b、p.107)」と語り、竹熊は「手塚系統の可愛らしいキャラがセックスをしたり、カルピス名作劇場のハイジとかクララを強姦するようなパロディ・マンガ(同上)」は上の世代の写実的な描き込みがなされた劇画に対しての「大人社会に対する異議申し立て・反抗(同上)」が主目的であったと語っている。そうした社会風刺であったロリコンマンガに対して「数年を経ずして、本当に「それでオナニーする」ことを表明する人々」が登場し、驚かされたとも語っている(東b、pp.107~108)わけだが、カミングアウトした者たちも、またひとつの客観的・機知的な「シャレ」であったととらえることもできる。

 日本文化全般に極めて造詣の深い高階秀爾は対談の中で、引用とパロディおよび剽窃の創造性を指摘し(高階、pp.104~105)、多様性の中の笑いの一分野として性的な笑いも日本の伝統文化のミームとして存在してきたことを同様に指摘していることからも、しばしばコミケに見受けられる同人誌が発生し、活況を呈しているのは、一定の必然性がある。

 しばしばロリコンたちが自らを揶揄し、自重を求める「YES ロリータ NO タッチ」ということばは「をかし」を楽しむ現れとも言えるだろう。そこでは現実の犯罪に明確な一線を設けて知的に楽しむ趣向がある。そして、その質感の背後には「をかし」のみに述せられない美的理念が隠れているのではないだろうか。すなわち、粋である。

4-6 粋

 粋とは九鬼の定義によれば「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)(九鬼、以下、九鬼に関する引用は青空文庫からである)」であるという。九鬼は粋を三つの徴表に分析する。

 九鬼によれば「「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である」という。「「媚態」は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである」と九鬼自身定義している。九鬼は「得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない」と、荷風を引用したのち、「異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によって齎された「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。それ故に、二元的関係を持続せしむること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本質であり、したがって「歓楽」の要諦である。媚態の要は、距離を出来うる限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。」と結んでいる。つまり、九鬼は媚態の交わるか、交わらぬかの極限の緊張感の中に粋を見ている。

 さらに、九鬼は「「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である。」とも述べ、「意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児の気概が契機として含まれている。」と語っている。つまり、江戸っ子に見られる洒脱なやせ我慢の中にもまた粋を見ているわけである。

 最後に九鬼は「「いき」の第三の徴表は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。」と述べ、「我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないであろうか。」と総括をしているが、これはオタク(=ロリコン)の気質に相通じている部分があるのではないだろうか。

 たしかに粋は九鬼が総括したように、「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」であり、これはオタク(=ロリコン)と真逆に思えるかもしれない。しかし中森が蔑視・嘲笑したステレオタイプ的典型的な外見のみならず、その内面性に焦点を当てた場合、そこに粋を見て取ることはできないだろうか。つまり、交わるか交わらぬかの妙味、すなわち二次元美少女および三次元の美少女との間にいかに近づこうとも決して交わり得ぬ緊張感がたえず存在し、そしてその一線を決して超えぬやせ我慢の意気地こそに江戸っ子の美学を見て取ることはできないだろうか。ササキバラは『ルパン三世 カリオストロの城』のラストシーンについて、獲得可能な女性(クラリス)をあえて手に入れないことで美少女を雲の上の崇高な女神として保持し、自らの存在の根拠たらしめる複雑な男性心理を指摘しているが(ササキバラ、pp.50~53)、このように、成人男性(ルパン)がその少女(クラリス)の幸せを願い、性欲を自制し決して一線を越えない姿に粋を見てとることができるはずだ。また編集者の堀田純司はこの「ふれたい、でもふれられない(堀田、p.26)」といった「虚構と実在との狭間、想像と現実の境界で自覚的にたゆたう行為」を「萌え」とし、萌えることの楽しさである、と指摘し、萌えと粋における質感の類似性を語っている。

 そして、上記に呈示した美少女に対する漸近の美学とともに、対象そのもののが有する表象的な粋、すなわち、うなじや、襟袖、襟足、チラリズム、ハイソックスとスカートの間の「絶対領域」といった際(きわ)を楽しむといった面でも粋を見て取ることができるのではないだろうか。

4-7 間

 日本絵画にしばしば見受けられる「間」は観者の想像力の余地を残し、遊びを含ませる。俳句や短歌は短い言葉の制約の中に美を聴かせ、聴者に余韻嫋々の楽しみを促す。古来より日本人は「間」を楽しんできた(高階b、pp.287~320)。ロリコン文化と「間」は一見すると関係がないように思えるかもしれないが、「間」はオタク(=ロリコン)と極めて親和性が高く、論者によっては萌えに余白を充足する楽しみを見出す。アニメーション監督である鶴巻和哉は、萌えを「特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」と答えている(堀田、pp.24~25)。岡田は枯山水や茶室、歌舞伎といった日本の伝統文化と特撮とのあいだに「間」を想像力で補う「見立て」ならびに、その方法論である省略とデフォルメにおいても「間」の連続性を見てとれると指摘している(岡田a、pp.133~165)。マンガはまさに余白やデフォルメ、さらに省略といった「間」の文化そのものを体現する。またマンガ編集者の大塚英志は断片的な情報が記載されたビックリマンチョコレートシールを例に挙げ、物語の不在を自らの想像力で補填するおたくの傾向を指摘している(大塚c、大塚f)。これは自らが満足する物語を生み出し、新たな物語を自らで再生産する二次創作への原動力とも言える。

 比較文化学者の四方田犬彦は「「萌え」はつねに不充足をともなっている。本来が実在しないものをめぐる接近行為であるから、映像として所有することはできても、けっしてその実体に到達することはできない。その欠損を埋めるためファンは空想に耐え、対象をめぐるプライヴェイトな物語の主人公たろうとする。対象をミニマルに象ったフィギュアが蒐集され、それでも空隙を補填できないと知ると、みずから対象を模倣して祝祭的な自己提示に向かう。「コスプレ」、すなわち costume play と呼ばれている仮装変身がそれに当たる。(四方田、p.155)」と語り「萌え」に埋めるべき余白性があることを指摘している。ラブドールを製造しているオリエント工業の児玉延之によると「世界にスキを作っておいたほうがいいんです。(堀田、p.126)」と語り、ヘビーなユーザーほど「間」を自身で補う自由度の高い遊びを求めると指摘している。

 建築家の磯崎新は高階らとの懇談会の中で「間」の概念を「空(うつ)」に見出し、「空(うつ)」が「移ろい」や「移り気」というように「移(うつ)」に変わっていく連綿性を語り、「うつろひ」について、「うつ」に「ひ」が充満する瞬間を感知すること、と説明したのち、「うつろひ」を移行の瞬間であると指摘している(高階b、p.301)。これは茶室や茶の精神、また枯山水、徘徊など一連のわびさびを表象する文化の中で感知される表象、すなわち、とどまることなく流れゆく時間の諸行無常性と相通じるものがあるのではないだろうか。また空間的にも茶室の簡素な佇まいの中に奥深い「空」を感じとることができる。

 「間」そのもの、ならびに「間」を補うこと、双方を楽しむ文化的ミームは「見立て」やマンガ、二次創作、「萌え」といったオタク系文化のミームに脈々と組み込まれている。

4-8 男社会

 日本で少女ヌード写真ブームが起きる1970年代から欧米先進諸国ではすでに児童ポルノに関する法律が立案・施行されていた。1999年の児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律が施行されるまでの約30年近い間、日本国内において性表現に関わる摘発が警察において時折なされてきた反面、実質的法整備をせず児童の裸体写真の取り締まりを放置してきた。日本の立法・法改正は迅速性に欠け、立案されたとしても継続審議や度重なる関係者への調整・根回しなどが数多く見られる(園田、p.2)。時には時間の都合や解散などで廃案になり、またはじめからやり直されるケースもある。ロリコン文化が隆盛である理由のひとつとしてこの法整備の遅さもあげられるのではないだろうか。

 日本では立法を司る国会、行政を司る内閣、それを監視する裁判所のどの組織も男性の占める割合が圧倒的に高い。立法・法改正を行うには有権者が国会に代表者を送り、彼らが代表して法案を作り、委員会で精査し、国会で承認を得るプロセスが必要なため手続きには甚だ労力をともなう。そのため大多数の有権者にとって本当に必要とみなされない限り、腰が重く変化を嫌う「総意」としての国民の心性があるため立法や法改正はなかなかなされ得ない。そして国民の代表者たる国会議員の大半が男性であれば、家父長的法はそのまま放置され、旧態依然のまま男性の利害が国会における日本国の主要な利害となる。

 1970年代の高度経済成長期に日本から東南アジアに向けて売春ツアーが大々的に組まれていたわけだが、海外国内にかかわらず幼い印象を与える少女を性的に消費する楽しみを享受していた当時の男性有権者は容易に楽しみを手放そうとは考えなかっただろう。日本政府は基本的に女性や子どもをはじめとする社会的弱者の人権意識に鈍感なところがあり、国際的な人権条約の批准も欧米先進諸国に比べフットワークが極めて重い。一連の法的整備の遅れがロリコンを助長したのか、それとも、ロリコンが多いから一連の法整備が遅れたのか、つまるところ定かではないが、ロリコン文化が日本で見られる要因のひとつにこの男社会が背景にあることは確かだろう。オタク系関連産業の市場規模が3兆円とも言われているが(原田)、ロリコン文化コンテンツがビジネスとして促進されているのは経済的背景から女性より所得を多く占める男性が支えていることも要因のひとつとしてあるのかもしれない。なお、キャラクタービジネス全体では女性の消費の方が男性よりも多い。

 文化的・芸能的にも男性好みの演出がなされるテレビという圧倒的影響力を有する電子メディアにおいても山口百恵(高月、pp.66~68)やおニャン子クラブなどの美少女アイドルは性的に際どい歌詞を歌い、水着になってきた。そして、それは今もAKBなどに文化的ミームは引き継がれ、圧倒的人気を誇り恒常化している。1999年の児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の施行、並びに改正児童ポルノ禁止法以降の現在においても、ジュニアアイドルやU-15アイドルの「着エロ」、すなわち、きわどい水着を着てあからさまに性的なメタファーが組み込まれた写真集やDVDは、ポルノでないと自称することで、今なお根強く発売されている。

4-9 良好な治安

 ロリコン文化が盛んな背景には統計的実証的な治安の良さがあげられるだろう。もし仮に児童虐待が数多く日本社会に見られるのであれば徹底してロリコン文化コンテンツは規制されていたかもしれない。いくら男社会ではあれ社会的に極めて悪質な問題を放置しておくほど日本社会の中枢を占める男たちは愚鈍ではなく、現にたびたび児童ポルノ法改正など児童虐待に関するさまざまな立法と施行がなされている。多数ある法律の種類に関しては3-2-1 平均寿命の上昇を参照せよ。

 実際のところ、有害コミック騒動などしばしば物議や議論、および規制の対象になるマンガ・アニメ・ゲームは犯罪を助長する効果があるのか定かではなく、精神科医の斎藤は「むしろ、ロリコン表現はパロディや虚構と言う限定的な枠組みとともに流通し、そこには少女を凌辱する表現と同じくらい、少女を守る/守られると言う倫理的表現も存在している。(斎藤a、p.111)」と指摘しているため、メディアの影響をまま受けるとする弾丸理論や皮下注射理論を示す科学的根拠は今のところ存在せず、破綻している(同上)。自然は芸術を模倣するとワイルドは語ったが、そればマンガ・アニメ・ゲームのみならず、映画や小説、連日のマスコミの過激な報道にも言えることであり、実際に犯罪を犯すにいたるまでにはその他にも、たとえば家庭環境や職場、対人関係でのトラブルなどさまざまな理由があるはずだ。オタク(=ロリコン)に対する誤った報道がステレオタイプを助長させ、社会の大部分に治安の悪化や増え続ける凶悪犯罪や少年犯罪といった統計に基づかない誤ったイメージとともに蔓延させられているのが現状である。

 強姦被害者統計(菅賀、ウェブ版)を参考にした場合、その被害者の数は統計でさかのぼられる限界の1958年から大幅に減少を続け、近年においてはおおまかに微減微増を繰り返し、ほぼ横ばいの状態が続いている。また強制猥褻被害者数の統計を参考にした場合、2000年代に一時増えるが、これは社会全体が痴漢やセクハラに対して敏感になり発見が促進されたと推測される。そのためか幼児よりも発見されやすい年長者被害数が急増していることがわかる。法務省の2008年の調査では、性犯罪の90%弱が暗数として隠れている状態だとされているが、仮にその性犯罪の全てを児童への性的暴行だと仮定しても、北欧諸国における児童への性的暴行発生率を超えないのも日本の圧倒的治安の良さを示している(法務省 犯罪被害実態(暗数)調査、p.5、UNDOC)。

 また児童虐待事件においてミーガン法のウェブサイトによれば、被害者が子供である事件の90%では加害者が知人であり、そのうち半数弱が家族の一員であり、被害者が12歳以上の事件では、およそ80%の場合加害者が被害者の知人である(ミーガン法ウェブサイト)。実際の児童虐待の半数が実父や義父などの親族によって起こされており、その場限りの通り魔的犯行は極めて少ない。統計に基づき、かつマスメディアでなく実際の日常生活における皮膚感覚においても良好な治安はロリコン文化の表現行為に対する寛容性につながっている。ことに日本においては世界でも極めて稀である男性の父親と娘がお風呂に入る文化があり(鴻上、pp.193~195)、娘側の時間短縮の目的から二次性徴を迎えた中学生の娘と父がお風呂に入るケースも報告されているわけだが、これも良好な治安と子どもはある程度成熟するまで実質の性の対象になり得ない、見なさないとすることの現れなのかもしれない。

 ちなみに、レイプ犯罪者は社会経済的階層の高い男性も行うが、社会経済的階層の低い男性、すなわち資源を持たず、女性への性的接触が乏しい男性の方が絶対的に多いことが指摘されている(ソーンヒル、pp.133~139、条件付き戦術としての人類のレイプに関してはpp.156~158を参照せよ。)。日本が世界的に見て良好な治安を維持しているのは貧富の差が欧米ほど顕著でなく、一億総中流が崩壊しつつあるとはいえ一定の割合で機能し、多くの男性が一定の資源を得られていることがその背景にあるのではないだろうか。そして、主にリビドーを発散させる自慰に用いられるロリコンコンテンツを含む性的商品が得られやすいことも良好な治安の理由の一つに挙げられるのかもしれない(3-3-3 禁忌の侵犯)。

4-10 妹背

 古来、日本では恋人同士が妹と背と互いに呼び合っていた。恋人同士だけでなく、愛情という絆で結ばれた夫婦または兄妹間でも融通し適宜用いられていた。妹という「かわいい」存在は常に男性の庇護欲求を刺激し、その保護を受けてきた。この妹背という歴史的語義運用に見受けられるような、愛情と性欲と庇護欲求などの複雑に入り混じった感情を美学的に明確に差異化することなく、曖昧性を担保したまま用いる表象形式は古来日本から現代の今にいたるまで脈々と受け継がれている。大塚は妹に「萌え」てきた近代文学者たちの存在を指摘しているが(大塚k)、これは、今でいう「萌え」といった質感表現にその文化的ミームが継承されている(1-3 萌え)。近年、メディアミックス的展開が行われた『シスター・プリンセス』(1999年)という作品があるが、これは「お兄ちゃん大好き」というキャッチフレーズで知られ、総勢12名の妹たちが登場し、「お兄ちゃん」、「お兄ちゃま」、「あにぃ」などさまざまな呼び名でコンテンツ受容者を「萌え」させ、「妹萌え」という一大ジャンルを築いた。「妹萌え」は「萌え」の極めて主要な、すなわち王道的とも言える「萌え」であり、今日では意識的に用いられないほど同化し過ぎてしまっている。

 近年では『俺の妹がこんなに可愛いわけがない。』(2008年)や『ノーゲーム・ノーライフ』(2012年)などアニメ化された人気作品にも多くの妹背の愛が描かれている。近年以前の過去においても、バンドグループであるかぐや姫の曲『妹』(1974年)や、フジテレビ系のテレビドラマである『妹よ』(1994年)に見受けられるプラトニックな家族愛的受容から、アダルトビデオゲームである『恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐHしちゃうの』(2003年)といった極端に性を前景化させた受容まで広範な妹への情愛表現がさまざまなメディアにおいて表象され、人気を集め消費されてきた。

4-11 まとめ

 第4章ではロリコン文化を成り立たせる伝統的風土を文化と社会の両側面から考察した。人権意識の低い男尊女卑社会において、平安文学の二大潮流である「もののあはれ」と「をかし」とが「かわいい」造形表現を支えロリコン文化を複雑に構成している。世界と比較した場合に幼女や少女に対する極めて低い強姦や猥褻事件数に見られる良好な治安が、幼女や少女を性的に消費することを「シャレ」として機能させていることも確認した。主にマンガ・アニメ・ゲームなどのオタク系文化に現れる幼い印象を与える二次元美少女や三次元美少女に対する情愛表現は、日本の伝統的風土を構成する諸要素が相成って醸成されたものである。

第5章 ロリコン的記号

 日本のロリコン文化を語る上でしばしば忘れがちになるのがその表現形式である。歴史的に幼い少女を主題とした文学や絵画、映画などの芸術、また娯楽作品は古今東西に散見される。しかし、同じ主題を扱うにせよ、海外の少女愛文化を日本と同様ロリコン文化と呼ぶにはいささか抵抗を感じる。というのも海外と日本では4-8で言及した良好な治安や4-4で言及した「シャレ」を受容する文化的風土という点で異なることもさることながら、そのメディアにおける表象形式も大いに異なるからである。海外、とりわけ欧米の「ロリコン」コンテンツはどちらかといえば、完全なペドフィリア的児童虐待犯罪を想起させるか、または禁忌的およびアート的文脈に重きがおかれるニンフ的なロリータ趣味であり、とりわけ後者に関しては、その未成熟の中に垣間見られる妖艶さに焦点が注がれ、主な表象メディアは写真および映画、または写実的絵画など実写的描写を中心とした児童エロチカである。一方で日本の幼い少女を主題にした「ロリコン」コンテンツは、丸く、柔らかく、華奢にデフォルメされた記号的に線で構成された二次元美少女を中心としており、開放的で明るい点が海外と大きく異なる。確かに線とロリコンはそれ自体では実質的な関係を持たないが、ロリコン文化コンテンツにおける二次元美少女に表象されるとき、線表現はロリコン文化と極めて密接な関係を持つ。日本のロリコン文化は、洋食やラーメンと同様、社会化・土着化し(速水、p.5)、和製英語となっている。つまり、日本のロリコン文化とは、線、および線的に表現された幼い印象を与える二次元美少女が文化コンテンツの中心にあり、その周縁、または同等にフィギュア、アイドル、およびローティーン・アイドルなどの幼い印象を与える現実の二.五次元美少女、三次元美少女が布置されているということだ。法により児童ポルノが禁止された以降もこの枠組みの中でさまざまな美術・娯楽作品が膨大に製作されてきたし、今も製作されている。第5章では線という表象形式およびその線から構成される記号の受容という観点から学際的に考察し総括していく。

5-1 マンガ

 確認であるが、線とロリコンはそれ自体としては極めて関係の薄い相関を持つ。しかし、日本のロリコン文化で描かれるほとんどの二次元美少女は線および線的に表現されている。横山大観が日本画の本質は線であると語ったが、ロリコン文化においても線という表象が極めて重要な役割を担っていると考えることはできないだろうか。すなわち、こと日本に関して言えば、ロリコン文化とデフォルメされた記号表現である「マンガ」は不可分な概念であるということだ。というのもロリコン文化コンテンツの大半がマンガ的に描かれたものだからだ。手塚以前の漫画の歴史に関しては漫画研究者の清水勲の先行研究が極めて秀逸であった。清水は漫画の起源を漢籍にまで遡り鳥獣戯画から北斎漫画までを概観・論証した上で、一八三〇年代のパリの風刺画に近代漫画の原型を認め、幕末から明治にかけて変容していく日本の漫画文化を丁寧に考察し、漫画の本質を「遊び」と「風刺」に求める(清水)。手塚もまたマンガの本質を「風刺」であると語り、その伝統を継承しているわけだが、日本におけるマンガの歴史的連続性を前提とした上で、日本でなぜ「マンガ」が生まれ、発達してきたのか、ロリコンを考察するためにもマンガとの関係を念頭に入れながら論証を進めていく。

5-1-1 日本語

 アニメーション監督の高畑勲は日本においてなぜマンガが発達したのかについて日本語という言語的観点から説明を試みている。以下は『12世紀のアニメーション』より引用する。「日本のマンガやアニメは「おもに輪郭線と色面で描かれたさまざまな絵をならべ、それに言語を超えて、時間とともに、お話をありありと語ったもの」ということができます。(高畑、p.5)」と高畑はマンガとアニメを定義し、「日本でこのような文化的嗜好が発達したとして、いったいそれはなぜなのか、という疑問です。日本人が元祖の中国人以上に、文字を視覚的な<絵>として認識してきたことにあるのではないかと考えられます。(同書、p.6)」と疑問をなげかけ、自らの問いに答えを導く。「日本人は、言語的に、⑴漢字の訓読み、⑵片仮名とひらがな、⑶漢字仮名まじり文という三つの発明を行いましたが、それによってわたしたちは、ひとつの<絵>(漢字など)に複数の<ことば>(複数の音声と意味)を、そしてひとつの<ことば>に複数の<絵>を重ね合わせるという、世界でも類のない独特の言語体系を持つことになったのでした。(高畑、p.6)」と語る。その後、視覚記号と音声記号のあいまいで多面的な重層について、日本語の独自性とマンガやアニメが発達した文化的側面からの関係性を13項目の事例を挙げ簡潔に指摘している(同書、pp.6~7)。

 その上で高畑は、線だけでものを捉えることの意味に関して説明を企てている。高畑は、「本来、ものに輪郭線はない。ものを輪郭線で捉えることは視覚表現そのものでありながらも同時にある程度抽象化された「記号」としての役割を果たそうとすることである。(同書、p.142)」と述べ、「線だけでモノを捉えた絵は見ての通り、自分は本物をしのぶ「仮の姿」なのだ、ということをはじめから認めている。それは的確な描写力による優れた絵でも面白おかしいマンガの絵でもおなじである。(同書、p.142)」と指摘し、その表象を受容した時に「人は、その「よすが」を透かして、裏側に実在する「本物」の特徴やその引き起こす諸現象だけを受け取ろうとする。優れた絵に限らず、稚拙な絵であっても、モノを線で捉える絵には多かれ少なかれこのような機能があることを認めなければ、チャチなマンガやアニメになぜ、リアリティーを感じたり、感情移入できるのか説明がつかない。(同書、p.142)」とも語る。「マンガやアニメをふくむ日本の線による物語絵の多くは、絵が単純であっても、つねに姿態や表情の、なにがしかの「実感」を伝えようとしている。それが装飾画の場合でも、いわゆるデザイン的な完成度を高めるために、「よすが」的表現を放棄して完全に抽象化されることはほとんどなかった。そしてこのような感受性のあり方は、多くの他言語では単なる記号的図式的なものにすぎないオノマトペが、日本語では、常になにがしかの「実感」表現を目指していることと見事に対応する。(同書、p.142)」と述べ、その直後の文にて西洋と比較し、日本語のオノマトペの持つ「実感」性を歴史的に遡り言及し、オノマトペ表現は悲惨で恐ろしいことまで戯画化する傾向を持つため、日本の竜や虎は愛嬌者だと語る。高畑は付け加えて、同じ筆を用いる中国においても、陰影表現は捨てられず、写実を重んじる傾向が強いとし、西洋の基本語であるthingやDing、choseのように「モノとコトを区別せず、コトをモノとして実態把握しようとする傾向(同書、p.143)」を指摘し日本のものの捉え方を論証する。高畑は、これまでの輪郭線およびオノマトペ表現について以下のようにまとめている。「様式化図式化観念化を意図しているわけではないのに、ためらいもなくモノを輪郭線だけで捉えてしまうのは、オノマトペの多用とともに表現行為における不徹底性を示す。これは、見方を変えれば現世的実用または感覚的な形而下的精神のあらわれであって、捉え難いものを捉え難いままになんとか肉薄して表現しようと努力し、徹底追及によって深化・純化をはかろうとする実存的または彼岸的な形而上的精神の欠如を示しているのかもしれない。(同書、p.143)」と語り、「そしてこれらすべてが日本絵画(文化)の特徴だった(同書、p.143)」と言い切る。

 これまでの高畑の指摘を端的に記すならば、線だけでものを捉えることは、所与にして「仮の姿」、すなわち「よすが」であることを主張させながらもありありとした「実感」を伝える記号を生み出すこと、となるだろう。また高畑はアメリカの子どもも陰影表現が好きでないことも指摘しているが、これは日本人が精神年齢的に幼いだけでなく、ひょっとすると認知的機能的に幼いことを意味しているのかもしれない。イギリスに詳しい評論家のマークス・寿子は欧米人と比較し、日本人の幼稚性が際立っていることを指摘している(マークス)。日本文学研究者でボストン大学准教授のキース・ヴィンセントもオタク系文化を論じる過程で、江藤淳や土居健郎を引用しながら日本人の未熟性を指摘している(東c、pp.15~46)。

 上記の高畑の指摘に関して、精神科医の斎藤も「われわれがアニメや漫画に容易に没入し、極めて高速にそれを消費できるという事実から、次のように推論することができる。すなわち、われわれは文字を読むようにして、アニメや漫画を「読む」のではないか(斎藤c、p.282)」と高畑と同様のことをラカン心理学の観点から擁護しており、また江戸時代の浮世絵を例に挙げ、「描かれたものによって性欲を喚起し、処理するという「文化」。そう、ここで問題となるのは、いうまでもなく「エロスの象徴的表現」などではない。そうではなくて、我々はここにおいて、「描かれたものの直接性」という問題系にゆきあたったのだ。(同書、p.306)」と語り、高畑が「よすが」として言及した実感を伝える記号と同様の指摘を日本の伝統、少なくとも江戸時代からのものとして捉えている。漫画絵と台詞、また絵の中に謎解きとしての文字が仕組まれているといった絵とことばが同一の要素として同一次元に存在する表現などが江戸漫画の世界に見て取れる(湯本b、pp.203~222)。

 漫画評論家の呉智英は、「マンガの文法」について言語学的・記号学的考察を試み(呉、pp.105~111)、マンガを「コマを構成単位とする物語進行のある絵(呉、p.106)」と定義したのち、さらに記号論的に言い換えを行い「現示性と線条性とが複合した一連の絵(同上)」とも定義している。呉によれば「現示性」とは「一般絵画や写真などの場合のように、そこに表現されたものが、一望で全体的につかめる性質(同上)」である。そして「線条性」とは「鑑賞者が表現物の部分を辿りながらそれを集積することによって、全体を一つの流れとしてつかむことができる性質(同上)」である。つまり、「マンガは、コマの内部において現時性が観察され、コマのつながりにおいて線条性が観察される(同上)」ということだ。呉はマンガが有する「現示性」と「線条性」の織りなす彩の背景にアルタイ諸語を含む膠着語としての日本語を指摘する(同書、pp.109~110)。呉は図解を交えながら(同書、p.110、図4参照)、「印欧語に代表される屈折語が活用語尾変化によって単語がつながったり、「支那語」に代表される孤立語が語形変化がなく語順によって文章が成立したりするのと異なり、助詞・助動詞が基本単語を粘着させて文章を作る。また、日本語は、漢字仮名まじり文という、現示性の強い表意文字の混用システムでもある。(同上)」と語り、マンガの文法と強い類似性を指摘している。さらに、呉は韓国や台湾におけるマンガ受容の人気においてもそれぞれに説明を施している。韓国においては顔立ちの類似の他に、朝鮮語も日本語と同じ膠着語であり、仮名に相当するハングルと漢字を併用する特性を指摘している。またその一方で、孤立語である「支那語」に関しても、「支那文」の漢字の連続とマンガのコマの連続との資格的類似性を指摘している(同書、p.111)。

  

 言語学的・記号的「マンガの文法」以外にもマンガを成り立たせる日本語の言語的特徴が挙げられる。それが擬態語・擬声語(=オノマトペ)である。オノマトペは生活に深く入り込んでおり、日常会話をはじめ、万葉集や古今和歌集の頃から現在にいたるまで脈々と小説や短歌にも頻繁に使われている。小説や詩歌を味わう場合、感覚照応の効果を楽しむことも多い。感覚照応とは、複数のことばの間に相互作用つまり照応関係があることをいい、比喩の基礎ともなっている。たとえば強い光、高い周波数の音、鋭い触覚、砂糖の甘さなどはすべて「明るい」という視覚属性と照応関係などであり、日本語ではオノマトペが、母音や子音が直接大小、明暗などの感情表現と照応関係にあり、また線や図形とも照応関係にある(苧坂a、p.146)。さらにオノマトペは、感情や心情など「心の状態」を示す感情表現に転化したと推定されるものが多く含まれる。ニコニコやキョロキョロなど明示的な表情や視線の動きにかかわるものは外部から観察できる動きとともに、ワクワクドキドキなどは外からは観察できない「心の情動の躍動」を示す感性表現に転化したものまで表現することができる(同書、p.148)。これは日本で独自に発展してきた「マンガの文法」を成り立たせている大きな要因であるといえよう。さらに、日本語のオノマトペは触覚を基盤にする擬態語がとくに多く、これは日本人が触覚や皮膚感覚などに感受性が鋭いこと、さらに触覚的感性が日本文化の感性の基底にあることを示唆していることからも(同書、p.145)、ロリコンマンガの過激かつ過剰なオノマトペは性的鍵刺激として機能し、触覚的感受性に比較的優れた受容者を一層、深い禁忌の悦楽の世界へと没頭するように引き込む導入剤的役割を担っている。性的鍵刺激に関しては、5-3-4 性的鍵刺激を参照せよ。

5-1-2 輪郭線

 日常生活において線で区切られる輪郭線とは自然界には存在していない領域間の分割線であり、脳機能的にことばで世界を区切る存在しない境界線のことである。そのため線で表現された造形表現は普段生活する上で恒常的に行っている言語で外界を区切るという行為を省略、つまりひとつ、または複数の認知的作業をスキップするため、より直接的に認知機能に情報が入力される。そして、線は誇張された情報であり、自然界には存在し得ない情報、ともすれば強烈な刺激たるがゆえに受容者の心または認知機能に少なからぬ違和感を与えるのではないだろうか。事実、映画や小説はそれほど規制の対象にはならない反面、マンガやアニメ、ゲームはしばしば論争や規制の対象になるわけだが、そのいずれもが誇張された二次元表現だ。これには私たちが輪郭線にたいして敏感であるという進化心理学的仮説がある。以下はデジタルハリウッド学園創設者である杉山からの引用である。

 「なぜ輪郭線だけがそんなに抽出されるのか。人間があるときから体毛を失ってしまったらからだという研究者たちの仮説がある。ふさふさした毛皮を持たないので、人間の皮膚はエッジに非常に弱い。トゲのある葉はもちろん、木の枝でも岩の角でもすぐに傷つく。陰影や色よりも、角(エッジ)がパッと見えないと危険だ。そのために視覚に入ったものから、角を最初に認知する視覚システムができたというのである。輪郭線のみで立体的に見えるもの、大量の情報をそこから読み取ることのできる人間の脳の特性による、つまり洋の東西、文化を問わないのだ。(杉山、pp.114~115)」

 たしかに杉山の言う通り、この輪郭線に対する感覚は万国に共通である。しかし、その後杉山は日本の線表現に対して、以下のように付け加える。「しかし、描き方としてみると、輪郭線で描いた絵によって物語を作り、産業として成功している国は日本以外にない。アメリカのコミックは、たしかに輪郭線はあるけれども、やはり陰影で描いている。細かく斜線を入れたり、顔なども影となる部分を黒く塗りつぶすなどして、鼻の高さや立体感を表現する。日本の絵には伝統的に影がない。浮世絵も日本画も輪郭で色彩を塗り分けるのである。マンガ表現に陰影が持ち込まれたのは、「劇画タッチ」とよばれた手法が導入されて以降だった。陰影が多用された絵はリアリティーを増し、日本の読者にはそれが逆に非常に新鮮に思えたのである。(同書、pp.114~115)」という杉山の指摘がある。また解剖学者で女子美術大学の廣田まりもも「日本的な絵画は元来,形を輪郭線で表現する.西洋的なものの見方は光ありきの形態であるため輪郭線を描かないが,東洋においては暗闇でも形態がある限り,描き手とモチーフの距離感と空間感を輪郭線の強弱で表現する.(日本顔学会、p.401)」と語り、平安から江戸、近代そして現代へとマンガ文化が脈々と線的表現で担われていることを指摘している(同上)。

 上記の指摘から次のことが考えられないだろうか。すなわち、しばしば日本のロリコン文化がBBCなどの海外メディアから非難されるのは(Fletcher)、それは「シャレ」を機能させる社会的・文化的土壌がないこともさることながら、輪郭線および象形文字、並びにマンガに関してはオノマトペといった総合的な戯画的記号文化に慣れ親しんでいない者が違和感を感じ二重に当惑するからではないだろうか。つまり、宗教的に、また人権的に禁忌である、はかなく、弱く幼い少女を性的に描写する表現が線で誇張されるため、より動揺させられるということである。それは長年日本に住む者にとってすら物議を醸す場合もあるので、その衝撃はなおさらだろう(ベルント、pp.48~65)。またさらに、愛媛大学准教授で心理学者の大塚由実子は、生後3ヶ月の乳児でも倒立顔より正立顔で空間周波数の高い、すなわち輪郭線が明瞭な、画像を好むと指摘しているが(苧坂b、pp.69~96)、これは日本人の脳機能の「未熟性」ならびに線を好む文化と深い関連があるのではないだろうか。

5-1-3 遺伝的認知機構

 日本人のもののとらえ方に関して、海外とりわけ欧米と比較した場合、文化的のみならず、脳の働き自体に違いがあるという考えもある。ニューロンのレベルでは、漢字を勉強している人は、英語を読むときに使う経路とは大いに異なる、実に独特な一連のニューロン接続を使用しており、アルファベットのような表音文字とシュメールの楔形文字のようなロゴシラバリー文字(中国語も同様)とでは、脳の働きがかなり異なることがわかっている(メタリアン、p.19、pp.372~373)。近年では、日本語の読み書きと脳に関する研究が国内のみならず欧米からも注目を集め、「読み書きの二重回路仮説」という説が例としてあげられる。それは、「仮名は音韻経路(背側経路)、形態経路(腹側経路)の両方で処理され、漢字は主に形態経路で処理される(同書、p.373)」というものだ。また書字においても漢字と仮名では脳の異なる神経回路が重要な役割を果たしている(同上)、ということから、マンガにおいてもある特定の脳内情報処理機構が存在していても不思議ではなく、そして、日本語の読み方とマンガという読み方は同じか、または極めて類似した情報処理機構を共有している可能性が高そうだ。それは顕在意識レベルで高畑が先に言及していたことでもある。

 大阪大学大学院生命機能研究科の近藤寿人と同・医学系研究科の佐藤宏道教授は「私たちがものを見ているとき、視覚中枢システムはその階層段階に応じてレベルの異なる形態情報を処理し、大脳皮質の最終段階で視野全体の中にさまざまの物体を認知する統合された視覚世界の脳内表現が成立する。大脳皮質の視覚情報の入り口は後頭葉のV1(一次視覚野)であり、V1野にはものを見るために必要なほぼすべての情報が入力されるが、V1野の役割は物体の境界となる線の位置、傾き、長さ、太さ、動き、奥行き、あるいはある視野の部分の色など、視野各部にあるさまざまの要素的な特徴を分析的に検出し、より高次の視覚野に出力することである。以後、視覚の情報処理は幾つもの段階を経て進むが、大脳皮質の物体の情報を処理するのは側頭葉のIT野(下側頭葉)である。単純化していうなら、線の要素は、後頭葉のV1野において分析されるのに対して、面による形は、側頭葉のIT野などで分析されているということになろう。(近藤、p.315)」と線と面の視覚情報における脳内処理部位の違いを指摘し、続けて「日本の絵画は古来、輪郭線が表現の中心になっており、先の事実を基にすれば、V1野など脳の線の分析機能を刺激することによって、芸術としての絵画を成立させているといえる。絵巻物を一つの完成形である源氏物語絵巻でも、まず衣や背景が着色されたあとで、濃墨で輪郭が書き起こされて完成を見ている。江戸時代の浮世絵は、その輪郭線を生かした表現の最たるものである。(同書、p.315)」という両者の指摘から少なくとも平安後期から日本では輪郭線を選好していたのがわかる。「一方、西洋の絵画は、明確に面を重視した表現の歴史を重ねて来た。IT野機能のフル稼働である。ギリシア以来、モザイク画が発達してきたが、これも線よりは面を重んずる一つの例である。ルネサンスから前期印象派にいたる絵画は、面を主体とした絵画表現の高度化の競演ともいえる。二〇世紀に入って興ったキュビズムもまた、面による絵画表現の一つのバリエーションであろう。(同書、pp.315~316)」と語り、「西洋に持ち込まれた日本の浮世絵が、ゴッホなど、後期印象派の画家たちに鮮烈な印象と影響を与えたのは有名だが、それまで面に支配された絵画表現の中にあって輪郭線による表現(脳の異なる場所、VI野における線の分析機能を強く刺激する)が、一つのカルチャーショックを与えたのである。(同書、p.316)」という指摘から線によるカルチャーショックはまさに衝撃であり、大英博物館において大々的な浮世絵の展覧会が開催された現在においても、なお浮世絵の線の衝撃は冷めやらぬままに、その衝撃はメディアテクノロジーの発達によりマンガ・アニメというかたちで倍加され誇張され欧米を動揺させ続けている。その結果、主に線で表現されるアニメやマンガ、ゲームといった性的なロリコン文化コンテンツはしばしば議論の対象にされるのだろう。

 近年日本政府が戦略として推し進めるクールジャパン政策の中にマンガやアニメ、ゲームが含まれているが、2005年以降、欧米向けの海外展開は伸び悩んでいる。しかし、その一方で台湾をはじめとした韓国、中国、インドネシア、タイなどの東アジア、東南アジアでは根強い展開を見せる(『アニメ産業レポート2014 サマリー』、p.5)。とりわけ台湾にいたっては日本と同様都市のいたるところにロリコン文化の図像が街中にまで侵食している。これは3-1-4-1-3 メディアミックスにて中川が指摘した情報やモノの密度において台湾と日本とが類似しているからこそ成り立つ文化なのかもしれない。

 他にも興味深いのは一連のオタク系文化コンテンツが比較的受容されているいずれの地域もかつて中華圏に属し、象形文字である漢字文化を受容し、かつその地域の美術における平面作品が線で表象された圏域であるということだ。かつて岡倉は『東洋の理想』の中で「Asia is one」と語ったが、線を主体としたマンガやアニメコンテンツを受容できる素地もまたアジアは共有しているのかもしれない。アジア圏の言語学的・記号的マンガ受容の共通点に関しては、5-1-1 日本語を参照せよ。

5-2 手塚治虫

 現代マンガの成り立ちを語る上でマンガの神様こと手塚治虫を語らないわけにはいかないだろう。現代マンガの起源を鳥獣戯画や日本語に直接的に求めることは間違いではないが、やや安直でもある。マンガ編集者の大塚が極論であると断った上で「日本のまんが/アニメは、ハリウッド的な資本芸術としてのディズニーを転向マルクス主義者がファシズム体制下に本国のソビエトでは否定されたロシアアヴァンギャルド理論の転用で体系化したものである(大塚g、p.296)」と指摘しているが、この大きな流れを受けた上で、ひとつの結節点となり、極めて重要な役割を担ったのが手塚である。手塚は、ディズニーのフルアニメーションの劣化版として日本のリミテッドアニメを創始したとしばしば語られるが、スタインバーグは、手塚のリミテッドアニメを、「マンガ、紙芝居、テレビ、アニメーションといった複数のメディアを「収束」させて生み出したハイブリッドメディア、あるいは、インターメディアなのだ(スタインバーグ、p.66)」と語り、手塚の創始したアニメを新しい文脈から捉え直している。3-1-4-1-3 メディアミックスにて言及したアトムがトランスメディアたることができた理由の一つとして、手塚の紙芝居に影響を受けた「止め」のアニメがメディアミックスに適していたことが指摘されている(同書、pp.108~113)。手塚の絵がダイナミックに動いているように感じられたのは、紙芝居やマンガの影響とともに(同書、p.72)、歌舞伎の「見得」の文化もその理由としてあげられるだろう。

 手塚に関するさまざまな功罪の話は尽きないが、彼のおかげで現代まんが/アニメが誕生したのは疑い得ない事実である。そして、ロリコン文化においても手塚がなした功績は計り知れない

5-2-1 デフォルメ・エロティシズムⅠ

 手塚の線がもたらす記号表現にエロティシズムを見出す論考がある。手塚が自らで冬の時代と語る1968年から1973年の間においてさえ手塚の記号的美少女に性的な興奮を覚えた少年少女は数知れないだろう。手塚は終戦直後のデビューからこの世を去る1989年まで常に第一線で少年少女たちを動揺させ続けたマンガ家の先駆的存在である。もちろん、エロティシズムの線を発明したのも発見したのも手塚ではない。デフォルメされた記号的な線で描かれる官能的な漫画は河童の漫画で有名な清水崑や小島功などがすでに意図的に描いていたし、それは浮世絵や春画まで遡ることができる。しかし、ことオタク(=ロリコン)文化に絶大な影響を与えたという点で手塚はデフォルメされた記号的エロティシズムの源流であり、ひとつの結節点であると言える(永山、pp.24~25)。大塚は、手塚がディズニー的非リアリズム表現の中に生身の身体に必要としてある「生」や「死」、そして「性」という主題を内在化させ「文学」化し、他方では「萌え」的なアニメ絵による性的ポルノグラフィーへと進化をさせる先鞭をつけた、と指摘している(大塚g、p.243)。つまり手塚が不死の、現実的な肉体を持たない子ども向けのファンシーな記号に死すべき身体性を付与したということだ。手塚は自身のマンガの中において、不死身と死すべき身体との相矛盾する要素を両立可能ならしめ、その中に「性」も含めたのだ

 永山は幼児から前思春期にかけての児童にもエロチックな快感は存在し、性器に局在化される以前の性的な欲望もあると指摘し、『キャプテンKen』の女装や『白いパイロット』の拷問シーン、『リボンの騎士』の両性具有とタイツ姿に性的興奮を覚えた自らの体験を告白している(永山、p.26)。昭和三十年代の子供にとって「手塚漫画はエッチ」というのは当たり前の話であったと述回し、その当時ですら、「まだ手塚は無性人間の迫害と叛乱を描く『人間ども集まれ!』(六七)も、愛と性を描く『アポロの歌』(七〇)も、性教育志向の『ふしぎなメルモ』(『ママァちゃん』七〇→七一改題)も、同性愛と淫楽殺人と淫棒が渦巻く『MW』(七六)も描かれてはいない。それでも手塚漫画はエッチだった。(永山、p.27)」と語っている。精神科医の斎藤環も「谷山浩子が『アトム』についていみじくも指摘していたように、手塚キャラクターの可憐さは、きわめて『エッチな』、つまり性的な魅力によるところが大きい。性的なものの導入はあまりにも無造作になされ、それゆえ多形倒錯的で、しばしば指摘される両性具有傾向や性同一性の混同などもその一部に過ぎない。小児愛、同性愛、服装倒錯、フェティシズム、そうしたものの一揃いが手塚漫画の魅力のかなりの部分を構成する。繰り返すが、それはあまりにも無造作になされており、それゆえに誘惑的だった。谷山氏同様、私も手塚アニメを両親と共に見ることがいたたまれなかった。自らの性的欲望のありかを見透かされることを恐れたためだ。(斎藤b、p.187)」と指摘し、幼心を動揺させる手塚の記号が持つエロティシズムについて自身の体験を交えて語っている。

5-2-2 ゲノムキング

 手塚がどれほど広範に多くの世代に読まれていたか確認する必要はないかもしれないが、簡潔に概観する。1947年に『新寳島』で実質的全国区デビューを果たすが、その際には発行部数40万部を売り切っていることから手塚がすでに終戦直後において全国規模で主に子どもを中心とする読者層に消費されていた。興味深いのは同年に「劇画」調の山川惣治が和製ターザン物の絵物語『少年王者』で50万部のベストセラーを記録していることだ。デフォルメされた記号的な絵柄と「劇画」的絵柄の双方が同時に同規模で受容されていたことがうかがえる。しかし、山川惣治の絵物語は『少年ケニヤ』をピークに売れ行きを下げ、絵物語のミームはその後の劇画までなりを潜める一方、手塚のマンガはそれ以降常に第一線であり続けた(永山、p.25)。当然、これだけで当時の子どもを中心とする受容者たちが手塚調の記号的絵柄を好んだために手塚のマンガが読まれ続けたと言えるわけではない。というのも、手塚マンガはコマ割りのリズムから、魅力的なキャラクター、そして奇想天外なストーリーまでさまざまな快感情をもたらす数多くの要素で構成されているからだ。ここでは、そうした諸々の要素を含めた上で手塚のマンガが幅広い層に受容されていたことを確認するにとどめる。1950年前後の貸本漫画にはすでに手塚の影響を受けた「丸っこい、カブラペンで描かれた線」の特徴を持つ絵柄が市場を寡占しつつあった。なぜ、この時期の作家たちが一様に手塚的な線を使っていたのかという疑問については、手塚調の絵でないと出版社が相手にしてくれなかったとする、さいとうたかをの証言からも手塚の影響力の強さがわかるだろう(竹内、p.185)。手塚が過去の漫画から受け継いだ技術を自らの内に内面化し築き上げた「マンガの文法」は5-2-1 デフォルメ・エロティシズムⅠで述べたさまざまな性的倒錯とともに以降、後続する永井豪、石ノ森章太郎、竹宮恵子をはじめとするありとあらゆる漫画家に男性女性を問わず影響を与え(永山、pp.39~42)、それは現在においても文化的ミームとして機能し続けている。

 しばしば過激なロリコンマンガの描写が物議を醸すことがあるが、その過激さも手塚の記号的身体が要因だろう。大塚英志は女性が陵辱されるロリコンマンガの性表現が次第に過激化し、女性が切り刻まれるというスプラッター的方向へエスカレートしていった理由を「キャラクターがガケから落ちてもその次のコマでは包帯をまいて出てくるが、その次のコマではそれもなくなって無傷である(大塚e、p.29)」記号的身体にあるとしている。続けて、「描かれる身体が記号的で現実感を欠いたものであるが故に、その表現が生身の身体に照らし合わせた時いかなるものであるかという認識のないままに表現のみが自動化していったのだ(同書、p.29)」と指摘している。つまり、記号的身体はそれゆえに書き手や読み手にとって無自覚のうちに不死身の傷つかない身体として被虐の対象にされていたということだ。それゆえに記号的身体を用いた戯れは過激化しやすい。

 手塚自身および手塚のミームを受け継ぐ『ハレンチ学園』の永井豪など後続の漫画家たちのデフォルメされたエロチックな線で表現される記号的美少女は少年世代の心を鷲掴みにし、記号的美少女に性的に興奮する禁忌的フェティシズムをさまざまなフェティシズムと混線したまま植え付けた。つまり、手塚の多形倒錯は隔世遺伝的に石ノ森章太郎、永井豪、白土三平、吾妻ひでお、内山亜紀、高橋留美子らへと伝わり、その過程で性的な趣向、すなわちエロであり、女装、男装、サドヒズム、マゾヒズム、バイオレンスなどありとあらゆるフェティシズムがデフォルメされた記号表現に組み込まれ、造形表現と意味内容とが極めて密接につながったまま受容されることとなった。その結果として、フェティシズムおよび「萌え」と変態的・奇異な表象を前景化させるメディアとが密接に絡み合う中で、今日のロリコン文化が形成されてきた。

5-2-3 セル画肌

 手塚が「発明」したのは線のエロティシズムだけではない。手塚はアニメも「発明」しており、それが今日のロリコン文化の造形表現の中心を占めるセル画的な二次元美少女の源流と言えるはずだ。現代日本文化研究者で明治大学准教授の森川は、手塚が「ディズニーが子供の聖性を祝福したそのセルアニメの肌合いの中に、乳呑児かマネキン人形のように清潔な「セル画肌」という、新しいエロスを発見したのである。(森川、p.96)」と述べ、続けて「ちょうどディズニーが、ヨーロッパの童話をセルアニメという技法によってまるで違うものに変質させたように、手塚はその圧倒的なアメリカ文化の結晶たるディズニー映画を、まさにその表現たるセルアニメの肌合いをエロティックなものととらえることによって、決定的にそれを変質させ、自分に同化させる術を手に入れたのではないか。(森川、pp.96~97)」と指摘する。手塚の眼を通じて、発見されたセル画のエロスは手塚自身とそれに影響を受けた作家たちによって日本国内に伝播した。森川は「つまり、日本のアニメ絵の美少女とは、構造的にはディズニーアニメの卑猥なパロディ、オタク用語で言うなら、ディズニーの「アニパロ」なのである。(森川、p.97)」と語り、こうした一連の流れを総括する(図5参照)。このセル画的なすべすべでペタペタとした滑らかな肌は、日本人の持つ清潔感・潔癖感とも親和性が高く好まれたのだろうし、それは次項5-3で言及する進化心理学的に美しいとされる要素であるため、そこにエロスを垣間見たとしても生物としては当然のことである。また流す文化でありかつ清潔に価値を置く日本の伝統的文化的風土の観点からもなめらかなセル画肌は日本人の特性に合致し、艶かしく感性に訴えてくるのだろう。

 この線とセル画のエロティシズムは、宮崎駿に受け継がれジブリというかたちに結実し、国民的規模で受容されている。今日では日本テレビ放送の金曜ロードショーにて年間平均約7本のジブリ作品が放映されており日本人のジブリ好きがうかがえることもさることながら、『ルパン三世』シリーズや『名探偵コナン』シリーズおよび『時をかける少女』などの細田作品、ディズニー作品を含めた場合、年間平均約11本のアニメが放映されている。これは、すなわち、1年のうち約3か月の間アニメを金曜ロードショーで放映しているということだ。この数字を基にすれば国民的規模でアニメが受容されていると言っても過言ではない(2006年3月~2015年2月までの放映回数をもとに調査した。金曜ロードショー・ウェブサイト調べ)。また『みんなの声』という質問投稿サイトによれば、ジブリアニメを1年間で少なくとも1回以上見る割合は、8割近いというアンケート結果もある。当然、子どもからお年寄りまでを想定した全年齢対象のアニメはある意味でディズニーと同様、エロやグロ、暴力は基本的に描かれない。しかし、斎藤はそこに描かれず抑圧されているがゆえに際立つエロスの存在を指摘している(東b、p.63)。

5-3 神経美学

 神経美学とは、セミール・ゼキにより提唱された私たちの神経系から美とは何かを考察する比較的新しい美学の一分野である(ゼキ、Dutton)。ここでは私たちの身体に所与としてある神経系機構からロリコン文化コンテンツの中心を占める二次元美少女について考察を進める。

 手塚調の絵柄にわたしたちが興奮するのはなぜであろうか。そして、私たちはなぜセル画肌にエロスを感じるのであろうか。実写の写真やアダルトビデオを見て興奮する場合、受容者は表面に映される画素の集合体にイリュージョニズムとしての生身の肉体を見る。しかし、二次元に描かれた記号の絵については、明らかに5-1で言及した「よすが」そのもの、その表象を見て、それを性的欲望の対象としている。そこには受容者の欲望をかき乱す、少なくとも琴線に触れる「何か」がある。ここで神経美学および生物学の領域から鍵刺激という概念を中心にセル画肌を持ちデフォルメされた身体について考察したい。

5-3-1  鍵刺激

 鍵刺激とは、動物に一定の本能行動を引き起こす鍵となる刺激のことであり、信号刺激とも呼ばれ、同じ種に属する異なる個体に、同一の行動を引き起こさせる刺激のことであり、繁殖期のイトヨを用いた実験でよく知られる。繁殖期になるとオスは腹部が赤くなり、縄張りに侵入してくる他のオスを追い払う習性を持つ。実験の結果、単色の精巧なオスの模型を縄張り内に侵入させても攻撃しないが、精巧な模型でもない単なる楕円形の下腹部を赤く塗った模型に攻撃を仕掛ける。つまり、イトヨにとって下腹部が赤いということがある行動を起こさせる鍵刺激である、ということだ(スレーター、pp.44~47)。

5-3-2 超正常刺激

 また自然には存在せず、かつ鍵刺激以上に効果を及ぼす刺激に超正常刺激という概念がある。たとえばセグロカモメの托卵についてである。セグロカモメは、木製でありすべすべした表面の手触りが欠けていたのにもかかわらず「通常より50%と大きく、緑で、細かい斑点がたくさんついているモデル」を好んだ(同書、pp.47~50)。先に言及したイトヨのオスのメスに対する反応にも超正常刺激がうかがえる。オスは精巧なメスの模型よりも、腹部を大きく膨らませた現実にはあり得ないモデルにより強烈に反応する。またカモメの雛が親鳥の顔の模型以上に赤い地の先端の先に白い線を三本引いた棒により強烈に反応(Tinbergen、p.35)したり、甲虫のオスがメスよりも大きな茶色の透明な瓶により積極的に交尾しようとする現象(D.T.Gwynne)を引き起こすなどその例は多数報告されている。

 私たちもまた生物学の中心教義であるセントラルドグマを共有する生物である。その事実を鑑みた場合、この超正常刺激が私たちにあってもおかしくはないはずだ。もちろん趣味があり、すべての人間、とりわけ男性がこの手塚的記号絵の超正常刺激に強烈に反応するわけではない。そして私たちは自らを客観視できない動物とは異なり自分を省みることのできるメタ認知機構を神経系に有しているため、意識的に、また無意識的に欲望を抑制さえできる。そのためデフォルメされたキメラ的二次元美少女に性的興奮を覚える者は自身に大いなる違和感、すなわち性的対象にすべからざるものに性的欲望を抱く自身の生物学的矛盾を自覚し当惑するが、その中の一定数を構成するオタク(=ロリコン)たちは自身を「をかし」の視点で戯画化し、その欲望のままにロリコン的記号と戯れる。

 手塚調の記号絵に通常の現実の三次元女性よりも性的興奮を覚える者が一定数確実に存在している事実がある。動物行動学者のアイベスフェルトは「しばしば特定の行動が多数の鍵刺激で活性化され、それらの鍵刺激は各々独自に作用するが、共同して総和的に強い反応を解発することが示された。自然の解発刺激物体(たとえば自然のメス)を作用においてしのぐ人工的な「超正常」物体を作り出すことさえできる。これはまったくわれわれ人間にもあてはまる(アイベスフェルト、pp.63~64)」と語っていることからも、丸く、柔らかく、華奢な線でデフォルメされた滑らかなセル画肌を持つ、顔は子どもでありながら豊満な身体を有する二次元美少女キメラは私たちの心を大いに揺さぶる「超正常」物体と言えるのではないだろうか。これに関して、最新のビッグデータをもとに統計的観点から人間の性心理やフェティシズムを研究しているボストン大学のオーガスとガタムは性的鍵刺激を「セクシュアル・キュー」と形容し、それらの集合体を「エロティカル・イリュージョン」と名付けている(オーガス&ガタム、pp.322~340)。昔ながらの伝統的な「セクシュアル・キュー」と現代のテクノロジーとが人間の創造力のもとで組み合わされたそれは、かつて神話でしか成し得なかった、身体を構成するすべてのパーツが「完璧」な美女のことではないだろうか。そして、オーガスとガタムは、日本のアニメが男性の脳をくすぐる「エロティカル・イリュージョン」であるとさえ言う(同書、p.340、pp.84~85)。これは二次元美少女の身体だけではなく、1-3で言及した「萌え」や「フェティシズム」、たとえば顔への射精など、他の「エロティック・キュー」も存在し、受容者の趣味性によってさらに「エロティック・イリュージョン」は恣意的に強化も可能である。

5-3-3 幼形保有美的理想

 人類学の観点からアイベスフェルトは、「男性は幼児的な特徴を持つ顔と成熟した女性に典型的な性的特徴を併せもった女性を魅力的だと考える」と指摘している(レンチュラー、p.18)。アニメ絵で例をあげれば、手塚治虫作品『奇子』のヒロイン奇子であり、「幼女の頭部を二次性徴以降の少女の身体に接ぎ木した、キメラのごとき代物(森川、p.100)」と森川は形容している。男性が魅力を感じる女性の顔は、小さくて上向きの鼻、大きな目、小さな顎といった幼児的な特徴を持つことから、幼い印象を与える刺激に対して快感情を抱くことは自然な反応であると言える。アイベスフェルトは続けて、非常に多くの人種で、女性は幼形保有の特性を強く示すと指摘し、明らかにこうした「ベビィ・スキーマ」と呼ばれる特徴は、その美的な魅力とあいまって、保護的な世話をしてあげようという行動をひきおこす、と述べ、大きな眼や小さな鼻、小さなあごといった新生児の特徴と女性の魅力とのあいだには正の相関があることを指摘する。加えて、人間の顔の特徴に対する普遍的な幼形保有美的理想があるとするならば、配偶者選択において、古代原始人的特徴よりも現代人の特徴を好むという美的選好傾向を現代人は有すると彼は主張する(同書、pp.18~19)。当然ではあるが、私たちはチンパンジーやゴリラといった類人猿よりも現代人を基本的に性的対象とする。淘汰の結果として類人猿よりも女性化・幼児化した現代人の骨格があり、われわれが進化の過程にいることを考慮した場合、男性はより現代人らしい特徴、すなわち女性的であり、幼児的な特徴を選好する。女性の顔は男性の脳内の知覚バイアスを利用するように進化してきたし、当然、男性の顔もまた女性の脳内の知覚バイアスによって進化してきた。

 また、さまざまな人間の顔を幾重にも重ね平均化するば平均化するだけ顔が魅力的になる説がある。それを平均顔仮説というわけだが(越智、pp.85~102)、興味深いのは対象の顔を一般的に視覚的に美人とされる集団で平均化した場合に見受けられた傾向である。その美人の顔を平均化した顔は一般人の顔を平均化した顔に比べ「目の上下幅が大きい、目の左右幅が大きい、目の間の距離が長い、ほお骨の位置の顔の幅が長い、目から眉毛までの距離が長い、瞳孔が大きい、顎の長さが短い、鼻の面積が小さい、ほおの幅が狭い」といった「幼型化」の特徴が見受けられる。心理学者であり法政大学教授の越智啓太は、幼児化することによって魅力を増すのは女性だけであると指摘しているが(同書、p.165)、これはなぜ幼い少女がマンガの主要なモチーフになるかのひとつの説明になるだろう。

 ちなみにアメリカにおいてもキャラクターの幼児化は進行しており、初代ミッキーマウスから現代のミッキーマウスを比較した時にそれは顕著にわかる(グールド、pp.138~140)。頭が相対的に大きく、顔面より脳頭蓋の方が大きく、目も大きく、それでいて低いところに位置しており、頬が膨らみ、四肢が短く、どこもかもやわらかくてボチャボチャしており、動作までもが不器用であるといった幼児的特徴の変化が見受けられる(同書、p.143)。つまり、ミッキーマウスも「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」のように時の経過を経て今もなお「進化」、すなわち、かわいい化しているのだ(同書、p.135~152)。

 ここで、それゆえにこそオタク(=ロリコン)は人類の進化、すなわちネオテニー化を加速させるための最前線にいる「ニュータイプ」であり、彼らの性癖は進化の観点上正当化され得るべきものだ、と喝破するつもりは毛頭ない。元来進化そのものに価値判断はない。ここで確認しておきたいのは、より女性らしい特徴、より幼児らしい特徴を兼ね備えた表象に対して性的な眼差しを向けることは進化の観点からある程度必然性があるということである。そして、WIREDの記事においても人類の進化は男性ホルモンの低下、すなわち女性化によって促進されてきた傾向が見受けられる(WIRED)。3-3-4 女児化する世界で言及した少女趣味のオープンな表明や普及、そして近年の「草食系男子」などは女性化がことに顕在化してきた例であろう。

5-3-4 性的鍵刺激

 選好される刺激は童顔的特徴だけではない。髪の濃さ、顔の対称性、艶やかですべすべとしたなめらかな肌、愛嬌のある仕草、そして豊満な肉体もまた魅力的な鍵刺激である。進化心理学的に髪の濃さは若さの象徴であり、顔の対称性、なめらかな肌は寄生虫に対して遺伝的に強いことの証明であり、腰のくびれは妊娠しやすさ、および妊娠可能な成熟状態であること、現在妊娠していないこと、妊娠継続や授乳などの育児能力の高さや健康を示すシグナルである(越智、pp.129~170)。大きな胸、肉付きの良い脂肪は多産の生物学的なサインである(カートライト、pp.78~81、ガザニガ、p.322)。愛嬌のある仕草は従順な性格を想起させ保護欲求や庇護欲求を刺激する。また二次元美少女にしばしば見受けられる近年の透明な色調や光の描写で巧みに対象を輝かせる表現は、対象に好意を抱くと瞳孔が開く生理現象を受容者に錯覚させる効果があるなど、性的なメタファーとともに心理学的鍵刺激が多数応用され表象に組み込まれている。

 男性は二次性徴を迎えた女性を性的対象にすることは文化圏を問わず自然なことであるようだ(ソーンヒル、pp.142~143)。オンラインデータに基づくビッグデータを用いた統計的見地からも「若い」や「10代」といったキーワード検索が世界的に見ても最も多く、男性は普遍的に若さを大きな魅力、すなわち、価値の高い「エロティック・キュー」とみなしていることがうかがえる。また年齢別による検索では、未成年の検索が多く、その中でも16歳が最も多くキーワード検索されている(オーガス&ガタム、p.45、pp.58~61)。

 しばしば物議を醸し出す幼い印象を与える二次元美少女を強姦するマンガがひとつのジャンルを形成するほどに人気があるのも男性の性的興奮に原因があるからなのかもしれない。それは映像による実験であり、男性の性的興奮は、レイプのコストや遺伝的、環境的要因によってコントロールされているため、まだ決定的な事実であるとはいえはないが、合意ある性交よりもレイプ、すなわち身体的暴力を含む強要的なセックスの方が有意に高い性的興奮をもたらすという研究結果があるためだ(ソーンヒル、pp.147~151)。これもまたひとつの性的な「萌え」であり、「エロティック・キュー」、すなわち性的鍵刺激であると言えよう。また過激で人気のある顔面射精というジャンルも、他者のペニスや精液、女性の顔がそれぞれ、精子間競争、性的服従を想起させる生物学的な「エロティック・キュー」である(オーガス&ガタム、p.341)。こうした過激なマンガ表現の大部分が二次元美少女キメラに、さらに「エロティック・キュー」要素を付け加えるかたちで、受容者の快楽を増幅させ、よりいっそう消費を促進させる。

 女性の場合には、男性に比べ欲望の対象に対して極めて多くの基準を満たさなければ性的欲望を抱くにはいたらないが(同書、pp.109~139)、男性の場合、女性とは異なり一点でも性的に優れたところがあれば性的欲望を抱く。つまり、男性は顔や、足といったパーツのみで、または若さといった性的に優れた一点のみで性的行為が可能であるということだ。そして性的対象と見なせばあらゆるものに対して性行為を行おうとする(ソーンヒル、p.85)。それゆえに、男性の欲望の対象は射程が広く、各々の趣味でさまざまに広範な対象が性的対象となる。

 線以外で表現される表象、とりわけ、身体の対称性(ソーンヒル、pp.99~103)、豊満な身体、なめらかなセル画的肌など、もろもろの性的な欲望を惹起させる鍵刺激的特徴が多彩にデジタルツールで多様に容易に表現可能になった結果、今、私たちはさまざまタイプのキメラ美少女を生み出しさまざまなかたちで受容・享受している。詳しくは次項5-4 メディア・テクノロジーを参照せよ。

 現在、『スレイヤーズ』シリーズや『いじめ』(五十嵐)に見受けられる顔の半分を占める目の大きさのキャラクターをそれほど違和感なく受容できるのも加速する幼児的造形表現を社会が文化的に受け入れてきたためである。時に大き過ぎる目、時に骨格的に無理がある四肢といった現実には存在し得ない超正常鍵刺激で構成された二次元美少女は、子どもと大人の相矛盾する要素を時の淘汰を経て絶妙に調和させてきたキメラである。デフォルメされた線的造形表現とデジタル表現で多彩に表象される二次元美少女とは、男性の快楽原理的要素を徹底的に追求し、増幅した超正常性的鍵刺激の集合体である。

 ちなみに、しばしば女性に見受けられるオタフォビアの蔑視の眼差しは、生物学的に矛盾する生殖に適さない、そして時にあまりに幼な過ぎる、超正常刺激「物体」である二次元美少女キメラを性的対象にする男性に感じる得も言われぬ二重、三重の大いなる違和感が原因であろう。その嫌悪にすらいたる違和感には各人若さに対する嫉妬や、自分自身への欲求不満、社会的・倫理的な正義、フェミニズムといったさまざまな要素が複雑に入り込んでいる。自身の情動・感情を冷静に美学的に分析する訓練を経ること、および統計に基づき感情のままに嫌悪感を応酬し合わないことをオタフォビアの表明者並びにオタク(=ロリコン)側双方に求めながら、双方の冷静な美学的歩み寄りが望まれる。

5-4 メディア・テクノロジー

 科学の世界は日進月歩であり、オタク第一世代が幼少期から青年期をともにしたテレビに加え、ビデオ、パソコンやビデオゲーム、スマートフォン、SNSなど新たなメディアが多数生まれた。テクノロジーの技術革新は安価で高性能なパソコンの普及を促し、万人が万人に向け平等に発信できる投稿サイトの存在はデジタル・クリエイトツールを用いた創作活動に拍車をかけた。生産者と受容者、プロとアマチュアの壁がなくなりつつある今日、メディア・テクノロジーがロリコン文化にもたらした影響を考察していく。

5-4-1 ゲーム

 ロリコン・ブーム以降、マンガ・アニメに並び、科学技術の発展はゲームという新たなメディアを生み出し、以降ゲームはロリコン文化を担う主要なメディアとなった。その本数、種類は膨大であり、コンピュータ・グラフィックスが描かれるようになりだした初期の頃からデフォルメされた記号的身体を有した幼い印象を与える少女が多数描かれた(宮本)。それは初期のパソコンのスペックが低いことが制約になっていたことや、ロリコンブームとPCゲーム草創期が重なっていたことも要因としてあったかもしれない。しかし、それ以降ゲーム機のハードの性能が向上しても(多根&八霧)、なおデフォルメされた二次元美少女を消費者・生産者ともに選び続けた。野球拳、麻雀、シューティング、アドベンチャー、ロールプレイングといったありとあらゆる主題や物語の中に幼い印象を与える二次元美少女は常に描かれ消費され、それは現在においても変わらない。ゲームがデジタルメディアである性質上、デジタルイラストがゲーム界隈から出現するのは当然であり、イラストが重要な要素を占めるアダルトゲームにおいては盛んにCGイラストが研究され、多様な二次元美少女が生み出された。パソコン・ビデオゲームが主流なメディアとして一角を占めるようになる過程で、はじめはセル画的アニメキャラクターに憧れ模倣していたアダルトゲームであったがパソコン機能の向上から、グラデーション表現が可能になるとアニメがアダルトゲームを模倣するなど、アニメ、ゲーム、マンガは相互に絵柄に影響を与え合いながら多様な二次元美少女の需要を満たした。幼い印象を与える少女とさまざまな「萌え」やフェティシズムが組み合わされ新たな質感を有する二次元美少女の絵柄やストーリーが生み出されロリコン文化は多様を極めている。

5-4-2 デジタルペイントツール

 テクノロジーは当然新たなメディアを生み出すだけでなく、造形表現にも影響を与えた。それまで紙とペンで主に描かれていたマンガやアニメがデジタルツールで表現されるようになったことはロリコン文化の多様性を語る上で重要な点であろう。オタク系グッズ関連のデザイナーである渋谷洋平は、90年代半ばにPhotoshopなどのデジタルツールのおかげで熟練したイラスト投稿者ですら難しかったアニメのような均一な線や塗りをアマチュアでも表現できるようになったことを指摘している(MdN編集部、pp.28~29)。そして、なぜそうしたアニメ調の絵を染谷自身や一般のイラスト投稿者が描きたかったのかという理由を以下のように述べる。「それは、「萌え」視点の美少女イラストは、自分の恋愛感情を重ね合わせられる妄想としての少女を描きたいのに、そこに筆致が感じられると、描いている人の「手」や「意見」が介在したものになってしまうからだ(同書、p.28)」と述べ、「『萌え』=『自分にとって都合の良い恋愛行為の代替物』として美少女を欲しいと思っているのに、創造主の痕跡というのは妄想を行ううえで、時には邪魔に感じられることもある(同書、p.28)」と語る。つまり、複数人の作業工程を経るうちに「工業製品」化したアニメ調の絵は「作者」の存在を考えさせる余計なものを捨象し、より対象に没入させ、深い妄想に耽りたいという受容者の願望を満たす。

 そして、それがデジタルツールの登場によって、アニメのセル画を作成する専門家のみならず、一般のイラストレーターまでがその表現技術が普及し、二次元美少女のイラストを描く母数が格段に増えた。アニメ絵作成のスキルを持つようになったイラストレーターは、ライトノベルの表紙絵・挿絵の仕事を受け持つようになり、ビジネスモデル上もロリコン画が生産され続ける構造が生み出された(同書、pp.30~31)(3-1-6 ビジネス)。

 1990年代半ばから後半にかけては、まだデジタルツールも高額であったが、技術革新が進み安価になると、アニメ調の絵を求めたイラスト投稿者たちは、アニメ調の絵から逸脱し、あえて水彩調、油彩調と表現の幅を拡大させていったことは多様なロリコン文化の発展に付与している(同書、p.29)。いま現在ではデジタルペイントを可能にするツールであるペンタブレットが若い小中高生まで普及し、その母数はひと昔にくらべさらに圧倒的に増えた。

5-4-3 投稿サイト

 動画投稿サイトであるYoutubeやニコニコ動画、またイラスト投稿サイトであるpixivという存在もロリコン文化の拡散に大きな影響を与えているだろう。投稿サイトはオタク第四世代の気質と親和性が高く、彼らは自身が作成した動画や、音楽、描いた絵の評価を得るために他者と頻繁に友情的・技術的交流・共有をし、月刊のイラスト投稿誌時代とは異なる格段のスピードでロリコン文化の主要造形物である二次元美少女を日夜、一秒ごとに膨大に生産し、投稿し、共有し続けている(pixivを見よ。)。

5-4-4 ロリコン・エコロジー

 テクノロジーの発達はイラストのみならずマンガ・アニメ・ゲーム、フィギュアなど一連のオタク系文化コンテンツ制作の効率を格段に改良した。ことにアニメの制作本数に関してはウィンドウズ95が一般化する90年代後半から2000年代にかけて制作数を格段に増産させている(『アニメ産業レポート2014 サマリー』、p.4)。投稿サイトのみならず、SNSの容易な情報シェアにより、タイムラインにロリコン文化界隈の情報がスパイラル的に増大し、それを受容した者は単純呈示効果が発揮され、またロリコン文化コンテンツを選好する。常に手元にありザッピング的に閲覧するスマートフォンに現れるポップ広告、ならびに暇つぶしサイトである「2ちゃんねる」的知的好奇心を刺激するサイトのサイドバーのアフィリエイトなど、パソコン文化に触れる人間の大半が男女問わず知らず知らずのうちにサブリミナル的に恒常的に濃度の濃い性的なロリコン文化に接している。そのため記憶というデータベースが想起され全く性的でない対象を性的なものとして読み込んでしまう場合もあるだろう(1-3-3 データベース)。

 幼い印象を与える美少女が描かれた書籍やイラスト、また楽曲ならびにそのプロモーションビデオ、自立型等身大イラストボード、フィギュアをはじめ、マウスパッドや抱き枕、手帳、文房具、名刺入れ、バッジなど生活空間を彩るさまざまなグッズが効率よく容易に個人レベルで制作可能になった。これはテクノロジーの発達があったからこそであり、これによりあらゆるメディアを越境するかたちでさまざまな対象を彩るロリコン文化コンテンツが多岐に多面的に展開されている。その結果として、ロリコン文化コンテンツはショッピングセンターや書籍、店頭などの街角から、果ては身近な生活空間にあるスマートフォンやパソコンのモニターなど眼に触れる露出の機会を格段に増やし、私たちの日常空間に侵食し、堂々とその姿を現し、現在の隆盛を極める文化、すなわちロリコン・エコロジーという生態系を形成するにいたっている。

5-5 まとめ

 第5章では、主に日本のロリコン文化コンテンツの造形的特質を神経美学的に考察した。線という日本の古来から続く造形表現が手塚によってエロス化され国民規模に受容された過程を概観した。自然界に存在しないデフォルメされ誇張された明瞭な輪郭線は時にセル画肌や他の性的鍵刺激と相成って強烈な超正常刺激の集合体となり、ある者にとっては麻薬的快楽をもたらし、そしてある者にとっては心をひどく動揺させる存在になる。メディア・テクノロジーは幼い印象を与える二次元美少女を大量に生産・共有可能にし、私たちの生活空間を満たしている。

 本章の研究過程で生物学的・認知科学的領域からロリコン文化を研究している考察は管見の限り極めて稀であった。生物学や認知科学は記号や図形の認知において、また文化人類学的性の研究において極めて秀逸なものが多数見受けられたが、ことロリコン文化という視点からの研究はまだ十分ではなかった。今後はロリコン文化という観点から表象文化論や精神心理学と同様、生物学、認知科学からも十分な考察を行い、かつ学際的に越境的統合的な考察が望まれることを指摘しておく。

 第1章から第5章までを通じ、日本でなぜロリコン文化が誕生し発展してきたのか、その要因を総覧的に考察してきた。これまでの考察を端的にまとめれば、本稿の主要な学問的貢献は以下の通りである。

①不毛な感情論の議論に終止符を打つため、冷静で科学的・統計的かつ建設的な議論を促す共創の場を生み出すため、ロリコンにまつわる語彙ならびにそれらの概念の整理を行った。

②ロリコンとは既に日本において社会化・土着化した概念であり、欧米で用いられているロリータコンプレックスの略語とは文化的・表象的に異なる二次元美少女を中心に据えた「シャレ」の文化であることを指摘した。

③マンガやアニメに描かれた幼い印象を与える二次元美少女と、三次元の美少女との間に類似の美的質感があることを指摘した。

④ロリコンブーム時において現在の「萌え」に相当することばの不在から、マスメディアの性を前景化させる過熱報道によって、圏域の人々の思考とことばが規定された結果、二次元美少女に対する広範な愛情が、三次元の美少女に対する成人男性の主に性的な欲望を意味するロリコンということばに集約されていく過程を考察した。

⑤ロリコン文化の成り立ちと発展の要因について学際的総覧的に考察し、ロリコン文化が日本においてある程度の必然性をもって成立した・している文化であることを示した。

⑥主に生物学を中心とする学際的考察から幼い印象を与える二次元美少女という表象が主に思春期以降の男性にとって巧みに設計された超正常性的鍵刺激の集合体キメラであることを示し、その欲望が励起される妥当性を論証した。

⑦表象文化論や精神心理学的考察以外からの領域、ことに生物学・認知科学の領域などからロリコン文化という現象に対して考察を先駆的に行い、ロリコン文化という視点で生物学、認知科学などの領域からの研究がまだ十分でないことを指摘した。

⑧ロリコン文化に関する表象文化論や精神心理学的考察ならびに記号や図形の認識などの認知科学および性に関しての医学・動物行動学における先行研究は各々に秀逸なものが多数見受けられたが、それをロリコン文化という視点から統一的越境的になされた研究がまだ十分でないことを指摘し、本稿が先駆的にロリコン研究の全体的俯瞰的枠組みの指針を提示した。

⑨アカデミックオリエンタリズムとして捉えられがちな不思議の国ニッポンにおけるロリコン文化という不可解な現象を紐解き、客観的に批判・分析可能な事象であることを提示し、アカデミック・オリエンタリズムに抗するため日本人自らによる国際的発信を視野に、序文と要旨を英語に訳した。

 ロリコン文化とは、成人男性から少女へ向かうエロースに日本の文化的・社会的表象が付与された、まさに日本の伝統的風土と豊かな社会関係資本とによって育まれた複雑なコンプレックスの表象である。これまで本稿は日本という高密度な情報社会に生じた文化現象であることを紐解き、ロリコンにまつわるオタクや「萌え」などの各概念の整理を美学的に冷静に吟味してきた。ロリコン文化にまつわるコンテンツについて論争がなされる際には、本稿の各概念の整理およびロリコン文化を形成するにいたった日本の文化的・社会的背景に対して徹底的に自覚的であることが双方にとって建設的な議論の礎をもたらすはずだ。科学的実証によらずステレオタイプのみに基づく不毛な感情論の応酬に歯止めをかけ、双方が歩み寄りともに議論できる場がもたらされることを切に望む。その上で本稿が総覧的に扱った各項目の論点それぞれを詳細に考察して行けば更なるロリコン文化の理解と誤解を解きほぐすことにも繋がるだろう。本稿がロリコン文化理解のための地図およびコンパスとなれば幸いである。

 文化人類学的起源説に基づけば、男性は若い異性に引き寄せられ、絶えずエロティックなことを考えており、それは人間であればどの文化圏でも変わらない真実であろう。とはいえ、土着の文化は世界各国で多様を極めていることもまた真実だ。本稿で考察したロリコン文化は、進化論的に童顔で象形文字を巧みに操る言語圏で育まれた線という表象に裏付けられたマンガ的土壌の中で育まれた戯画的にはかなさを尊ぶ文化である。そこにこそ日本の文化的独自性が顕著に見受けられる。

 日本のロリコンはシャレを楽しむ文化的風土を有している。自らが「かわいい」対象に禁忌的な侵犯を行う際に自覚的であらねば、自らが感じている恋愛感情や庇護欲求の入り混じった極めて複雑な得も言われぬ漸近的美学の質感を認識し楽しむことはできない。シャレの効かないロリコンはロリコンではなく、単に小児性愛犯罪者か児童虐待犯罪者であると言わねばならい。何度も言うがここでロリコン文化の是非は問わない。しかし、徹底的に日本の高密度な文化現象を紐解きもせず、また理解もせずに是非の判断をしてはならないということははっきりと付言しておきたい。私たちは三次元の児童を虐待する小児性愛者を、幼児虐待する親やその近親者を、犯罪者をこそ憎まねばならない。そして故意に事実を捏造して誤報道するメディアをこそ憎まねばならない。ドイツの政治家であり哲学者であるヴァイツゼッカは、悪を前提とし、そこから悪を退けることで善に近づくことを提唱した。私たちは、まずもって自らの悪を知らなければ善に近づくことはできない。ロリコンは「悪」に自覚的であり、自らの「悪」に自覚的たろうとする。それゆえにこそ「シャレ」が「シャレ」になるのだ。ロリコンとは、幼い印象を与える美少女に性的「萌え」を感じ、客観的に自虐的に自覚する、または語り得る者のことである。言うなれば、ロリコンとは、日本の文化的・社会的風土における成人男性から少女へと向かう性的なエロースなのである。ロリコン文化とは日本の土地に固有の花である。朝日に匂ふ山桜花のように燦然と咲き誇り、私たちの精神性をきらびやかに立ち昇らせる。

謝辞

 本研究を進めるにあたり、混沌とした対象を考察する際に不動の軸を持ち、明晰にして最小限の要点のみ、冷静かつ客観的に美学的考察をするようにとご助言、ご指導を賜った指導教員の松尾大教授に感謝いたします。また学内で出合うたびに生活指導ならびにいつも懇切丁寧に議論、ご指導してくださった川瀬智之准教授をはじめ、身体および精神医学的ご助言をくださった保健センターの内海健教授、適切な助言や貴重な参考資料をご教授くださった東北芸術工科大学の吉田正高准教授、ご多用中にもかかわらず真摯で適切なご指摘・批判をしてくださった日本映画大学の中川譲准教授にこの場を借りて並々ならぬ感謝を申し上げます。また有意義な時間を共に過ごし、英語の序文ならびに論文要旨執筆に際し真摯に丁寧に語学的指導をしてくださったミレンコ・ステヴァノヴィッチさん、そして学内の、また卒業してもなお温かく、見守ってくださった同芸術学科の同輩、先輩、後輩、先生方、また時折興味深いアドバイスをくださった大浦食堂のマスターにこの場をお借りして感謝申し上げます。

そして何よりも、いつも自分を支えてくれた母と嫁に感謝します。

参考文献(五十音順、敬称略)

名前・『タイトル』・出版社・年の順に書誌情報を記す。なお、同じ作者の書誌に関しては出版の時系列順に並べる。欧文献、ウェブ文献に関しても同様の記述形式を採用し、筆者が人間ではなく団体・会社名である場合は筆者に相当するものを筆者名のところに記述し、編集部などによって編集されたものに関しては記載のない場合には明記せず、出版物の名称を先頭に配した。

和文献

赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』筑摩書房、2004年

東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年:a

東浩紀『網状言論F改』青土社、2003年:b

東浩紀『日本的想像力の未来 クール・ジャパンの可能性』NHK出版、2010年:c

『アニメージュ』徳間書店、1982年5月号

荒俣宏『日本まんが 第壱巻 「先駆者」たちの挑戦』東海大学出版部、2015年

アン・アリスン『菊とポケモン -グローバル化する日本の文化力』新潮社、2010年

アントニオ・R・ダマシオ『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』筑摩書房、2010年

イアン・コンドリー『アニメの魂 協働する創造の現場』エヌティティ出版、2014年

五十嵐かおる『いじめ ひとりぼっちの戦い』小学館、2007年

板越ジョージ『結局、日本のアニメ、マンガは儲かっているのか?』ディスカバー・トゥエンティーワン、2013年

伊藤公雄『新編 日本のフェミニズム12 男性学』岩波書店、2009年

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005年

イレネウス・アイブル=アイベスフェルト『ヒューマン・エソロジー ー人間行動の生物学ー』ミネルヴァ書房、2001年

岩田薫『大学生をおおうロリコン症候群(シンドローム)』潮/pp.258~265、1982年9月

インゴ・レンチュラー『美を脳から考える -芸術への生物学的探検-』新曜社、2000年

江藤淳『アメリカと私』文藝春秋、1991年

NHK「日本人の性」プロジェクト『データブック NHK日本人の性行動・性意識』日本放送出版会、2002年

榎本秋『オタクのことが面白いほどわかる本』中経出版、2009年

MdN編集部『月刊MdN 2015年 6月号(特集:漫画/アニメ/イラスト/アート 少女の表現史)』エムディーエヌコーポレーション、2015年

圓田浩二『援交少女とロリコン男 ーロリコン化する日本社会』洋泉社、2006年

大塚英志『少女民俗学』光文社、1989年:a

大塚英志『Mの世代ーぼくらとミヤザキ君』太田出版、1989年:b

大塚英志『物語消費論』新曜社、1989年:c

大塚英志『たそがれの時に見つけたもの ー『りぼん』の付録とその時代』太田出版、1991年:d

大塚英志『戦後まんがの表現空間 ー記号的身体の呪縛』宝蔵館、1994年:e

大塚英志『定本 物語消費論』角川書店、2001年:f

大塚英志『アトムの命題 -手塚治虫と戦後まんがの主題』徳間書店、2003年:g

大塚英志『サブカルチャー文学論』朝日新聞社、2004年:h

大塚英志『「おたく」の精神史』講談社、2004年:i

大塚英志『「ジャパニメーション」はなぜ破れるか』角川書店、2005年:j

大塚英志『「妹」の運命 萌える近代文学者たち』思潮社、2011年:k

岡田斗司夫『オタク学入門』新潮文庫、2008年:a

岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』新潮新書、2008年:b

オギ・オーガス、サイ・ガダム『性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか』CCCメディアハウス、2012年

奥野卓司『ジャパンクールと江戸文化』岩波書店、2007年

小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中央公論新社、2010年

苧阪直行『小説を楽しむ脳』新曜社、2014年:a

苧阪直行『成長し衰退する脳』新曜社、2015年:b

越智啓太『美人の正体』実務教育出版、2013年

小野耕世『アメリカン・コミックス大全』晶文社、2005年

カール・ベトナリック『男の危機』読売新聞社、1971年

片山一道『骨が語る日本人の歴史』筑摩書房、2015年

川人光男『脳の計算理論』産業図書、1996年

川畑秀明『脳は美をどう感じるか』筑摩書房、2012年

川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』筑摩書房、2011年

菅賀江留郎『戦前の少年犯罪』築地書館、2007年

岸田秀『ものぐさ精神分析』中央公論社、1996年

草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

久米依子「トラブルとしてのセクシュアリティー 〈男の娘〉表象と少女コミュニティー志向」、『ライトノベル・スタディーズ』、pp.69~83、青土社、2013年

呉智英『現代まんがの全体像』双葉社、1997年

鴻上尚史『クール・ジャパン!? 外国人が見たニッポン』講談社、2015年

近藤寿人(編)『芸術と脳』大阪大学出版界、2013年

齋藤孝『ハイライトで読む 美しい日本人』文藝春秋、2005年

斎藤環『メディアとペドフィリアーロリコン文化はいかに消費されたか』アディクションと家族:日本嗜癖行動学会誌/家族機能研究所 編、1997年:a

斎藤環『『教養から』『神経症』へ -手塚治虫の現在形-』「文藝別冊 総特集・手塚治虫」河出書房新社、1999年:b

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』筑摩書房、2006年:c

斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』筑摩書房、2014年:d

櫻井孝昌『アニメ文化外交』筑摩書房、2009年

櫻井孝昌『世界カワイイ革命』PHP研究所、2009年

佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年

ササキバラ・ゴウ『「美少女」の現代史』講談社現代新書、2004年

佐野真由子『オールコックの江戸』中央公論新社、2003年

サリー・サテル『その〈脳科学〉にご用心 脳画像で心はわかるのか』紀伊国屋書店、2015年

ジェレミー・テイラー『われらはチンパンジーにあらず』新曜社、2013年

島本和彦『アオイホノオ』小学館、2008年

清水勲『漫画の歴史』岩波書店、1991年

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』岩波書店、2005年

下条信輔『サブリミナル・マインド』中央公論社、1996年

ジャクリーヌ・ベルント『マンガの国ニッポン -日本の大衆文化・視覚文化の可能性』花伝社、2007年

ジャレド・ダイアモンド『人間はどこまでチンパンジーか?』新曜社、1993年

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(上)草思社、2012年

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(下)草思社、2012年

ジャレド・ダイアモンド『昨日までの世界』(上)日本経済新聞出版社、2013年

ジャレド・ダイアモンド『昨日までの世界』(下)日本経済新聞出版社、2013年

小学館漫画賞事務局(編集)竹内オサム監修『現代漫画博物館』小学館、2006年

ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』筑摩書房、2011年

ジョン・H・カートライト『進化心理学入門』新曜社、2005年

スーザン・J.ネイピア『現代日本のアニメ -「AKIRA」から「千と千尋の神隠し」まで』中央公論新書、2002年

須川亜紀子『少女と魔法』エヌティティ出版、2013年

菅谷明子『メディア・リテラシー ー世界の現場からー』岩波書店、2000年

杉山知之『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』祥伝社、2006年

スティーブン・ジェイグールド『パンダの親指〈上〉 進化論再考』早川書房、1986年

スティーブン・ピンカー『心の仕組み 人間関係にどう関わるか〈上〉』NHK出版、2003年

スティーブン・ピンカー『心の仕組み 人間関係にどう関わるか〈中〉』NHK出版、2003年

スティーブン・ピンカー『心の仕組み 人間関係にどう関わるか〈下〉』NHK出版、2003年

スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える 心は「空白の石板」か〈上〉』NHK出版、2004年

スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える 心は「空白の石板」か〈中〉』NHK出版、2004年

スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える 心は「空白の石板」か〈下〉』NHK出版、2004年

セミール・ゼキ『脳は美をいかに感じるか ーピカソやモネが見た世界』、日本経済新聞社、2002年

園田寿ほか『改正児童ポルノ禁止法を考える』日本評論社、2014年

高階秀爾『日本近代の美意識』青土社、1978年:a

高階秀爾『日本の美を語る』青土社、2004年:b

高月靖『ロリコン』バジリコ、2009年

高畑勲『十二世紀のアニメーション ー国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』徳間書店、1993年

ダグラス・ケンリック『野蛮な心理学 ー殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』白揚社、2014年

谷口玲『少年愛者 神話とタブーに包まれた彼らの本当に姿を探る』柘植書房新社、2003年

多根清史、八霧敬次『超エロゲー』太田出版、2006年

津堅信之『日本のアニメは何がすごいのか 世界が惹かれた理由』祥伝社、2014年

D.J.ブーアスティン『幻影(イメジ)の時代 ーマスコミが製造する事実』東京創元社、1974年

デイビッド。J.・リンデン『つぎはぎだらけの脳と心 -脳の進化はいかに愛、記憶、夢、髪をもたらしたのか?』インターシフト、2009年

トーマス・ズデンドルフ『現実を生きるサル 空想を語るヒト 人間をへだてる、たった2つの違い』白揚社、2014年

トーマス・ラマール『アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション』名古屋大学出版会、2013年

融道男『ICD-10 精神および行動の障害ー臨床記述と診断ガイドライン』医学書院、2005年

豊田正義『「ロリコン」の研究』新潮45/22巻/9号/pp.58~68、新潮社、2003年9月

中野晴行『マンガ産業論』筑摩書房、2004年

中村圭子『昭和美少年手帖』河出書房新社、2003年

永山薫『増補 エロマンガ・スタディーズ 「快楽装置」としての漫画入門』筑摩書房、2014年

夏目房之介『手塚治虫の冒険』筑摩書房、1995年:a

夏目房之介、竹内オサム『マンガ学入門』ミメルヴァ書房、2009年:b

成田亨『成田亨の特撮美術』羽鳥書店、2015年

新村出『広辞苑』岩波書店、2008年

西内啓『統計学が最強の学問である』ダイヤモンド社、2013年

『日経MJ』日本経済新聞社、2015年11月13日付

日本顔学会『顔の百科事典』丸善出版、2015年

「日本テレビアニメーション大全」編集部『日本TVアニメーション大全 テレビアニメ50周年記念』世界文化社、20014年

日本精神神経学会監修『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』医学書院、2014年

野村総合研究所オタク市場予測チーム『オタク市場の研究』東洋経済新報社、2005年

長谷川寿一、長谷川真理子『進化と人間行動』東京大学出版会、2000年

パトリック・マシアス『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』筑摩書房、2013年

埴原和郎『日本人の顔 小顔・美人顔は進化なのか』講談社、1999年

速水健朗『ラーメンと愛国』講談社、2011年

原田曜平『新・オタク経済 3兆円市場の地殻変動』朝日新聞出版、2015年

P.J.B.スレーター『動物行動学入門』岩波書店、1988年

美術手帖編集部『美術手帖 2014年1月号「特集『かぐや姫の物語』の衝撃」』美術出版社、2013年:a

美術手帖編集部『美術手帖 2015年10月号「春画」』美術出版社、2015年:b

蛭児神建『出家日記 -ある「おたく」の生涯』角川書店、2005年

廣中直行『快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるのか』NHK出版、2003年

V・S・ラマチャンドラン『脳の中の幽霊』角川書店、2011年

フレッド・ラッド『アニメが「ANIME」になるまで -鉄腕アトム、アメリカを行く』エヌティティ出版、2010年

別冊宝島『空想美少女大百科 電脳萌え萌え美少女大集合』宝島社、1999年

堀田純司『萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造』講談社、2005年

堀淵清治『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』日経BP社、2006年

本田透『電波男』三才ブックス、2005年

本田透『萌える男』ちくま文庫、2005年

マークス・寿子『大人の国イギリス人と子どもの国日本』草思社、1992年

マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国な〉なのか』KADOKAWA/角川学芸出版、20015年

マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』みすず書房、1986年

マイケル・S.・ガザニガ『人間らしさとはなにか? -人間のユニークさを明かす科学の最前線』インターシフト、2010年

前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識化説』筑摩書房、2010年

真壁智治『カワイイパラダイムデザイン研究』平凡社、2009年

牧田翠『シリーズ総集編 エロマンガ統計STARS』2014年

増淵宗一『禁断の百年王国 -少女人形論』講談社、1995年

水越伸『21世紀メディア論』放送大学教育振興会、2014年

宮沢章夫『「80年代地下文化論」講義』白夜書房、2006年:a

宮沢章夫『東京大学 ノイズ文化論講義』白夜書房、2007年:b

宮島鏡『少女愛』作品社、2005年

宮台真司『増補 サブカルチャー神話解体 ー少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』筑摩書房、2007年

宮本直毅『エロゲー文化研究概論』総合科学出版、2013年

村上郁也『イラストレクチャー 認知神経科学入門 心理学と脳科学が解くこころの仕組み』オーム社、2010年

村上隆『リトルボーイ 爆発する日本のサブカルチャー・アート』ジャパン。ソサエティー イェール大学出版、2005年

メタリアン・ウルフ『プルーストといか ー読書は脳をどのように変えるのか?』インターシフト、2008年

森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎、2008年

守如子『女はポルノを読む』青弓社、2010年

森永卓郎『オタクに未来はあるのか!?ー「巨大循環経済」の住人たちへ』、

2008年

柳田国男『妹の力』角川学芸出版、2013年

山折哲雄『日本人の顔 図像から文化を読む』光文社、2008年

湯本豪一『図説 江戸東京怪異百物語』河出書房新社、2007年:a

湯本豪一『江戸漫画本の世界』日本アソシエーツ、1997年:b

ユリイカ 『2015年9月号 特集=男の娘-”かわいい”ボクたちの現在』青土社、2015年

吉田正高『二次元美少女論』二見書房、2004年

吉見俊哉『親米と反米 ー戦後日本の政治的無意識』岩波書店、2007年:a

吉見俊哉『ポスト戦後社会』岩波書店、2009年:b

米澤嘉博『戦後少女マンガ史』筑摩書房、2007年:a

米澤嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎、2010年:b

四方田犬彦『「かわいい」論』ちくま新書、2006年

ラッセルトレーナー著、飯田隆昭訳『ロリータ・コンプレックス』太陽社、1966年

ランディー・ソーンヒル『人はなぜレイプするのかー進化生物学が解き明かす』青灯社、2006年

リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』早川書房、2004年

リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子〈増補新装版〉』紀伊国屋書店、2006年

リチャード・ドーキンス『進化とは何か:ドーキンス博士の特別講義』早川書房、2014年

ローランド・ケルツ『ジャパナメリカ 日本発ポップカルチャー革命』武田ランダムハウスジャパン、2007年

ロバート・D.パットナム『孤独なボウリング -米国コミュニティの崩壊と再生』柏書房、2006年

ロン・オグレディ『アジアの子どもとセックスツーリスト 続アジアの子どもと売春』明石書店、1995年

欧文献

Denis Dutton ”The Art Instinct Beauty,Pleasure,and Human Evolution”  Bloomsbury Pub Plc USA,2012

Deirdre Barrett ”Supernormal Stimuli:How Primal Urges Overran Evolutionary Purpose” W. W. Norton & Company; First Edition edition, 2010

Patric W Galbraith “The Moe Manifesto” Tuttle Publishing,2014

Richard Green “Is Pedophilia a Mental Disorder?” Archive of Sexual Behavior,December 2002,Volume 31,Issue 6,pp 467-471

Steven Pinker “The Better Angels of Our Nature Why Violence Has Declined” Penguin Books,2012

WEB参考文献

和文献

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Wikipedia「児童エロチカ」(10月14日付)

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Wikipedia「少女」(10月28日付)

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Wikipedia「フェティシズム」(10月10日付)

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Wikipedia「ペドフィリア」(12月2日付)

https://web.archive.org/web/20151202105526/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2

Wikipedia「萌え」(10月10日付)

https://web.archive.org/web/20151010014347/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%8C%E3%81%88

Wikipedia「もののあはれ」(10月13日付)

https://web.archive.org/web/20151013043147/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%AF%E3%82%8C

Wikipedia「ロリータ・アート」(10月14日付)

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Wikipedia「ロリータ・コンプレックス」(11月17日付)

https://web.archive.org/web/20151117105140/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

Wikipedia「わび・さび」(10月14日付)

https://web.archive.org/web/20151014090409/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3

エイズ予防情報ネット(10月30日付)

https://web.archive.org/web/20151029235943/http://api-net.jfap.or.jp/event/aidsday/aidsday_poster_poster.htm

エフヤマダ『オタク論の死について』(11月17日付)

https://web.archive.org/web/20151117013923/http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column180.htm

NHK ONLINE 『ニッポン戦後サブカルチャー史』

https://web.archive.org/web/20151101121103/http://www.nhk.or.jp/subculture/01/index.html

片岡栄美『第3章 消費文化・情報メディア体験から見た青少年のライフスタイルと価値志向』(平成13年11月)(12月2日付)

https://web.archive.org/web/20151202053259/http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/seikatu2/html/html/4-3.html

菅賀江留郎『戦前の少年犯罪』築地書館、2007年(ウェブ版)

https://web.archive.org/save/http://kangaeru.s59.xrea.com/G-youjyoRape.htm

Gigazine『「日本人の男は9割9分ロリコンなんですよ」と語る「もしドラ」作者の岩崎夏美、その徹底したミリオンセラーを狙うための秘訣とは?』(Wayback Machinseに取り込めず)(11月17日付)

http://gigazine.net/news/20120823-mosidora-cedec2012/

九鬼周造『粋の構造』岩波書店、1979年

https://web.archive.org/web/20151014045705/http://www.aozora.gr.jp/cards/000065/files/393_1765.html

keith中村『第78回 おたくについて』(1998/03/04)(10月31日付)

https://web.archive.org/web/20151031030554/http://www.sorekika.com/pda/dame.jsp?idx=78

厚生労働省『平均余命の年次推移』(10月12日付)

https://web.archive.org/web/20151012093728/http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life14/dl/life14-09.pdf

コミックマーケット公式サイト『コミックマーケット年表』(10月11日付)

https://web.archive.org/web/20151011130743/http://www.comiket.co.jp/archives/Chronology.html

佐々木隆『オタク文化論』イーコン、2011年オンライン公開(11月24日付)

https://web.archive.org/web/20151124010324/http://www.econfn.com/ssk/otaku/otakubunkaron.pdf

児童買春、児童ポルノに係る行為等の規則及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(平成11年五月二十六日法律第五十二号)(12月2日付)

https://web.archive.org/web/20151202073514/http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO052.html

清水文雄『日本人の心』王朝文学の会(pp.32-34)、Oct-84(10月13日付)

https://web.archive.org/web/20151013042153/http://jairo.nii.ac.jp/0139/00001209

鈴木繁(CJ(Shige)SUZUKI)『Tatsumi Yoshihiro’s Gekiga and the Global Sixties:Aspiring for an Alternative』2013年(10月12日付)

https://web.archive.org/web/20151012072421/http://imrc.jp/images/upload/lecture/data/SUZUKI20111212.pdf

政府統計の総合窓口 e-Stat 評判号4 進学率(昭和23~)(10月12日付)

https://web.archive.org/web/20151012082032/http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001015843

竹内美帆『線から捉えなおす「劇画」 ーさいとう・たかをを中心に』京都精華大学国際マンガ研究センター(10月11日付)

https://web.archive.org/web/20151011085633/http://imrc.jp/images/upload/lecture/data/09_%E7%AB%B9%E5%86%85.pdf

角田巌『子どものメディア文化の回廊』「文教大学人間科学部 第21号 1999年」(10月31日付)

https://web.archive.org/web/20151031065153/http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/hum/h21/h2109.pdf

デジタル大辞泉『おたく』(11月17日付)

https://web.archive.org/web/20151117012712/https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%AE%85-452808

デジタル大辞泉『少女』(11月14日付)

https://web.archive.org/web/20151114140556/https://kotobank.jp/word/%E5%B0%91%E5%A5%B3-531947

デジタル大辞泉『幼女』(11月17日付)

https://web.archive.org/save/https://kotobank.jp/word/%E5%B9%BC%E5%A5%B3-653059

デジタル大辞泉『ロリータコンプレックス』(11月14日付)

https://web.archive.org/save/https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-663975#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

デジタル大辞泉『ロリコン』(11月14日付)

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toggetter 『なぜ必ずと言っていいほど乳幼児はアンパンマンを好きになり、突然卒業するのか?』(Wayback Machinseに取り込めず)(10月12日付):b

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toggetter 『『外人「この女の子だって本当はモデルが居るんだろう?」俺「元ネタはある」』テンプレたちが”日本は未来に生き過ぎている”現実を浮かび上がらせる』(Wayback Machinseに取り込めず)(10月30日付):d

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toggetter 『ロリコン文化が、性の対象である少女達にどんな悪影響を与えているのか』(Wayback Machinseに取り込めず)(10月27日付)

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三重県志摩市公認海女萌えキャラクター 碧志摩メグ公式サイト

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目次(Index)

Clarisse Crisis

~Why has lolicon-culture developed in Japan?~

index

Preface

Chapter 1 What is Lolicon-Culture?

1-1 Lolicon-Culture

1-1-1 Lolicon

1-1-2 Culture

1-1-3 Lolicon-Culture

1-2 Pseudo-Lolicon

1-2-1-1 Pre-Otaku Generation

1-2-1-2 First-Otaku Generation

1-2-1-3 Second-Otaku Generation

1-2-1-4 Third-Otaku Generation

1-2-1-5 Fourth-Otaku Generation

1-2-2 Pedophilia

1-2-3 Pedophilia Criminals/Child Molesters

1-2-4 Potential Pedophilia Criminals/Child Molesters

1-3 Moe(Strawberry Feeling)

1-3-1 Birth and Prevalence of Moe

1-3-1-1 Each Moe

1-3-1-2 Similarity of Moe

1-3-2 Moe and Sex

1-3-3 Database

1-4 Summary

1-5 Proposal for Collaborative Debate

Chapter 2 Birth and History of Lolicon

2-1 Lolita-Complex

2-2 Birth of Lolicon

2-2-1 Abbreviation of Lolicon

2-2-2 Concept of Lolicon

2-2-2-1 Girl Picture Boom

2-2-2-2 Anime Boom

2-2-2-3 Lolicon Boom

2-2-2-3-1 Pre-Moe

2-2-2-3-2 Resembling of  Childishness

2-2-2-3-3 Trigger of Lolicon Boom

2-2-2-3-4 Coming Out

2-2-2-3-5 Deformed Eroticism 2

2-2-2-4 2-Dimensional Complex

2-2-2-5 Fanzine

2-3 Summary

Chapter 3 Lolicon and Modern Society

3-1 Otaku

3-1-1 Birth of Otaku

3-1-2 The Trend of Nuclear Families

3-1-3 Consumption Society

3-1-4 Given Conditions

3-1-4-1 Childhood Habitation

3-1-4-1-1 Television

3-1-4-1-2 Habituation

3-1-4-1-3 Media Mix

3-1-4-2 For Adults

3-1-4-2-1 Dramatized Comics

3-1-4-2-2 College Students

3-1-4-2-3 Preference for Complicacy

3-1-4-2-4 Cultural Crossing Area

3-1-5 Hobby and Entertainment

3-1-6 Business

3-2 Change of Body

3-2-1 Growth of Life Expectancy

3-2-2 Lowering the Age of Puberty

3-2-3 Preference for Childish Faces

3-3 Change of Mind

3-3-1 American Complex

3-3-2 Depressing Society

3-3-3 Invasion of Taboo

3-3-4 Girl-ising World

3-3-4-1 Girl Culture

3-3-4-2 Adult Friends

3-3-4-3 Boy-Girl(Otoko-no-ko)

3-4 Summary

Chapter 4 Traditional Climate Accepting Lolicon Culture

4-1 Monono-ahare(Transience of Life)

4-2 Kawaii

4-3 Round-Soft-Delicate

4-4 Wokashi (Joke)

4-5 Iki

4-6 Margin

4-7 Men Dominant Society

4-8 Good Security

4-9 Sister-Brother

4-10 Summary

Chapter 5 Erotic Symbols

5-1 Manga

5-1-1 Japanese Language

5-1-2 Outline

5-1-3 Genetic Cognition

5-2 Osamu Tezuka

5-2-1 Deformed Eroticism 2

5-2-2 Genome King

5-2-3 Celluloid Picture Skin

5-3 Neuro-Aesthetics

5-3-1 Sign Stimulus

5-3-2 Super Normal Stimulus

5-3-3 Ideal Pedomorphism

5-3-4 Sexual Sign Stimulus

5-4 Media Technology

5-4-1 Video Games

5-4-2 Digital Paint Tools

5-4-3 Posting Websites

5-4-4 Lolicon Ecology

5-5 Summary

Conclusion

Acknowledgement

References

序(Preface)

Inazo Nitobe once introduced Japanese mentality to the Western culture, referring to cherry blossoms. Okakura Tenshin and Suzuki Daisetsu also succeeded in introducing the Japanese culture as it is to the world from their viewpoints. As an aftermath of these events many researchers both in Japan and all over the world study Japanese culture. However, many areas still remain unexplored except the Tale of Genji, etc.

Since 2000, the number of researchers who study Japanese culture is increasing and Japanese government, in collaboration with the industry and academia, encourages “Cool Japan” as the cultural promotion policy, too easily and perhaps dangerously. However Academic Orientalism still exists because of the always present mysterious aspects of the Japanese culture. Some examples would include the popular maid cafes of Akihabara, Niconico posting website, LINE stamps or other cultural phenomena (Mizukoshi, PP.285~286). Of course, the so called Kawaii culture which surprises western people is also a phenomenon resulting from the high dense information society. This thesis intends to clarify these complexities as well as resist the easy and simple Academic Orientalism. There are many phenomena resulting from the high dense information society. This thesis mainly deals with the phenomena of Lolicon-Culture, the youth-oriented culture and sexuality found in the subculture areas of manga, anime and games.This thesis focuses on Lolicon culture and considers it’s birth and development in Japan.

These days Lolicon and other terms around Lolicon such as otaku, pedophilia, child molestation, Kawaii, Moe are often used ardently and wrongly by speakers. Debates and communications without consent and agreement upon proper terminology can result in bad consequences and lead toward wrong debates. The over-simplified stereotype that considers an otaku to be a lolicon, lolicon to be pedophilia puts us in danger of criminalizing the term and is often used by the mass media and frequently appears on various social network timeline streams.

Today’s Lolicon culture has many problems. The Moe character “Megu Aoshima” who is a woman diver represents a hot topic on otaku phobia. Some manga comic artist’s Twitter accounts have suddenly been banned as a result of misunderstanding their work for child pornography. In addition to this there is general criticism of Japanese cultural climate that comes from ignorance (McCurry, Fletcher). Many useless debates come up with no scientific evidence or statistics being used. This situation results in an emotional war between the two sides. I hope that this thesis can help resolve the conflict and lead to the next constructive stage of the debate.

Also this thesis doesn’t refer to Lolicon culture as being either good or bad. The Lolicon culture blooms in Japan but everyone doesn’t acknowledge this pitiful flower because it seems taboo. My hope is for the whole world to accept this culture. I repeat that this thesis doesn’t try to legitimize the Lolicon culture, but rather insists on recognizing all the different aspects of our current cultural climate that gave birth and helped develop it. It also doesn’t deal with Lolicon culture from the standpoint of “Cool Japan”, the Japan that is being proud of it’s heritage, but rather views Japan as a unique and new media laboratory where everyone can interact and have critical opinions, providing the opportunity to test and experience the different cultural manifestations.

I expect objective and demonstrative studies to remove  academic Orientalism and to unveil Japan.I also expect many productive debates to be encouraged.

At the same time, I hope this thesis makes a contribution to the movement. Finally, this thesis’s aim is to confirm the history of Lolicon culture and explain the Japanese traditional and cultural background that helped accept it, help clarify and arrange the terminology that relates to Lolicon culture and give a suggestion towards reaching the definition by means of free discussion and sharing ideas. This thesis will ask you to end debates fueled by stereotypes and create a collaborative and constructive stage for a conversation. It will also try and arrange different terms, objects and relations within the Lolicon culture, see the Lolicon culture from an interdisciplinary point of view and try to seek the causes that have driven this culture to existence. In total, there is very few studies that deal with the areas that surround the culture of Lolicon. This study aims to consider the culture of Otaku, law, statistics, psychology and biology as interdisciplinary. This viewpoint is new and significant. Of course, there are many great leading studies such as: “Eromanga Studies” by Kaoru Nagayama who is a researcher in erotic manga art; “Lolicon” by Yasushi Takatsuki, a non-fiction writer; “Beautiful Fighting Girls” by Tamaki Saito, a psychiatrist and a leading researcher in Otaku. Their books tell us an objective story on the history behind Lolicon culture, the Japanese cultural climate and context that surrounds it and provide us with a psycho-analytical approach to the subject.

Also these days cognitive science study (Ikuya Murakami,Osaka Naoyuki) and evolutionary phsycology and statistics study by big data(Ogas&Gaddam) focusing on sex are great.

However there is no one specific study that deals with all these topics comprehensively, focusing exclusively on the Lolicon context. No-one arranges all the information collectively in one thesis. So we need to do that. This thesis will be a significant and comprehensive pioneer study, collecting all relevant information in the area of Lolicon culture. At the same time from an interdisciplinary point of view, I hope to show you how the Lolicon culture can suit Japanese people. I will also show how the two-dimensional beautiful girls represent a collectiveness of super normal stimuli and how this case of “she” invoking and seducing the adult, after-puberty men is not unusual at all.

Since Inazo Niobe our mentality has grown in the Japanese cultural soil. This thesis shows you the composing of the cultural soil and how Lolicon culture, the contemporary cherry blossom, has clearly grown from this traditional soil.

I will introduce this thesis’s structure as follows:

In Chapter 1, we define the term “Lolicon culture” as well as other terms around Lolicon culture, exploring and confirming each different meaning.

In Chapter 2, we review the history of Lolicon culture since it’s birth to contemporary boom. I will take the media panic of today in consideration and try and find out how this situation came to be. I will also show you how the meaning of these terms closely resemble each other, so the misunderstanding is likely to happen.

In Chapter 3, we consider the change of social capital, body and mind for accepting Lolicon culture in the media study.

In Chapter 4, I consider the Japanese traditional culture unique to Japan.

In Chapter 5, we explore the process of line culture prevalence that is deeply rooted in Japanese culture, of which Osamu Tezuka spoke in terms of eroticism. I consider sexual pleasure as a symbol that relates to both biology and modern media technology.

In conclusion, I confirm how the Lolicon culture came to happen in Japan and I repeat the significance of my thesis.

要旨(Summary)

Lolicon-Culture is an adult male expression of love towards girls that arose from the Japanese cultural and social capital climate. This thesis’s purpose is to clarify the Lolicon-Culture phenomenon resulting from the high dense information Japanese society as well as to define and give proper contemporary context to the culture of Lolicon and terms that surround it such as otaku, pedophilia etc. When having a dialogue with someone focusing on the Lolicon-Culture, this thesis will prove to be helpful in it’s recognition of all the different cultural aspects that gave birth and helped develop the Lolicon-Culture, as well as it’s clear arrangement of various definitions and terms. I hope my work will ask of you to end debates fueled by stereotypes and create a collaborative and constructive stage for criticism. I expect objective and demonstrative studies to help unveil and free mysterious Japan of academic Orientalism. I further expect many productive debates to be encouraged after emotional wars with no scientific evidence are put to an end. In its interdisciplinary and extensive observations, this thesis will serve as a survey map, a compass of a sort that leads to the next constructive stage of debates for better understanding of the Lolicon-Culture.

This thesis is composed of five chapters and shows in detail the development of Lolicon-Culture in Japan from the synoptical interdisciplinary point of view. I will introduce my academic contribution as follows:

1) Terms around Lolicon-Culture are defined and clearly arranged in order to create an objective and constructive stage for debates and end useless emotion-driven wars with no insight into science or statistical data.

2) Concept of Lolicon is already socially accepted and secularized within Japan and differs from the Lolita-Complex commonly present in Western culture and representation. Lolicon-Culture is mainly based on two dimensional representations of beautiful girls and incorporates wit and humor.

3) Emphasis on the similarities in beauty qualia between a two dimensional representation of a beautiful girl and a three dimensional, actual girl.

4) Tendencies of mass media to group together and equalize different terms into a single word of Lolicon,  wrongly focusing on sexuality, are explored.  Prior to the birth of the Moe concept, media has provided the people engaged in the culture with different words and ways of thinking. The wide range of emotions linked to two dimensional representations changed, narrowing into a sexual love for real girls mostly.

5) An extensive interdisciplinary point of view shows us how the culture of Lolicon can suit Japanese people.

6) I show how this two dimensional representation of a beautiful girl in its collectiveness of super normal stimuli, this case of a well designed chimera in which “she” invokes and seduces the after-puberty adult male is not at all unusual from an interdisciplinary point of view, mainly biology.

7) Studying Lolicon solely from a point of view of biology and cognitive sciences is not enough, when compared to broader psychoanalytical and representational culture studies.

8) There are many great leading studies in the fields of representational culture studies, psychoanalytical studies, cognitive science, medicine and ethology but the collaborative effort of these fields does not provide a good enough basis to fully describe the culture of Lolicon. This thesis will be a significant and comprehensive pioneer study that collects all the relevant information in the area of Lolicon-Culture.

9) In the proposal of the possibility of objective and demonstrative studies to remove academic

Orientalism and to unveil Japan ,I offer this preface and summary translation in English.

I will introduce this thesis’s structure as follows:

In Chapter 1, we define the term “Lolicon-Culture” as well as other terms around Lolicon-Culture, exploring and confirming each different meaning. I define the Lolicon-Culture as “all contents of Otaku-Culture which someone who likes or loves whether two or three dimensional girls prefers, not only including physical representations”. In hope to clarify the present chaotic situation around the culture of Lolicon, I arrange the different relevant concepts and terms, referring to similar terms found in psychology. I overview “Moe (Strawberry feeling)”, fetishism and “database” in order to provide a constructive stage for a debate.

In Chapter 2, we review the history of Lolicon-Culture from its birth to contemporary boom. I will take the media panic of today into consideration and try and find out how this situation came to be. I will also show you how the meaning of these terms closely resemble each other, so the misunderstanding is likely to happen. The birth of Lolicon and its expansion is considered. I pay my tribute to Takatsuki, leading researcher in this field. The similarities in beauty qualia between two dimensional beautiful girls and three dimensional real girls are pointed out. Lolicon-Boom gave the people engaged in the culture a possibility to express their “strawberry feelings” for two dimensional beautiful girls as an addition to the already existent world of Lolicon that was mainly linked with the desires for real, three dimensional girls. The Anime-Boom and the rise in popularity of real girl, magazine pictures came to mix with each other, the mass media focus on perverted sexual feelings of adults all gave pretext for a specific word “Lolicon” to be chosen by the people to describe this new phenomena.

In Chapter 3, we consider the change of social capital, body and mind needed in order to accept the Lolicon-Culture and interdisciplinary studies that focuses on Otaku. Otaku (=Lolicon) was born from the phenomena of rich modern social capitals as well as the complicated issues of an inferiority complex from the United States. Japanese men under a very strict and oppressing society were given an opportunity to invade little girls, feeble symbols and icons representing the weakest, an opportunity to express their desires for occupying these girls and assimilating with them in both body and mind, therefore feeling relaxed within the Kawaii Cocoon. They succeeded in diverting from the stress and resisting authority, keeping their mental balance. Once Watsuji told that Monono-ahare is a flower found in a woman’s mind. I believe this also exists within the minds of men.

In Chapter 4, I consider the Japanese traditional culture that is unique to Japan. Japanese culture has two mainstream flows, one of which is Monono-ahare representing the transience of life, the other being Wokashi, the wit. The Kawaii-Culture is a complicated compound that derives from both of these two basic parts.It arises from the male dominant society that is characterized by its low awareness of human rights. Compared to the Western societies, Japan has a very low crime rate and a low occurrence of rape and obscenity towards juveniles. This safe environment alongside with Wokashi makes the taboo of sexually invading a two dimensional girl character function more in terms of a witty joke rather than posing any real threat. The love for representation of two or three dimensional youthful characters found in the Otaku-Culture, such as anime, manga and game can be closely linked to the Japanese traditional cultural climate of a preference for round, soft and delicate characters alongside with animism, wabi-sabi, sister-brother linkage and so on.

In Chapter 5, I consider plastic representations found within the Lolicon-Culture in the light of neuroaesthetics mainly. We explore the process of line culture prevalence that is deeply rooted in Japanese culture, of which Osamu Tezuka, Manga artist, spoke in terms of eroticism on a national scale. The two dimensional beautiful girl is deformed by a clear outline that does not exist in nature; her skin is depicted in an artificial way and is celluloid-like; these as well as other sexual cues appear as manifestations of a collectiveness of super normal stimuli. I would argue that it is not wrong or unnatural for adult men to be seduced and addicted to this Chimera in the least. Media technology allows us to produce tremendous volumes of these two dimensional beautiful girls, share them very easily with each other and our daily life gets filled with Lolicon-Culture contents. That is Lolicon-Ecology.

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越後スター・いっちー

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