Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

FF6、世界崩壊後の教養を考える。




教養(きょうよう)とは個人の人格に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。(「教養」、Wikipediaより)


昔のCMには、“教養”があった。

教養、それは死して、咲く花。

前エントリーで「当たり前だのクラッカー」を紹介したが、その後の関連動画をクリックしたところ、

「てなもんや三度笠」という藤田まこと主演の時代劇コメディーにしばし魅入った。

やっぱ、昔のコンテンツはいい。和む。心が豊かになる。この漠然とした言葉にならない萌え以前の萌えというか、なんというか、抽象的で淡い感想。童謡とか、田舎に行ったときに感じるものに近いのか、降りた生活的ノスタルジア。

昔の番組には、なにか高い文化的(古典ありきのパロディが可能な)背景がある。つまり、老若男女全世代を貫く希有な教養が生きていたと、推測される。↑「てなもんや三度笠」は「沓掛時次朗」(市川雷蔵主演が有名)のパロディである。(*現在の著者の考えであって、明日には変わっている可能性あり)

勝手にちょうまとめ
①全世代を貫通する教養は、モーツァルトとベートーヴェンだけになった
②これからの教養は、漫画・アニメ・ゲームになっていく
③死んだ教養は、岩波文庫、黒澤・キャプラ的映画、マイルス・デイビス
④いい感じに全世代に共通な教養があるとすれば、手塚治虫とジブリ
⑤教養が死んでも、問題はない。ガチガチの教養あるエリートたちが敗戦に突っ込むんでいくんだからw
⑥ただ、教養を通じて孤独に向き合うこと。いうなれば、自分と向き合う内省の時間を担保する機会は必要。
⑦教養は人生をプレミアムリッチなものにする。

 

以下、まとめを適当に浮遊するので、四露死苦!

俺氏は、30直前の1985年生まれだから、最後の昭和の臭いをよく知るものであり、以前のエントリーでも語ったが、俺が文化の繋ぎ手たる自負があるから、こうした過去のアーカイブを次世代に語り継ぐためにもしばしば進んで閲覧、吸収する。情報収集は欠かさない。基本的に、俺氏は芸術家であり、自らでオリジナリティー溢れる作品を創作することをメインに活動しているが、もうひとつのメインとして“失われゆくもののあはれ”を語り継ぐこと、というのがミッションとしてあるわけで、そうした過去の“大いなるアーカイブ”の人類精神のバトンw←ちょっと大袈裟か、を繋ぐというか、広く共有し、文化的遺伝子(ミーム)の中にしっかりと根付かせたいという、気持ちが多々ある。

まぁ、結論としては、正直、教養は滅んでいいw

ただ、教養を通じて自らで考え内省する、孤独な時間を持て!ということだけは伝えたいかな、ってのはある。孤独は辛いが、孤独の味を知るものは、それだけ人生の機微をしれるから、楽しく生きられるのだ。教養の本質は、はかない人生に彩りを添える花だ。桜が散れば、和歌を詠む。愛しい人に、シェークスピアの一節を捧げるのもいいだろう。教養は人生をプレミアムリッチなものにする。長屋の花見なんてのは、教養の典型的な力を示してくれる。

↑この良さ、わかるかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ〜、わかってくれたらうれしいなぁ、ハルヒもらき☆すたもいい!これもいいだろ!中学生の諸君!
俺氏は、どんなときにも己の都合を最優先するエピキュリアン(快楽主義者)だから、俺がいい!と思ったものに自分の時間や予算といったリソースを費やす。俺氏は基本的に、旧制高校時代の遺風を宿す超ゴリゴリの教養主義者(に対するあこがれを有した似非・ルネサンスマン)だから、時の淘汰に耐えたクラシックなものに対するリスペクトがマジでパない。ここからは、そうした“頭の超固いおっさん”かぶれな人間が書くブログだということを理解した上で読み進めていってもらいたい。(あぁ、キーボード打つの、面倒だw勝間和代さんオススメの親指シフト覚えたいなぁ)。以下続けていきます。

東浩紀が「動物化するポストモダン」で述べた通り、たこつぼ化したリトルピープルの野獣化した欲望が教養を駆逐した。いうなれば、テクノロジーが教養を崩壊させた。

動物化したポストモダン社会においては、人は歴史と断絶される。

テクノロジーは過去のアーカイブを膨大に蓄積できるわけで誰でもいつでも、どこでも過去の偉大なるものたちにアクセスできる状況が確保されているのにも関わらず、逆説的に人に届かなくなってしまったというのは傍観者の余裕派から見ても興味深い。どんなきれいごとを謳っても、やはり、水は低きに流れ、人の心もまた低きに流れる。(攻殻機動隊セカンドギグ、クゼのことば)

人は、基本的に、青空文庫を読まないのだ。

終戦直後生まれの今のおっさん世代は、一応、最後の教養世代(←当時今と違って、大学はまだまだエリート(曲がりなりにも一応、賢い人たち)で、全共闘時代に大学時代を送った、彼らは暇で、娯楽もあまりなく、活字ばかり読んでいた。まー、とりあえず、暇だから、資本論でも読むか、あぁ、さっぱりわからんが、読むか。読んでないと“恥ずかしい”!!という教養ないと恥ずかしい、文化があった。今の俺もこの観念があるから教養を学んでいる。教養のない奴に限って教養を学びたがるのは、触れないでくれ。まぁ、いうて、当時も映画とテレビといった映像メディアはあったわけだけど、テレビは一家に一台だし、部屋にネットが引ける環境もなかったわけだから、今よりはよっぽど映像メディアにアクセスする機会がなかったのは間違いない。

では、これを踏まえた上で続ける。
結論から言ってしまえば、人は、音楽を聴くのが一番楽で、日常生活を送ればかならずどこかでモーツァルトを耳にするだろう。正月になれば第九、往年のクリスマスソングはみな耳覚えがあるだろう。音楽は、楽だ。目を閉じて横になっていても聞ける。一番楽な状態で、楽なままに、動物化した快楽を得ることができる。
んで、その次が映像、これは音楽よりもちょっとだけハードルが上がる。というのも、目を開けるといった動作が必要であるからだ。(盲人、ハンディキャップのケースは考慮にいれず、話を進める。)目を開けるのは、疲れる。膨大な視覚情報を処理しなければならないため、ATPを使うのだ。ATPとは、俺たちの活動するエネルギー源だとここでは考えてくれ。しんどい、面倒なことは、たいてい大量のATPを使う。
んで、もって、一番、しんどいのが、そう、ご存知の通り活字である。

活字が一番エネルギーを使う。視覚情報を言語情報に変換する手間がかかる。

それゆえ、活字メディアは動物化した世界では、少し“高級なメディア”になる。出版業界が戦々恐々なのを見れば、その市場規模の縮小具合はいうに及ばないが、とはいえ、そんなオワコンメディアであっても、漫画やラノベがまだ隆盛である。細かい活字ばかりで、難解な字面の分厚い小説は、また、今度でwとなって一生読まずじまいに終わる。もう、大岡昇平は過去の人だ。その点、漫画は、読みやすい。テンポもよく、難しい内容でも漫画ならデフォルトマインドで理解してみよう、とするやる気の出発点がある。ラノベも読むのが楽でいい。行間がすっきりしていてテンポもよいため当然と言っちゃ当然なのかもしれない。いうなれば、ユーザビリティーが考えられているのかもしれない。古本屋でゲットする昔の本は、活字が細かくて情報量も豊富で読みづらいw(←少しでも少ない紙面に情報求めた読者の存在もあったろうが)

また現在、若者の読書離れは極めて顕著である。LINEやTwitterなどの活字を読むことは行っているが、ひとつの世界観を構成する作品の読書体験は、ラノベや漫画、ゲームを除いてはかなり少数だろう。何度も言うが、水は低きに流れる。

LINEは読めても、「人間失格」は面倒なのだw教養の権化である東大生(安易な指標で申し訳ないがw)であっても、すでに三四郎を読んでいるというのは、おそらく皆無ではなくとも極めて少数であろう。ドストエフスキーやイプセンなど、完全にオワタ\(^o^)/wだろう。いわんやおや、世間を構成する膨大な大学生おやであろう。(反語。まして東大生ですら読んでいないのだから、他大学ならなおさらである。)

なんどもいうが、究極的には何を読もうが読むまいがカラスの勝手である。

↑とはいえ、教養主義者であり、なおかつゴリゴリの動物行動主義者である俺氏的には蟻のコロニー説を採用したいから、どんなF欄大学でもしっかり勉強する奴はいるし、S欄大学でも勉強しない奴はいる。まぁ、初期スペックの違いとその人数率でS欄大のほうが、勉強する奴の率が高い、ってのも間違いない。
今でも、三四郎を読んだり、ドストエフスキーを読んだり、早川SF文庫を読んでるやつはしっかりといる。要は、比率と構成比といった統計の視点からの話であることを常に覚えておいてくれ。

以下、若干のステレオタイプに陥りつつも、統計と蟻のコロニー説を念頭においた上で話を進めていく。

若年層のスマホ所持率は圧倒的、それが世代があがるごとに減っていく。大和総研の統計(2014年5月22日付け)によれば、若者は益々スマホを扱い、年寄りは益々、スマホから離れていくw携帯自体の普及率は各世代で90%近いが、大容量データをやりとりできるスマホでなければ動画は基本的にスピードの面からも料金の面からも見ない。

年上世代が口に唾して、口角泡して(中学校の頃の野球部の監督がしばしば泡してたなぁ。(遠目))教養復活を!教養復活を!おせ!おせ!せ!っせ!っせ!っせ!(カイジの沼かw)っていうのも、今時の若いものは、というメソポタミアから続く人間の宿命みたいな、思い出補正、自己歴史正統化本能みたいなもんだから、そのドグマを考慮した冷えた頭でもう一度考察してみると、教養が消えたからといって、嘆き悲しみ、非難するのは教養を崇めている教養教徒だけなんだなこれが。かくいう権威に弱い俺自身も教養とか、皇室御用達とかにめっきり弱く、教養が失われていくのはやっぱり寂しいが、すこしだけ俺の立場は教養原理主義者と異なる。俺は、教養は滅んでいいと思っている。究極的には、教養は目的であるとともに手段である。

教養などなくともいい。ただ孤独の時間を、自分と向き合い、この世界とは?神とは?人間とは?と自発的に考えるような小学生高学年から中学生の思春期にかけてお得意のこの疑問を抱く精神構造が普く共有されたら、なくなっていいものと考える。

しばし、教養派は教養がなくなると国が滅ぶと、いうが、ゴリゴリの教養主義者たち(とはいえ、多くの国民もそれを支持したわけであるが汗)がこの国を滅ぼしたことは間違いないから、それは説得力が欠けるが、とはいえ、世界のインテリジェントな方々は教養がないと軽蔑されるグローバルスタンダードがあるから、日本を背負い世界に出ていく人間には多少なりともの教養(グローバルスタンダードな、あっちの文化の)があってくれたらいいなという願望はあるし、自分もいずれ日本を背負うから、それなりのグローバルスタンダードな教養は身につけているつもりだ。反省する点としては池田夏樹さんが、紹介する欧米以外の南米や、アフリカ、南アジアの文学をまったくフォローできていない点だ。これは“恥ずかしい”。

教養とは何かが少しづつ見えてきた。
教養とは、つまり、明治時代に作られ戦後生まれのおっさんたちが慣れ親しんできた普く限りなくシェアされうる“高級”な文化コンテンツである。

面白くなってきた。教養が見えてきた。おら、わくわくしてきただ(幽遊白書、魔性使いチーム副将、陣の台詞)。下ボタンを押しながら、使う技で霊力がアップするときにいう台詞。

まー、話が長くなるので、今日は①、②までやったかな。とりあえず、ここまで!明日に続きます! icon-eye

一ノ瀬健太

勝手にちょうまとめ
①全世代を貫通する教養は、モーツァルトとベートーヴェンだけになった
②これからの教養は、漫画・アニメ・ゲームになっていく
③死んだ教養は、岩波文庫、黒澤・キャプラ的映画、マイルス・デイビス
④いい感じに全世代に共通な教養があるとすれば、手塚治虫とジブリ
⑤教養が死んでも、問題はない。ガチガチの教養あるエリートたちが敗戦に突っ込むんでいくんだからw
⑥ただ、教養を通じて孤独に向き合うこと。いうなれば、自分と向き合う内省の時間を担保する機会は必要。
⑦教養は人生をプレミアムリッチなものにする。




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