Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

美味しんぼは終わる。されど人生は続く。


 

美味しんぼは終わる。されど人生は続く。

 

かの有名な哲学者、カール・レーフラーからの引用である。

本エントリーでは、カール・レーフラーの理論的枠組みを借用しながら美味しんぼを分析美学的に構造解析を行う。

 

♢海原雄山化する世界

アニメの後半から一気に作画の質感が変わり、1970年代アニメを彷彿とさせる写実的な描写が描かれるようになった。演出も、本越しに人物を映したり、電車のシーンでは窓に反射するかたちで人物を描いたりしている。その際、窓側を反対路線の電車が通過し、連なる光の点の描写まで描かれるなど心憎い演出が手がけられていた。

さらに言えば、キャラクターも表情が変わる。すべてのキャラが凛々しくなるのである。言うなれば、全てのキャラが海原雄山化したかのように威厳が漂うのだ。ゆう子には艶が加わり、田畑さんには30代後半の哀愁すら漂う。ちなみに、美味しんぼの設定は、島耕作よろしく30代になっても結婚していない女は負け犬かのように描かれる。こればかりは手塚治虫よろしくの、お箏にテニスならぬ、男にペニスだから仕方ない。諸君らに言っておくが、マルクス主義者が源氏物語を批判するような野暮なことはしないほうが賢明だ。

海原雄山はさらに海原雄山化するという事態にまで至り、結果、海原雄山は北斗の拳の世界に作画上、到達してしまうのだ。ひとりだけまさに別世界で生きるかのようなクオリアを与えてくれた。

♢山岡士郎のキャラ崩壊疑惑について

後半、最も楽しみになったのが、山岡士郎のキャラクター崩壊である。いや、これは至極リアルな描写だったのかもしれない。初めの方は硬派な、女にもなびかず、我が道を行く存在であったが、栗田ゆう子と触れ合いうに釣れ、アニメの最終盤では、このような表情を他者に対して見せるなど、著しいキャラクターの変化がうかがわれる。これも栗田ゆう子と出会ったことが影響を与えているのだろう。山岡の堅かった心をゆう子が柔らかくしたと言ってよい。かくいう山岡は、子どもに対するどころか、後半、他社の受付嬢などとナンパ師のように話すそぶりさせえ見せる。男としての余裕すら感じさせる。まさにキャラ崩壊である。

 

 

♢富井副部長に生じる敬意

しばしば美味しんぼが制作された時代背景を忘れてしまう。韓国企業との接待では涙を流すほどの大失敗をした記憶が懐かしいが、それ以降もかなりのしでかしをしているので、よくもまぁ、副部長になれたものだと、思ってしまうが、実際、社会に出てみると、上司への接し方がうまいだけで出世するということはままある、ということを知る。

実際、わたし自身社会人経験をしたことはないのだが、嫁が社会人を経験しており、職位の権限や人事など社会の掟を聞かせてくれながら美味しんぼを見ると社会なるものが、社会人未経験者でもだんだんわかってくるようになる。相手の職位を間違えただけで数億円の案件がぶっ飛ぶなど、社会は本当に厳しい。わたし自身、社会人から学生気分という言葉を幾たびか聞いたが、社会人が学生をどのようにとらえているかわかってきた。わたし自身わりかし、しっかりした学生と触れ合ってはいるものの、やはり学生は使えない、と言う社会人の気持ちもわかってきた。

社会人は、寝坊、遅刻、体調不良がない。あっても、這ってでもくる。それが社会人なのだと最近知った。

それゆえに、大した美点のない、ともすれば欠点だらけの富井副部長も社会人としては、”それなり”に副部長職にふさわしいことをしているのだと思う。そんな彼にふと敬意を抱く時がある。それはむしろ彼個人に特定できる属性というよりかは、彼の世代に対する敬意のようなものだ。

美味しんぼの制作年代を鑑み、仮に富井副部長の年齢を55歳程度と推定してみよう。1991~2年に制作されたアニメであるから、富井副部長は1936年に生まれているのだ。美味しんぼは、令和の時代に作られたのではないのである。もし富井副部長が存命であれば、今、彼は83歳だ。

鑑賞者は常に時代背景と自らの年齢を忘れる。また愚鈍な登場人物に対して優越感を感じる。わたしもどこかで富井副部長を下に見ていた。しかし、それを”はっ”とさせられたのが以下の言葉である。

 

「食糧難を経験した、わたしの胃袋をなめるな!」

 

関取がピザ屋の娘に恋をした回の台詞である。力士は基本的に、身体を大きくするため、栄養価が高くバランスのとれたちゃんこ鍋を食べなければならない。しかし、時代の流れもあり若い力士はちゃんこ鍋だけを食べるのは辛い。そんな関取としての意志の弱さをにおわせつつも、最終的には親方を説得し、たまにはピザを食べてもよい、そしてピザ屋の娘とも交際してよい、と親方に認めてもらう回である。

その時に出てきた、関取用のでかいピザを富井副部長に食べさせる、と言うのが山岡士郎のゲセな考えである。よく街を歩けば見かける大食いチャレンジ、富井副部長が特大ラーメンに挑戦し、完食したエピソードに言及しながら、山岡士郎は富井副部長に賭けを持ちかけるのである。

 

「食糧難を経験した、わたしの胃袋をなめるな!」

 

飽食の時代を感じ、今、ここに生きていることに大変な幸せを感じた。

 

♢嫁視点で見る栗田ゆう子への苛立ち

アニメ本編では、一切、山岡士郎と栗田ゆう子のリアルな浮ついた話は出てこない。かつ、山岡が圧倒的に鈍感であり、栗田の同僚である花村さんや田畑さんから、あからさまなツッコミをもらっても気づかないでいる。

アニメでは、数回、栗田ゆう子の心の声を聞くことのできるシーンもあり、鈍感な筆者も、そこで栗田ゆう子の気持ちを察する。一緒に美味しんぼを見ている嫁は、早い段階で揺れ動くゆう子の心の機微を汲み取っていたわけだが、その理由を聞けば、オープニングのテーマ曲とエンディングの曲は栗田ゆう子の心の動きであると、読み取っていたらしい。さすが、私より読解力が10倍ある嫁である。

常にゆう子サイドに立って物事を見ている嫁。そんな嫁がいらだたしかった回がある。

栗田ゆう子のライバルである二木鞠子、その祖父にあたる二木グループの会長から山岡士郎が新しいホテルの最上階に相当する場所で究極のメニューを惜しみなく実現し、提供できるレストランの監修を頼まれる回だ。ふだん見せない表情で一心不乱に仕事に打ち込む山岡が描かれる珍しい回である。さらに、山岡はそのレストランの社長にならないかと二木会長から打診を申し込まれ、いくぶんか悩むシーンが描かれるわけだが、栗田ゆう子としては複雑な心境である。山岡がレストランの社長になることは、二木グループの入ることを意味し、鞠子との結婚に向け近づくことを意味する。

当然、ゆう子は山岡が好きだ。しかし、生き生きと仕事をする山岡の姿を慈愛の眼差しで見つめ、社長になった方がよいのでは、心情を吐露までする。ここに嫁は苛立ちを覚えた。

嫁は山岡士郎をわたしに見立て、栗田ゆう子に自己を投影する。わたしの金魚の糞歴10年の嫁からすれば、山岡士郎と栗田ゆう子は絶対に一緒になってほしい、一緒にならねばならぬ長恨歌よろしくの連理の比翼である。

嫁いわく、好きは好きとアピールしないと結ばれない、という。タイミングを逃すと一生後悔する。わたしは数多くそうした友人たちを見てきた。士郎とゆう子にはそうなってほしくない。まさに賢者の至言である。あめとてちてけんじや。

最終的に栗田ゆう子は山岡士郎を思い、海原雄山の家に単身で乗り込み、海原雄山の試験に合格し、名実ともに山岡士郎の”嫁”の地位を得た、と嫁は分析してみせた。

 

以下は補遺である。

♢アート的風景描写

風景の描写で人が平面的に単なる面と点で描かれた回があった。昔の東郷青児を感じさせる描写であった。

 

Netflixでみていると次の回が自動再生されるのであるが、ここまでみてきて、驚愕した。その回は、顔が明らかにこれまでの作画と一変しているのである。再生を止め、ウィキペディアで見てみると、どうやら映画版らしい。確かに作品時間も1時間半だ。

なるほど、美味しんぼのアニメは、かくも人生のように、急激に終わりを見せたのである。

 

映画も観るつもりであるが、そのあとは、何を見ようか。と思案しているうちに東映アニメーションシリーズがNetflixで見られることがわかったため、次はペリーヌ物語を美味しんぼ同様、嫁とふたりで1日2話ずつ見ていこうと思う。

 

 

 

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