お魚さん、ありがとう。
昨日に引き続き、動画をあげる。三日坊主まではなんとか続けたい。とりあえず、以下の動画をどうぞ。
①生の魚を殺して食べること、は哲学の第一原理。
②命を殺していただくこと、感謝の心がわき上がってきたw(俺だけ?)
③手を下して命を喰らうこと、疑おう力が身に付く。
④すべてを疑え!
⑤親を殺せ!教師を殺せ!仏にあっては仏を殺せ!(精神的に)
いっちー、釣った魚を食べるの巻
普段スーパーで買っている魚。それを自らで餌を付け、張りで吊り上げ、ヌメっとした感触と手から洗ってもそう簡単には取れない魚の生臭いにおいを身体にまとい、帰りには、水を抜いて、殺して、持って帰る。そうして、家で料理をして、食べる。
この当たり前の一連のプロセスが大変新鮮だった。普段は、スーパーや魚屋さんで買ってくるだけだ。もしくは出来合いの総菜を食べるだけだから、自らの手で、魚の首を切り落とす経験はアラサー近くなってもしたことがなかった。
シバターの金魚よりは、グロテスクではないにしても、
最近では、台東区や川沿いの小学校でも地場産業として革製品を作る学習授業がなされているから、もう、今の子は、その職業での差別とか、ほぼなんじゃないかな。俺氏も正直、職業差別意識は、リアルに皆無だ。だって、AV女優とか、ホストとか、法律を遵守し、正当な営みをしていれば、職業選択の自由上、なにをしたっていいものと思う。だって、世界のすべての職業というか、大好きな仕事をしている人以外の職業って、みんな娼婦だもんプリズンブレイクのティーバックが言っていたから、間違いない。(永井秀和風)
この暗部、穢い部分、残酷で目を背けたくなるようだけど、目を見開いてみなければならない、必要なことは、おそらくあらゆる事象に応用可能で考える力が身に付く。
同化してしまった問題はそれが日常的なことになるから、興味もだんだん薄れていく。これは仕方のないことだ。とはいえ、だからこそ、人は、祭りをしたり、知恵の装置を日常生活に仕掛けて、目に見えぬものへの感謝だったり、自然の脅威に対しての警戒を巧く日々の営みに組み込んでいたわけだ。
当たり前を疑う。
当たり前体操を体操しながら、当たり前を疑う。これが哲学の神髄にして、最高極地。哲学の第一原理にして、最終到達地点。
…というか、こうしたブログに書いてる時間も動画で書いて、上げてしまえばいいのかも。でも、まだやっぱり、普通に話すことはまだ恥ずかしいなぁ。けど、近日中にはやってみたいない。カメラ目線で自分の考えを主張することw。
一ノ瀬健太
①生の魚を殺して食べること、は哲学の第一原理。
②命を殺していただくこと、感謝の心がわき上がってきたw(俺だけ?)
③手を下して命を喰らうこと、疑おう力が身に付く。
④すべてを疑え!
⑤親を殺せ!教師を殺せ!仏にあっては仏を殺せ!(精神的に)