家族を大切にしない奴は男じゃない。
今日は、おかんとばあさまに浅草・上野を案内してきた。弟は仕事で案内できないから俺が案内する。子どもも大人になれば毎日の仕事と仲間との遊びに追われ、両親や祖父母といった家族から離れ、自分の生活の動的平行をより尊重するようになる。仕事より家族を選ぶのは、結婚式か葬式くらいの“祭り”のときだけだ。
人生なんて、しょせん、東京物語なのだ。俺の弟は、この映画の杉村春子だw
だが、家族を大切にしない奴は男じゃないmという名言もある。おれは真の男になりたいので、とりあえず、めちゃくちゃ忙しい合間を縫って(まぁ、あまり忙しくはないのだがw)東京を案内することにした。
内容は、みてくれ。
①恩返しは、生きてるうちにしておけ!以上。
では、映像で割愛した思ったことをつらつらと述べていく。
普段、車いすを目にすることはあっても、それが身内や、自分の直接の利害関係に現れてくることは極めて少ない。ばあさまに東京を案内して、はじめて身障者トイレの数や使えるところ、また見当たらないときの不安を感じた。とはいえ、流石、東京というか、昨日はまったく車いすでも不便ではなかった。強いて上げれば、①上野の障碍者とトイレの一カ所に紙がなかったことくらいだろうか。それと、②上野駅から浅草に向かう銀座線の電車であえて一本待ったことくらいだ。車いすでも上がれるエレベーター付きの番線のホームの関係があったからだ。一本待つことくらい、3分後くらいにすぐ電車が来るからこれも全く問題なかった。案内の駅員も優しく、まったくノーストレスだ。
俺は普段、おかんと離れて暮らしているから、介護の現場を見ていない。おかんがiPhoneに変えたときにフェースタイムを使ってばあさまの部屋を見たときに介護ベッドが入っていたのをみて衝撃を受けた。
その頃のばあさまの顔はぼんやりとしていて覚えてない。身近な人の昔の顔はどうやら思い出せないようにできているらしい。
その頃、といっても今から25年前くらいだろう、のばあさまが、こんなに動けなくなるなんて思ってなかった。おそらく、おかんも、おやじも長生きすればするだけ、そうなっていくだろう。寝たきりのトイレは、身内、また異性の親にとっては、初めての介護はかなり辛いものがあるだろう。とはいえ、そこは、人間で、喉元過ぎれば慣れてしまうに違いない。アマルティア・センがケイパビリティー論で、面白い問いをあげている。
問題!テレっ!(効果音)次のうちもっとも不幸な人はだれでしょう?
①手足の不自由な障碍者
②貧乏
③愛する人に先立たれた人
さぁ、どれでしょうか?
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正解は…
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異論もあるかもしれませんが、①番です。とりあえず、センは移動のできる範囲の制約をもっとも不幸であるとした。詳しくは、センのケイパビリティーを読んでね。
今回、ばあさまに付き添ってみて、たしかに、いけないところがたくさんあった。また車いすの視点の低さもある。慣れてしまえば、怖くないのかもしれないが、ばあさまの低い視点から見た世界はけっこう俺的には怖かった。おかんは介護で腰をやられたらしい。足、腰の悪い車いす老人、でい障碍者も行きたいところに行ける、連れて行ってくれる介護ロボットは福祉(人の幸せ)のためにも必須だなと悟った。もしくは、iPS細胞の脊髄損傷治療がはじまっているので、その治験結果もおおいに楽しみである。
島田紳介が言っていた。俺は、恩返しは生きてるうちに、しかもぼける前にしてる!と。これは本当に真理だと思うし、俺もこれを見習ったつもりだ。とりあえず、自分は死後の世界があるかどうかわからない立場に立つ。お釈迦様や孔子と同じく無記(わからないことは、わからないとすること)を貫くが、もし仮にあっちの世界があるとしても、持っていけるのは感動だけなきがしなくもない。
であれば、お葬式でどんなに涙を流し、墓に布団を着せようが、感動させるができた、笑顔にさせることができた時間も、チャンスも戻ってこない。それゆえに、俺は今日、なんかおかんと出かけるのは恥ずかしかったのだが、勇気を出して、おかんとばあさまの東京案内に残り少ない人生の丸一日を使った。とはいえ、俺の面倒を見てくれた十数年間からしてみれば、今日一日なんて、鼻毛をぐいっと引っ張る瞬間に過ぎないだろう。カップ麺すらわかせないwそのちょっとした時間を家族のために惜しみなく使った。とりあえず、至らない点も多々あったが、ベストは尽くしたつもりだ。これでもし明日、オサラバしてもやっぱり後悔はあるけど、とりあえず後悔は軽くなる。せこい!おれ!
とはいえ、あっちは無償の愛でかかってくるから、俺がお寿司をおごったとしても、最後には、しわくちゃになった一万円札をしわくちゃな手で俺にわたす、ばあさまには、まだまだ恩返しがしてもし足りないわけでw無償の愛とか、なんやら、進化心理学的には、おれたちは〜、遺伝子の乗り物だから〜、愛とか、云々なんて〜、と冷たい理性を持って事象を眺めるが、いかんせん、目頭が熱くなってくる。進化論も真理だし、愛や思いやりもまた涙も真理なのである。
まぁ、とりあえず、また退屈で平凡な日常に戻る。介護老人とは、融通の利かない我が儘で頑固な赤ちゃんで、うんちも赤ちゃんの500倍臭い。おとなのうんちだ。だが、介護、しなければならない。真の哲学者は近江聖人こと、中江藤樹のように、都での出世を投げ打ち、地元に帰り、介護をしなければならない。血眼(ちなまこ)したる男子諸君よ、天下国家を語る前に、まずは、己の父母を、兄弟を、祖父母を愛せ。(俺はやらないけどw、哲学者って、なんだかんだで基本、口だけだからw、ルソーとかその典型w)
これで、またばあさまもおかんも、おれもまた祝祭の場を離れ、日常という静かな絶望を生きる。
ただ一切は過ぎていきます。笑いも、悲しみも、慶びも、嘆きも、狂乱のダンスも、みながみな一切はただ過ぎていきます。諸行無常。一切衆生悉有仏性。ポープの人間論の序章からの一節を引いて、本エントリーを終える。お正月という次の祝祭の場を祈って。合掌。
Hope springs eternal in the human breast;
Man never is, but always to be blessed:
The soul, uneasy and confined from home,
Rests and expatiates in a life to come.
– Alexander Pope, An Essay on Man
一ノ瀬健太
①恩返しは、生きてるうちにしておけ!以上。