Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

雪国を走りながら、身捨つるほどの祖国はありし。


新幹線!

新幹線!

 

新潟に帰ってきたったw!!!

何もやることがないから、年末年始を家族と過ごして、それだけでまぁ、東京に元旦にはもどろうかなぁ、なんてかんがえていたけど、今日、実家でしゃぶしゃぶを食べてもうすこしゆっくりしてもいいかなぁ、なんて考えてる、なうです!

さて、新潟に来るにあたって、新幹線を利用して帰ってまいりました。新潟駅を降りると…

もう有名になったら、この道もゆっくり歩くことなんてできなくなるんだろうなぁ、なーんてありそうでなさそうな夢物語を考えながら新潟駅のココロあたりをぷらぷらと歩いておりましたらば、そう!ありました!ぽんしゅ館!は、次の投稿に譲るとしまして、まずは、ぼくが帰ってくるときに感じた事、考えたことをブログに記しておきます。東京駅を出て、2時間、ゆるゆるとブログを書いていたら、新潟駅に着いてしまっていて、あぁ、おれ、二時間もくだらねぜ、ブログ書いてたぜ!やっぱ、小学生は最高だぜ!的なもののブログです。それでは、どうぞ!

その前にまずは動画をご覧ください!(^-^)

それと、二時間書き続けた、ブログもご覧ください。これほど、むき出しの知性的な文章を書ける人間は、日本広しといえども、おれくらいではないでしょうか?

 

ーーーーーーー以下、車内で執筆したブログ的日記ーーーーーーーーーー

これから、一年に一度の楽しみであるぽんしゅ館に向かう車中、毎日ブログを記すことを日課としているから、狭くむさ苦しい車内でマックを広げるんけにもいかず、iPhoneのフリックで入力している。

あれ、れ、でも、こっちの方がタイピングよりもひょっとしたら早いのかもしれない。うーん、でも、これだと、長文とか打つのも面倒な気がするが、あれ、れれれ、でも、たしかにこれいいかも。コーティングの時はやっぱ、キーボードだけど、ふつうの自然言語の出力にいたっては意外にiPhoneも、悪くない。というか、打ち間違えがないから速いw普段自分どんだけ打ち間違いしてんだ!このバックキー野郎が!

はてさて、いつも前置きが長くなる。それは頭に浮かんでくる言葉をありのまま、推敲せずに、外界に出力しているためだ。もちろん、ありのまま、と打った瞬間に、姿見せたいのーよー♪メイジェイでなく、松たか子の方をイメージした。嘘です。メイジェイの方でした。

さてさて、本題。

隣に人が座っている中でYouTubeを撮影するのは、マジではずいwwとりあえず、やっぱ小声になってしまった笑

朝帰るか夜帰るか迷った挙句、ぶらぶらと掃除したり、第九を聞いたりしていたらいつの間にか午後になり、まぁ、ぽんしゅ館行ければいいか、と19時00分に新潟着をめどに荷造りしただけで今日一日が終わったと言っても過言ではあるまい。しかし、こんなもの一体誰が読むと言うのだろうか、こんな文章を読む輩がいたら、それは本当の暇人である。

これからは、個性を売りに出せる、時代というが、太古の昔から芸人とはそういうものだ。個性で食べている人間をプロといい、芸人という。とはいえ、芸人はおわらいというファクターが強い現代の時代背景があるが、基本的に人間は皆、芸人で、研究者だ。

おれも昔の文士のように恥を売って生きている。いかんせん、売れぬ。アフィリエイトも、YouTubeも鳴かず飛ばず、はてさてどうしたものかと、年越しだ。つかれたので左手で書いてみる!。にゅうのスピードpと誤字脱字率があがった、。
右手に戻す。

本題、本題と言っては脱線してしまう。これが二流の二流文士たる人間の文だ。スタイルだ。人格はスタイルにあり。フォーマット、コンテンツの出力形式にその人間の個性もモノの考え方も宿る。スーザン・ソンタグモ木幡和枝も言っていたからこれはまぁ、真理だね。

博覧強記が創作の邪魔をする。割愛できないから、表現したい部分が埋没してしまう。素晴らしい作品とは、その伝えたいことと、表現したいことと、そのフォーマットと、教養がうまく、絶妙にブレンドされている。そうした、作品を仕上げたいものだ。

しかし、2時間、こうして身動きできないのは久しぶりだ。いつも、足を伸ばしたり、奇声をあげたりして、Macを叩いていたわけだが、ジャロン・ラニアー師のいうように、今のこの俺が打っている文章こそが、俺のうちから湧いてくる真水の泉の文章なのかな、と今気づいた。

今はネットも繋がりにくいから切っている。どこかの駅で止まった時にチラ見するくらいだ。オフラインで、手持ち無沙汰、さきほど席に備え付けのトランヴェール12月号と通販の冊子は既に東京駅を発車する前に読んでしまった。

あ、というか、これ、いつも返してたけど、もらっていいんだ!たぶん!新幹線に10年くらい乗り続けてきたけど、ついに今、気づいてしまった笑こういう発見があふからこそ、生きるのは辛いけど楽しい。

たしかにそうだ。初老の老夫婦にもし仮に、通販カタログに欲しいものがあった場合、そのが冊子なければ、あとでどうやって発注するのだろうか?車内にいるうちにメモるのか、そんなことあるか、馬鹿を言え。

通販はまぁ、いらないにせよ、備え付けのトランヴェールは魅力的だ。R25と同じくらいに力的だ。それと、文章を書いていておもうことが、ブログとYouTubeの違いだ。YouTubeは即興的に喋りながら考えてる。

ブログの場合は脳から文字が出力される時間が喋りよりも遅いため、様々ことが脳内を駆け巡りYouTube的な、AならばB、BならばCというような思考回路ではなく、AならばDだったり、Yだったり、Aでダメなら、Zでというのが、容易にできる。もちろん、喋っているときでも、こういう動きが頭の中で行われているのだが、それを自覚的になる以前にカメラは回り続けているから、飽きさせるわけにはいかないと、すぐさま浮かんだネタに飛びつかざるを得ないわけだ。

それに比べ、活字系媒体の方は、俺が親指シフトを使えないこともあり、出力されるまで思考が様々なところに跳躍電導して、数多の分野にダイブしていく。そのため、喋るよりも様々なことが書いているときには浮かんできて、なくなく割愛し、厳選して文字に起こす。それらを全部書いていては時間が足りな過ぎるのだ。

本題、本題といって、また、こんなに書いてしまった。閑話休題、このままいくと永遠に本題に入らないから次の段落から即本題に入る。

悪即斬!とか言わない!

だいぶ話が逸れたが、一応、これまで続いてきた文章あっての本題である。こう回りくどいのは夏目漱石の技であり、それを模倣しているのだ。

日の明るいうちに帰るつもりだったのだが、気づけば午後だった話はさきほどした。こちとら、ぽんしゅ館に間に合えばいいのだから遅かろうが早かろうがどっちでもいい…はずだったのだが、今になって明るい頃に帰ればよかったと気づいた。そう、夜は暗くて景色が、見えない笑ということに。

なので、必然的にYouTubeで使えそうなところも限られている。明るいところじゃないと画も、使えそうにない。とはいえ、せっかくなけなしのを一万円を叩いて故郷新潟に帰るのだ。何もせず指をくわえて、のほほんと、車中で鼻舟を漕ぐわけにもいかぬ。こちとら、今日は11時起きだ!その寝溜めした分をここではらさでおぐべきか!なにより、ピンチをチャンスに変えたらいい。逆境こそその人間の真価が問われるところだ。

これを打ちながら4.5回ほど睡魔に襲われた。その間にも、トンネルを抜ければそこは雪国、ではあったのだが、辺りが暗くて感動も足りない。白い粉がぱさぱさ、窓を叩くくらいだ。そうこうしているうちに越後湯沢に着いた。車窓からスキーをしているバブリーくんたちを撮ろうかしらん。あぁ、私をスキーに連れてって!ホイチョイプロダクション!

でも、駅を降りたら雪があるって、素敵だよな!それだけで幻想的!四季折々の顔を、見られる日本はマジでカミの国だw

日本とは何かと問われれば、日本語と四季と答えよう。

あぁ、気づけば耳が変になっていた。だいぶ長い間気付かないものだ。狭い車内、堅苦しい、身体言語がそういうものだと、俺の脳に命令し錯覚させていたのだろう。越後湯沢になり、車内がほんの少しだけ空いた。隣の席も空きが出た。心身一元論。肩の荷がなんか少し軽くなった。

それにつけても、雪を見ると血が騒ぐ。やはり、根っからの雪国の遺伝子が俺を形成しているのだろう。でも、なぜ故に俺は寒さに弱いのだろうか、膝下からの冷えがこの冬から本当に辛い。これも30手前味噌の年齢からくるものなのか。他の人にも聞いてみたい。

新幹線は進む進む。気づけばもう、18時29分だ。出発してからここ一時間半、ずーっと、ブログを書いてる。まだ本題、本題といって本題にすら触れていない、おれの二流文士テクニックや哉。

到着する前までに何としても、本題に触れたい。今日伝えたいことは、これだ。やっと言える。それとは、昨日YouTubeにもあげた「人間分子網目の法則」のことだ。

大宮、と言ってももうだいぶ昔のことだが、先ほど新幹線で通過した折、さすが都心のベットタウンだけあって、新幹線の走る高架からまだカーテンを閉めておらない家がちらほら数十軒ほど目についた。暗いため何も見る物がないと先ほど述べたばかりだが、ピンチをチャンスに変えたのはここにあった。今回の新幹線の旅はこれを見ることにあったと言っても過言ではないだろう。というか、まぁ、新幹線に乗るときはいつも同じことばかり考えているから進歩がないともいえるのだが、やはり、中国古典を長きにわたり学んできただけあって、常に「為政者」の視点からものを眺める癖がついてしまったのだとも言える。コペル君の「人間分子網目の法則」は実は、俺自身その本を読む前からずーっと、ぼんやり考えていたことであった。人は支え、支え合いながら生きている。当たり前のことだか、忘れやすい。大切なことほど盲点に入りやすいのだ。そして、その小窓から見えたものたち。
1に机を並べ受験勉強に励む高校生たち

2に寝たきりベットから、テレビを見るおじいちゃん、かおばあちゃんと、それにご飯を準備している娘さんか嫁さん

3に何かの研究室が、白衣を着てドモホルンリンクルの実験室のような場で作業する人たち

4にふつーに書類の積まれたオフィスで仕事する老若男女

総じて、ベットタウンに、居並ぶ幾百万の小窓から漏れる光に幾百万の人間の生活がある。東京から大宮、雪国を抜け、闇深き田園に今日も小雪の降りかかる。今はもう長岡、あの灯火の下に幾百万の魂の灯火が愛を語る。あっていた!そしてこれからも語り、語り合うだろう!

あぁ、素晴らしい人間社会。普通に物が買えて、毒が入っていなく、蛇口を捻ればお湯が出る。意地を通せば窮屈だけど、支えてくれる仲間がいる。普通に物を落とせば30パーセントの確率で帰ってくる日本!よかれあしかれ、その同調力もあり、おぉ、これぞ我が祖国なりしや!

身捨つるほどの祖国はありや?と君はマッチを擦りながら僕に問うた。僕は君に敢えて答えよう。身捨つるほどの祖国はありや!と!

ただし、死ぬからには健全な民主主義と基本的な人権の尊重という形式が守られた上でだ!エノケンのように反抗ソングを奏でつつ死にたい。警鐘は有事に、ならさず、誓って有事になる前だけ鳴らされるのがいい。機先の先を制す。これ五輪書なり。

今はもう燕三条、もう新潟に着いたも、同然だ。車中、本を読むつもりがかくして、ブログを2時間書く羽目になるとは思わなんだ、文字数は本質ではないが、あとでカウントしてみよう。やはり、生まれながらの物書きと言うべきか、どうやら、二流文士でも書く体力はあるらしい。要は、缶詰になれない、という理由だけなのだろう、俺がものをかけないのは、面倒な弱アスペルガーなのだ笑

広い国土、道路、衛生環境を含めたインフラの整備、そして、新潟人ならば押さえておかねばならない田中角栄。彼のおかけで俺は東京から2時間で帰ることができるのだ。駅が近い。もう元俺の職場ROUND1が見えてきた。俺の育った小中学校も、見えてきた!來!来たれり!我が故郷、新潟よ!我、凱旋せり!

いざ!家族が元へ!

ちゃいばー!

追記  マンションの蛍光灯で、その家の趣味もわかる。赤系の蛍光灯が俄然多かったが、白い蛍光灯も1割くらいはあった。ぼくは赤系の蛍光灯が好きだなぁ。

そんなこと、考えた2014年の12月29日でした。

新潟発Youtuberこと、みんなのいっちー




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