Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

みゃー、あいしとーよ。


大好きなみゃーちゃん

大好きなみゃーちゃん

みゃーさんが死んだ。石神井寮をまるまる体現した存在と言っても過言ではない清濁を併せ呑む、酸いも甘いも見てきた古き良き時代の猫だ。石神井寮に住み着いて20数年間、誰よりも永きに渡り寮を見守ってきた、そんな猫であり、寮の主だ。

本日、平成27年1月3日、午前7時12分、みゃーさんは大往生を遂げた。まさに主にふさわしい堂々と立派な最期であったことを報告する。みゃーさんは近日中に荼毘に付す予定だ。それから桜の咲く頃に、みゃーさんの好きだったあの桜の樹の下に散骨してやろうかと考えている。もしみゃーさんの生前の姿を見たい者がいれば、私まで連絡をくれ。対応する。

石神井寮に住んで4年、まさか自分が引き取ることになるなんて思ってもみなかった。

今も家中のいたるところにみゃーの痕跡がたくさんある。まだ家人は心の整理がつかない。すべて、みゃーが死んだままで保存されているかのようだ。家の時がみゃーの心臓と同期して止まっている。時間軸はパラレルで、家の時間と家人の時間はまったく並行して進まない。みな、年始のバイトやら、帰省やらで慌ただしい。たしかにそうだ。誰もみゃーがこの時期に死ぬとは想定していなかったのだから。

玄関に食べかけの残骸、残った牛乳と生臭いまぐろのキャットフードとその上にかけられたかつおぶし。みゃーは最期、死期を悟ったのか、餌もろくに食べす、牛乳もあまり飲むことはなかった。

玄関の白い壁には、食べ終わると首を豪快にぷるぷる振って飛び散ったまぐろやサンマ、牛乳などが付着している。

それだけではない。今も、時折、みゃーの声と音域の似ている音がすると、空耳で聞こえるみゃーの鳴き声。おしっこは粒状の猫砂をつかていた。みゃーは用を足し終えると、即座にジャンプしてトイレから出る。身体にはトイレの白い吸収ペレットがところどころ付いたままだ。それで家中歩き回るから、またそのペレットが家中のいたるところに散乱される。二階の廊下、階段、寝室、一回の廊下、台所、リビング、おれの生活圏すべてにペレットが散乱している。唯一ペレットが散乱していないのは、大嫌いなお風呂だけ。

まだまだある。寒いだろうと暖房をつけたまま、いつもは開けっ放しにしているドアを迂闊にも締め切った時にした、しかもよりにもよって下痢、の床の溝に詰まった痕跡。拭いても拭いても、取れなかった茶色のあと。今は、それすらも愛しい。家人はみな忙しい。それゆえに、俺がみゃーの痕跡を消す後片付けをしている。家中のペレットを拾った。拾っても拾ってもまだまだ出てくる。まだ家の中を歩き回っているのか、そういう怪奇現象はいらないよ、と怖いからつぶやいて家中を回る。もし家族が死んで家の中を歩き回られたら怖い。背後に立たれていたと考えるとシャンプーも怖くてできないかもしれない。洗面台の鏡もひょっとしたら見れない。

みゃーでよかった。猫ならば、まぁ、背後に立たれても視界の都合上低くて見えないから、すこしだけ怖さも減じる。もともと化け猫みたいなブサイクな猫だったから、死に顔も化け物じみていたけれど、まぁ、いつも通りの、通常運転のブサイク顔だったから、いつもと同じくらいに、愛しく、このブサイク顔もこれで最期かと思えば、ますます愛しくなってくる。

まだ、みゃーのトイレは今もそのままになっている。担当の家人が少しづつトイレをきれいにしているのがわかるが、まだ周辺だけでペレットまで手が回っていない。猫用トイレはドーム型で壁にこびりついた数々のうんちたちよ。おぉ、おしっこを吸収して大きくなったペレットのかたまり、それももう完全に乾いて、カピカピになっている。これもまた、そのどれもがやっぱり愛しい。慈しみの対象だ。

みゃーを剥製にしてやろかとも、思ったが、まぁ、20万円かかるからやめにした。とりあえず、写真ならいっぱいあるから、未来の3次元復元データでいつでも再現できるだろう。最近、すべてをデジタル化する考えを自分は信奉するようになってきたから、写真があれば事足りる、と考え、剥製はやめにした。土葬も考えたが、石神井寮の桜の木の下をこの寒空で1メートル掘らなければならないのも億劫だ。

四月の、桜の咲く頃に、みなで集まって散骨してやろうと思う。そっちのほうが楽だ。石神井寮の猫は石神井寮の自由気ままなスタイルで葬ってやる方がみゃーもきっとよろこぶだろう。墓には、戒名をガリガリ君の棒に書いてやる予定だ。

 

ここからは、個人的な回想だ。みゃーとの付き合いはかれこれ5年になる。東京に出てきて右も左もわからぬ自分に突如訪れる石神井寮の圧倒的な汚さ。想像していたよりも、それははるかに汚く、本当にこんなところで生活していけるのだろうかと本気で悩んだ。自分のブロックの住人たちに挨拶を終え、荷を解き個室に一人。聞けば、ここは相部屋、やれやれ、プライベートな空間もない中で、本当にここで暮らしていけるのかと初日で泣きそうになりながら入れたコーヒーの薫り。電気ポットが使えた喜びに何も頼るものがない自分の心細さが痛感させられた。期待よりも不安が大きい中、窓の外を大きな桜の木が覆っていることに気づいた。外の空気を入れると二、三枚の花びらが個室の床に舞った。これならカーテンもいらないかも、とやっと冗談めいた皮肉も言える余裕がでたとき、おれは正面入り口の方にも桜がたくさん並んで生えていることに気づいた。余裕が視野を広げた。その桜の居並ぶ、ひときわ大きな三本の桜の中を一匹の猫が闊歩している姿が目に入ってきた。それが通称”みゃーさん”だった。年齢不詳のその存在はオリエンテーションでも注目の的でみなが興味をそそられた。あれが、みゃーさんなのか、という好奇心が人見知りなおれを駆動させ、また誰かと出会うかもしれない個室の外の世界に歩を進めさせた。

こう見えて猫好き、コーヒーを片手に玄関まで行くとあいつがいた。あっちは我関せずで事務室脇の玄関脇で伸びている。リスクを即座に考えるビビリな俺は、みゃーが野良猫に思え、もし狂犬病を持っていたら、どうしよう、噛まれたらどうしよう、せっかく芸大に受かったのに、入った初日に狂犬病では親が泣く。触りたいけど触れない、うーん、と葛藤していたら、そこに寮母さん、みゃーさんについて軽いレクチャーをしてくれた。触っても噛んだりしないというから、スヌーピーのマグカップ片手におそるおそる触ってみた。こっちのおそれおそれを察知してか、ぴくっと、肌を一瞬ビクつかせたが、それからは撫でるに任せてくれた。こんなにすんなり撫でさせるのは俺くらいなものだろう、と選民思想を抱いていたら、誰彼でも触らせるらしい、こと女の子に関してはなおさらげんきんな猫だ。近くで見ると、思ったよりもブサイクで、個性もまったくない顔をしている。眉間に富士山を描くその顔は個性のない、どちらかといえばブサイクな猫だった。それがみゃーとのファーストコンタクトだった。

一年目、203のG部屋に住んでいた頃、まだブロックの寮生とそんなに仲良くなっていない頃だったが、時折、男子寮の奥の階段にみゃーを見つけると、かわいさとさびしさのあまり、部屋に連れ込んで、孤独を慰めたことも多々あった。はじめは自分の個室にみゃーさんをいれていいものかどうか葛藤し、煩悶し、懊悩したが、結果、ばれなければ大丈夫だろうと、しばしば、こそこそ、みゃーをだっこして、連れ込んではおれのトップの残りのカツ重の切れ端などをやっていたが、あとから聞いたら、みんな知っていたらしい。というのも、みゃーが餌をくれと鳴くのだ。壁が一反木綿よりも薄い寮だから、当然と言えば当然で、それをこそこそ誰にも気づかれていないと勘違いしている自分はだいぶ滑稽に映っただろう。とはいえ、みゃーは可愛いものだ。当時は自分の飼い猫じゃないから栄養とか正直どうでもよかった。人間の食べ物はあまり良くないらしいのだが、まぁ、食いたいままにさせておけ、くらいなスタンスだった。みゃーも味をしめて、以降、俺の部屋にしばしば、ふらふらと来るようになった。G部屋は窓が北と南についている。クーラーのない暑い灼熱の夏の宵も窓を開け放ち扇風機を巧みに使ったベルヌーイの定理で涼風が頬をなでるシステムを構築した。その風はおれの火照った体だけでなくみゃーの毛並みも撫でたことだろう。寒い冬はいつも暖房つけっぱなし、それもみゃーの気に入ったのだろう。初夏の終わり頃から1年の冬休み、東日本大震災までみゃーはいつもおれのそばにいた。災害の時もずーっとみゃーはおれと一緒にいた。いや、あいつは正直、心がわかるから、昼間なんかは玄関に行って寝そべったりして寮生を温かく元気付けていたんだと思う。夜になると女子寮の入口付近で餌を食べ帰って来る。そんなローテーションを繰り返していた。

二年目は部屋移動でおれが403に移った。バカと煙は高いほうが好きだからというのがその理由だ。遠く山脈を見据え、屋上が近い。何より、入念なリサーチの結果、当時の403は人が誰も住んでいないということが判明した。先人がいれば気を使うが、誰もいなければ気を使わなくてもいい、後輩なら物が言える。つまり、好きにやれるわけだ。今日から403は俺の城だ。そう思って、俺はF部屋に入った。
移った当初、みゃーは203の前で鳴いて困るという知らせがおれのところにきた。みゃーがおれがまだ203にいると思っているのだ。だからおれは、みゃーが風呂場から練習室にかけてみゃー、みゃー、と呼ぶ声が聞こえたら、即座に下に降りて行って、みゃーにおれは403にいるよ、と教えてあげるようにした。それを二、三回繰り返したら容易に学習したのか、すぐに403に来るようになった。403はおれとみゃーの城になった。誰にも邪魔されない二人の城だ笑

三年目、一気に403のメンバーが増えた。みな、みゃーが出入りすることを承知で403に入ってきた。正直、俺の城が過ごしにくくなるのは嫌だったが、そこは寮長として、ブロックの人数配分上、多く獲得しなければならなかったから、まぁ、仕方ないと、多くのメンバーを歓待した。中国人から、オーストラリア人、実に多彩な国際色豊かなメンバーが403にはいた。みゃーは冬になると、いつもおれの枕のそばで特製の寝床で寝るようになった。臭い。けど、いつもかわいいから許してやった。鼻をぐー、っと近づけると、香る牛乳の匂いと鯖の入り混じった独特な匂い。油断するとすぐにおれのふとんに乗るバカ猫。それは、死ぬ間際まで変わらなかった。隙あれば、おれの枕に鎮座ましますのだ。あぁ、バカ猫。バカ猫。そこがいつも可愛かったぁ。

四年目、新しく入った後輩のおねえちゃんが獣病院に勤めているという。そいつがおねえちゃんにみゃーのことを話したら、病院で使っている栄養価の高いキャットフードを送ってくれるようになった。みゃーはそのままだと食べないから、おれがまず、すり鉢で完全に粉末状にして、それで牛乳、みゃーは低脂肪乳は飲まないから、特濃4.4の牛乳を電子レンジで温め、みゃーの鼻腔を刺激するようにセッティングし、あとは、ミリ単位で粉末と牛乳を混ぜ合わせていく。一気に混ぜてしまえば、牛乳だけを飲んで栄養分の高い粉が残る。牛乳が少なければ食べづらいのでまたこれもだめ、というわけだ。ミリ単位で注ぎ、みゃーが餌を食べ切った段階で残りの牛乳のみを与えるようにしていた。みゃーはだいたい、ここに来る前に正門のところで近所の方の煮魚を食べ、その後女子寮でまた何かつまみ食いをしてその後、俺のとこに来ていたのだと思う。午後8時か9時くらいに来ては、そのおれ特製の栄養ペーストを食べ、牛乳を飲み、その後、おれの部屋に行き、ほいとジャンプして、特性ベッドで寝た。ここですぐに目を話すとおれの枕が崩壊するので、しっかり落ち着くまで目をは離さず、腰を落ち着けたら、おれはリビングでご飯を食べていた。みゃーは、みゃーでまた朝の4時か5時におしっこタイムに行き、みゃーみゃー鳴いて、ドアを開け、レンジでチンした牛乳を飲んでおれが起きるまでまた眠る生活リズムが規則正しく行われた。思えばこの頃からみゃーの健康管理に気を使うようになったのかもしれない。

とはいえ、そこは学生、金がないからみゃーがやばい病気にかかったとしたらはたしておれは病院に連れて行ったかおおいに疑問だ。みゃーちゃんは一度大病を患ったことがある。持病には白血病もあった。お腹を大きく傷つけた猫の大げんかはみゃーを瀕死の重傷まで追い込んだ。その際にとりあえず自腹を切って病院に連れて行った寮生と立て替えてくれた寮母さんには、ほんとうに感謝だ。そして、嫌な顔せず月ごとに100円を徴収するみゃーちゃん寄金に協力してくれた寮生の存在は本当にありがたかったと思う。たかが100円、されど100円、その重さをみゃーはちゃんと噛み締めていたことだろう。閉寮の際には、トップ前の犬猫動物病院の院長さんが大変いい人で、3万円もするみゃーさんの検査をタダでしてくれたのには、本当に人の素晴らしい縁を感じた。しかも、みゃーのトイレきっとまでくれ、猫の環境の変化のアドバイスもくれた。そのアドバイスは最後の最後まですべてが役に立ったものばかりだ。ちなみに、その院長さんは、子どもの頃に石神井寮の中で遊んでいたそうだ。そうした縁が巡り巡って今に至っていると考えるのは素晴らしいことだ。

それから、閉寮。別れを惜しむように、みゃーはいろいろなところにおしっこをかけまくっていた、ような気がした。最後のどさくさに紛れすべての部屋に立ち入りが可能となったから、寮内を男子寮、女子寮関係なく、大きな庭のラベンダーのみゃーの散歩道をみゃーと一緒に散歩した。あのラベンダーの素敵な紫をおれは生涯忘れないだろう。おれは、そのとき、猫畜生だからみゃーは閉寮とか、そういう意味もきっとわかんないんだろうなぁ、なんて思っていたが、やっぱり、今にして思えば、あいつは、わかっていたのだと、おれは思っている。本当にそうなのだ。意外に犬猫畜生の奴らは、テレパシーを使ってか、オーラを感じ取ってか、なんだかわからないがなんらかしらの手段を使っておれたちの心を読む。

新居では、初めの2ヶ月は、おっかなびっくりし、調子もすごくわるかったものの、初夏には家に馴染み、ひなたぼっこをする毎日だった。クーラーが壊れていたため二階が灼熱地獄と化した第二石神井寮もみゃーは今までどおり、ぐだーっと階段に寝転び、伸びたままで夏を乗り切った。女子寮前の階段はみゃーのお気に入りの涼み場所だった。それから、冬がきて、なんだかおれたちの膝の上に最近やたらに乗るな、と微笑ましく思っていたら、ここに来ての急激なピンピンコロリ。おれたちに金がないのは重々承知だったのだろう。いつも金がない、金がない、家賃だ、家賃だ。猫砂猫砂、餌餌、云々かんぬん、なんでんかんでん、とぴくぴく動かす小さな耳で聞いていたのだろう。愛のささやきをたぶんに聞いたその耳で。みゃーは、おれたちのこころを読んで、弱るそぶりも見せず即座に弱って、即座に逝った。葬式不要、戒名不要、森鴎外のように簡潔明瞭。

なんて立派な潔さなのだろう。花は桜木、人は武士ならば、猫はみゃーだ。みゃーはよく桜の木の根っこに丸まっていた。けっこう寒い日も丸まっていた。みゃーは桜が好きだった。みゃーは桜のように潔かった。さすが、石神井寮の主である。王者たる堂々とした立派な死に様である。お見事。

ここに書いたのは、みゃーの生活のごく一部であり、それにすり寄ったおれの思い出の一部だ。ここに記せなかったみゃーとの幾百万の素晴らしい思い出たちは、また機会があれば記したい。とりあえず、今日一日中何もやる気が起きなかった。ずーっと布団の中で正午までゴロゴロしていた。意識はあった。ただ起きればそれが現実と受け入れざるを得ないと心のどこか片隅で思っていたのだろう。だから、今、なにかせねばという気になって筆をとった。とりあえずの、気ままな殴り書き。少しでもみゃーを覚えていてもらえたら幸いです。

そしてみゃーが教えてくれた五つの教訓を天下に知らしめたい。

一つ、命はどれだけ長く生きたかではない、いかに生きたか、である。

一つ、一期一会とは、目の前の相手の死を思うことである。今この瞬間を最後に相手と永遠の別れとみなすことである。だから、相手に今一瞬のベストを尽くすことになる。

一つ、みゃーが死んでから、いまのところ、すべてのものが愛しく、慈しみの対象となっている。ばあちゃんの味噌汁、じいさまの餅、おかんののっぺ、いつも口喧嘩してやまない俺もきょうばかりはすべてが尊くて、まるで聖人になったかのように振舞えた。すべてが愛しかった。おれを罵る悪口も、じじばばの喧嘩も、両親の諍いもすべてがなぜか、無性にありがたかった。高畑勲のかぐや姫の本質に今日は触れた気がした。おそらく、明日からまたおれは、この世界の現象が徐々に愛しくなくなっていくだろう。悪口に腹が立つようになるだろう。だけども、その時には、みゃーのことを思い出せたらいいなと思う。今、この瞬間、”込めて”生きる。一期一会。みゃーが俺のそばにいる限り、この気持ちを忘れないようにしたい。

一つ、みゃーは今もおれたち寮生を温かく見守ってくれている。おれたちの記憶がみゃーを思い出すたび、そのたましいはおれたちの中に存在し続ける。少なくとも、おれのたましいはみゃーのたましいを思い出せる。それだけで、みゃーはおれの中で生き続ける。

一つ、みゃー、ありがとう。またいつか、あの桜の樹の下で会おうね。まぁ、人間の寿命は長いからぼちぼち、だらだらして、道草しまくりながら、そっちに行くね。ま、もう50年、60年くらい待ってておくれよ。みゃー、あいしとーよ。みゃー、ありがとーよ。みゃー、あいしとーよ。

臭くて、なにも喋らなくて、餌食って寝るだけの猫だったけど、お前は、めちゃくちゃ最高の猫だった。まさに石神井寮を体現する存在。一緒に過ごせたことでどれだけ多くのことを学んだか。それと生き物や自然にはやっぱり、心がある、ということも教えてくれた。これからも、いつまでもおれたち寮生を見守っていてくな。みゃー。

元石神井寮男子寮長、みんなのいっちーこと、りょーちょーあらため、一ノ瀬健太




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