謹賀新年!国宝見たい放題しゃぶりたい放題!
やっぱり、国宝だけあって、みんな見るわ見るわ。俺なんて芸大の芸術学科だけど、その美的価値はさっぱりわかりませんwですが、なんとなく、いい!!!!!!!というのはわかるわけで、おそらくあそこで自分と一緒に図屏風をみていた方々たちもなんとなく、いいなぁ、ぽっ!って感じで見ていたんだと思います。
作品は、耳で見るのでなく、やっぱり、目で見て自分でいいものを判断する審美眼的なものを鍛えていきたいね。それと、王様の耳はロバの耳ではないけど、やっぱり、自分で本当にいい!って思わないものだったら、恥ずかしがらずに、わかんない、とか、よくない、とか言ってよろしい!そっちのほうが批評ができるってことだから、ますます美術界が良いものになっていくのだ。日展なんて芸大生だれも視野に入れてないですからwww
だって、批評がないからwそんな世界いて楽しいですか?批評あってのアートでしょう!
だから、みなさんも、もっと積極的にわからないものはわからない!つまらないものはつまらない!と正々堂々と主張しましょう!そしたら、アーティストのほうから説明してくれます。そして、そこでもわからなかったらわからないと教えてあげましょう。そうすればアーティストの方は、次の作品で伝わるように”改善”できますから。
それと、鑑賞する方も、よく見る目、聞く耳をもつこと。聞こうとしない、見ようとしないで、わからない。つまらない、は禁句。どうやってどんなに一生懸命理解しようとしたけど、さっぱりだ!その時にはじめて、わからない。つまらないと大声で行ってあげてください。きっと嬉しいはずです。ギャラリーで座ってるだけで大いに暇なんですから、声をかけてあげてくださいな。
では、美術界に対する不満はここまでにして、本題。
ちな、これが描かれたのは、秀吉が祥雲寺(現、智積院)という3歳で死んだ秀吉の子どもの菩提を弔うために建てられたお寺の中を彩った屏風である楓図屏風と同時期の作品です。
ちな、この楓図屏風というのは、自分が芸大学部二年生の頃に古美術研究旅行で担当した作品であり、懐かしい気持ちがあります。あんなに一つの作品の来歴を調べたのはこれが最初で最期かもしれませんw
まぁ、現場で見るよりも図版やら、ネットで見た方が正直いいかもしれない。いまは変わったかもしれないけれども、自分が実際に見た当時は、この絵の前になんか変な平均台みたいな意味のない囲いみたいなのが置かれていて大変鑑賞の邪魔だったし、お庭も日光が池に反射し、それが軒を照らすことを楽しみしていたのに、かっかと蛍光灯がつけてあって、それで、消してくれと頼んでも、なにかの作業中だったのか、消してくれず、残念だった。しかも、修復された障壁画が、なんか変な感じにのっぺりしていて、高校の文化祭のパネル絵画みたいになっていたような記憶がある。いまは改善されたのだおろか。
では、本題。
先に言及した楓図屏風を工房で製作中に、作者である長谷川等伯の息子、久蔵が死んだ。その失意の中で、等伯は両方の作品を仕上げたとされている。
それゆえに、どちらもはかない印象をぼくたちに与える。
絢爛豪華な安土桃山の背後には、いつも死が漂う。昨日の友は、今日死に、明日は自分が死ぬ、そんな世界だ。権謀術数、裏切り、親子関係なしに血で血を争う戦が日常茶飯事で行われていた。いやぁ、生まれなくてよかったぁw
楓図は、畳に座って鑑賞するものである。松林図もまったく鑑賞法は同じだ。絵画とは、思い出すことだ。自分のたましいを知識から解放し、歴史のたましいに推参することを正しい鑑賞という。もちろん、正しい鑑賞なんて腐るほどある。もちろん、アナクロニズム的鑑賞もいい。当時の気持ちで味わってもいい。かくいう俺もこの作品を鑑賞するときはゴールドベルク変奏曲を流しながら鑑賞する。
それを古美術研究旅行の発表時に、教授、助手、学友、二十数名の前で行ったわけだが、いや、結果は、大不評であったwwwおおいなる空回り!
これも戦国乱世に生きた英雄たちの空回りに比べればちょろいものだ。明日死ぬかもしれないのならば、誰だって、大滑りするだろう?
明日、生きると思うな、告白は今日しろ、今だ!おかんに感謝するのは今しかない。すべて、今だ。今しかない。
…という気持ちで挑んだわけだが、やっぱり死ぬほど恥ずかしかったw美術の発表でCDプレイヤーを使う人も今までいなかったことだろう。利休とは言わないまでも、新たな歴史を織部くらいには開拓したであろう。いい記念だ。
この楓図屏風の俺の好きな鑑賞は、当時の戦国武将の気持ちになって鑑賞するのが好きだ。足軽になって鑑賞するのも好きだ。初夏か初秋、自陣か出征地か、汗をかきながらのお昼の握り飯に、地べたに腰を下ろし、足を伸ばす。汗をかいた火照った体を一陣の風が撫でていく。
草むらが揺れる。近くに川が流れる。死んでいった友と、今を生きる友が交錯する。絢爛豪華な楓の根元には、幾ばかりかの髑髏が隠れている。眼窩に一匹のきりぎりす。
無残やな 兜の下の きりぎりす
といったものか。そして、飯を平らげてまた出発だ。毎日、毎日が戦。戦。明日は我が身。明日は友が身。
そんなこんなであの楓は、枯れることなく行く百万もの兵士を眺めてきただろう。楓だけでなく、あの松林もまた人世の、この世のはかなさを噛み締め揺れてきたのだろう。あの兵士は帰ったか。楓も、松林も知らぬのである。ただとある詩人が、そのはかなさを飲み、嗚咽した詩がこれだ。
夏草や つわものどもが 夢の跡
…こんなことを考えながら、鑑賞してみるのも面白いですよ(^-^)(・Д・)ノw
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