Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

ありのままの自分を受けいれることは、ダメな自分を受け入れることも含めて、やればできる自分も同時に引き受けることで、またダメだった自分をも何度でも受け入れてその繰り返しをすることなのだ。

世界のぞくぞくわくわくをシェアすること。そしてわくわくがなければ、ワタらしいわくわくを自分でつくること。

世界のぞくぞくわくわくをシェアすること。そしてわくわくがなければ、ワタらしいわくわくを自分でつくること。

悟った!

最近、更新が止まっておりましたが、ちょっと考え事をしておりました。はたして、自分が小規模にブログやらYoutubeやらといった自家発電メディアを用いて世界に何かを発信すること、および後世にこうした公的半私的な”くだらない”コンテンツを語り継ぐことにどんな、そしてどれほどの意味があるのだろうか、考えていた。

Youtubeは動画を上げるだけでけっこう時間を取られたりする。まぁ、だいたい1動画、編集したり、サムネイルを編集したりやらなにゃらで、30分はかかる。そして、そうして生まれた”ヒカキン崩れ”メディアコンテンツに、どんな意味があるのか、考え続けた。巷に生息している”おバカビオトープ(ヒカキン、はじめしゃちょーを頂点とする厨二病クラスタ、Youtuberもどきの有象無象で構成される擬似アートワールド的生態)”の膨大な”尽くせぬ暇人の泉”から溢れ出るコンテンツに何ができるのか。

結論から言って、意味はある。そうしたくそメディアにも意味が重々あることを悟った。

この沈黙の間、といっても、たかだか2週間程度であるが、ドーキンスの著作をかなりの数熟読した。盲目の時計職人、進化とは何か。また再読になるが、利己的な遺伝子。もろもろ。黙れ小僧!(もののけ姫)

くそコンテンツの隣に、しっかりとした重厚コンテンツもある。しっかりしたカメラ、機材、人員を用いて大規模にしっかりとしたものを”残す”。そうしたことだけにおいてのみが意味のあることなのではないか。NHK的なものだけが後世に語り継がれるものべきかは。そんなことを自問自答していた。

研究者として、今年は修論がある。持てる全てをそれに注ごうといまから躍起になっていたため、しばらくは自らに本当にやりたいことに時間をすべて注ぎ込んでいた。何度も言うが、この二週間ばかりだけの話なのだが。バイトも断り、家から出ることも最小限にして、必要な書物とネットの情報を漁った。

研究者として研究に没頭することも楽しい反面、絵を書いたり、ネットサーフィンをしたり、人と話したり、ということ、そのどれもが楽しかったw

研究は、きりがなかったw学問の泉を掘れば掘るほどきりがない。ロリコンカルチャーを調べて、神経系認知科学に行き着き、スティーブン・ピンカー、ダニエル・デネット、マイケル・ガザニガ、オリヴァー・サックスなどなどedge.orgな人々を漁り、その後、1980年代を研究するうちにサブカル研究に行き着き、サブカルを研究していたら、Americanismの研究になり、吉見俊哉を漁った結果、最近に至っては、生物学と神経学とメディア論がおれの専門になってしまったw

そうした、もろもろの読んだ本は、研究参考文献一覧をごらんください。上のメニューバーにあるので、どうぞ。

上記のことを学び、遺伝的アルゴリズム的にYoutubeに動画をあげたり、ブログを書くことも控えていたわけだが、いや、控えていた、というのも適切ではない。単に、夢中になった結果、Youtubeもブログも魅力を感じなかったwという方が近い。というか、それよりも研究所を読むことに夢中になっていたというほうが正しいだろう。夢中になって、それに時間を回せなかった。だって、そんな30分を使うのなら、その30分を自分の好きなことに使えばいいわけで、自分の生きがいのある時間に用いればいいわけで、とそう思った次第なのだ。そして、今はブログに魅力を感じているからこうして打っているわけだ。それはなぜか!?それはなぜか!?それはいかに記してあるので、もうしばしお付き合いを。

時間は有限である。まじでそうなのだ。30手前の三十路男はついにこの真理を腹でしったのでありんす。

まぁ、平均寿命が2倍になったから、人間50年、下天のうちをくらぶれば〜、だった時代から見れば、今、やっと俺は、やっと元服!といったところだろう。人生に、遅いはない。昔は遅いはあったかもしれないが、今、本当に遅いはない。若い!もうちょっと踏ん張れば不老不死もいける!だから、とりあえず、いまから、楽しい事、自分の好きなことだけを一生懸命にやる。そう思えた時間だった。まさに、これこそがJaron Lanierとジットレインのいっていたことだろう。

ブログはセイレーンサーバーに対抗するための手段となるのは、数週間、数ヶ月に一度訪れる、表現sチア欲求なるものが体の底から溢れ出てきたときにこそ意味を持つ。つまり、俺のブログは、久しぶりに、数か月ぶりくらいくらいに、まじで”意味”をもった。俺的にも、みんな的にも。ここに今までブログを作り、セイレーンサーバーに対抗してきた意味があったというものだ。

くそYoutuberもNスペもどちらも時の淘汰に耐えようとしている。あるものは耐え、あるものは消える。丸木スマも川村清雄も風前の灯火である。それなんかよりはセカイノオワリのほうが人気があるように思えるが、それもまた、

サザンやミスチルと同じように時の淘汰に耐えるか誰もわからない。100年後には、サザンもないだろう。ミスチルもないだろう。美空ひばりのみが語り伝えられている。500年後に語られているのは、シェークスピアと聖書のみ、そんなもんだろう。漱石も1000年は持つまい。まして、いわんや、おれのメディアをや!

駄作は、駄作で時の淘汰に耐え抜く作品選別に大いなる影響を及ぼしている。つまり、反面教師的淘汰ということだ。

駄作を語り継ぐことは、こんな作品でもいいのなら私も表現してみようかしら、と新参者を呼び込む力も持つ。また駄作は駄作で語り継がれずとも、そうした時の淘汰の練磨石になることにも意味があるだろう。そして、時折、1000年後の人間が駄作を鑑賞して、ぷっ、と笑ったり、つまんねーwといったり、鼻をかんだりされたときにおいても、表現されたもの、メディアは”幾重にも連なる意味”をもって消費されるのだろう。もって他山の石となす。二重の意味で、かかとのアカギレをこする石でもいいんじゃないかええじゃないか。そんな結論を導いた。

 

つまり、みなが意識的、無意識的に宇宙船地球号の中で宇宙船地球号の中でともいえる中で淘汰合戦を生物学的に文化的に行っているわけだ。つまり、表現しようがしまいが、すでにそうした生態系の一部にすでに生まれながらにして組み込まれていることになる、という諦めをゲットしたわけだ。

そうして、頭でなく、腹で考えたときに、たどり着いた結論。

それは、わかんねwということなのだ。

結果としては、わからない!これについた!そして、わからないなりに、気ままに、のんびり、牧歌的にアーカイブ活動をしていこうと改めて思った次第。

のんびり。のんびり。きまま。きまま。ゆるゆる。これがおれの良寛スタイルなのだなぁ、と確信した。おれの魂は、もうある程度こうした”ゆるさ”にあるの。この性格ばかりはもう変えたくても変えられない。もう好きか嫌いであれ、生涯付き合っていかなければならないものと運命を受け入れていこうとおもうwなので、またゆるくよろしくお願いいたします。

そして、やっぱり、どきどきわくわくをシェアすることは楽しいのだ!!!そう!それが一番!楽しいことはシェアする!一人がみようが、10人が見ようが、100000人が見ようが、それはかまわない。ただ、それを見て、何か感じたり、笑いだったり、怒りだったり、悲しみだったり、そうした喜怒哀楽と疾風怒濤なり、無感動なり、無関心なりを感じてくれたら、その時には、作品は宇宙に昇華・消化されるのだろう。それが不謹慎なことでもだ!業の肯定。これでいくべ!

いやー、昨日までの長雨から一転、本日は晴天なり、とのことで、ちょっと芸大から足を伸ばしてみました!綺麗なつつじ!ぜひごらんください!花の咲きピークは来週と綺麗な巫女さんがおっしゃっておりました。

 

越後スター、こと、世界のアーカイビストこと、ポスト・エラトステネスこと、いっちー




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