【藝祭資料】藝祭を通じてクリエイティブとは何かを考える。
2015年度藝祭に向けて、藝祭委員が動き出し始めたようだ。
2015年度 藝祭公式Twitter始動しました!こちらで随時更新していきたいと思います。9月4日(金)〜6日(日)開催です!
— 藝祭 2015 (@geisai_2015) 2015, 5月 26
藝祭2015テーマ『みるみる魅せる』 これが今年のメインビジュアルです! pic.twitter.com/uUijomhWeD — 藝祭 2015 (@geisai_2015) 2015, 5月 26
第三講義室で各課代表が集まって議論していたのを最近遠くから見て、あぁ、俺もあんな若い頃があったのかぁ、と感慨にふけっていた。
さて、ここで、そろそろ後輩たちのよりよい成功のために藝祭、に限らず藝事のバトンを渡したく考える。
このバトンは一生、生涯使える、藝術論の根幹なので美術音楽に関わらず、ありとあらゆる分野に、全人間的に応用可能な秘伝である。それを後輩諸氏らに伝えておく。
①記憶とは創造である。
②過去から学び、パクリ、盗みまくれ。
③序破急
時間のない藝祭委員のために、まとめだけ先に示しておく。あとは、適宜、時間のあるときに見てくれればいい。きっと損はしないはずだ。ここで血肉にした知識は将来、絶対に役に立つので、役に立ったらぜひ俺のもとに恩返しに来てください。誰に好き好んで大事な時間を削ってまで藝術論の根幹を記すかといえば、藝祭に向けて青春を謳歌する後輩諸氏等がかわいいからの一点に尽きる。それと、前途有望な技術ある若者たちが藝大に受かった時点で、それに満足して、結果、実家に帰ってバイト暮らしという厳しい現状を目の当たりにしているからである。彼らはバカである、とはいわないが、彼らに藝論の根幹を教えなんだ先輩、先生、友人、後輩の存在がなかったことの不幸を哀れむのみだ。近くに俺がいたら、プライドを捨て俺に近づいてきたら、きっといまごろは売れっ子アーティストになって作品を一億、二億と数えていたに違いないだろう。後輩諸氏等も最近のしょぼい藝祭には訳がある。ここらで一発また面白い藝祭を巻き起こしてほしい、おれが単に楽しみたいのだ。新しい創造的な藝祭を見たい。そのためも含めて以下記していく。
①記憶とは創造である。
黒澤明の有名な言葉である。一番勉強したやつが一番独的なことができる。んなこた、当たり前だ。本当にオリジナリティーを発揮したければ、過去を勉強しまくればいい。なぜなら、過去の奴らと決して被らない作品が作れるからだ。被った時点でアートは、ことにファインアートは負けである。クリエイティブとは、人と違うこと、なおかつ新しいことを意味する。人と被ることはちんちんの皮を被ること以上に恥ずかしいことであると、君たちは思うべきだ。人の敷いたレールを走るだけではつまらないだろう。そのレールを伸ばすために君たちがいる。先人たちの遺産を受け継ぎ、それをまた構成にパスしていけ。
②過去から学び、パクリ、盗みまくれ。
ちっぽけな、しょぼしょぼアーティストきどりのやつに限って自分はクリエイティブだと思いがちだ。おまえなんかよりも、そこらのみじんこの方がよっぽどクリエイティブだ。藝大に受かっただけで、おしゃれして、普通にバイトして、大学院にいくかいかないかして、そのままgo to my home なのは目に見えているだろう。かくいうおれの周りはみなそうやって消えていった。消えても創作活動を続けているやつはごまんといる。大学の外に出てから、おれの言った真理に気づくやつが大勢いすぎて困る。とはいえ、大事なのは真理にいつ気づくかではなく、気付くかどうかだから、彼らにはこれから大いに期待である。
これに気付けないうちは、哲学なきゴミアートを量産し続けることだろう。あぁ、税金の無駄使いww!?とは思う反面、彼らは、ひとりのの天才、ここ十年の学生は基本的に俺のための磨き石なので、まったくもって税金の無駄使いでもなんでもない。反面教師、そして、レアな高め合える仲間、その類は友を呼ぶではないが、そのクラスタの成功のために膨大な磨き石が必要となる。しかたない!(T_T)悲しいけど、これ(アート)戦争なのよね。
記憶とは創造である、①のことばであるが、過去のマエストロから学んでいけば、かならず、うまいな、なるほどw、メシウマw、っていうポイントにめちゃくちゃ遭遇する。これに遭遇できない、やつがいたら、もったいない、というか、気付けてないだけだ。その気づきの集積こそがクリエイティブの源になるのだ。俺の言ってることわかる?わかるやつがいたら、そいつは才能がある。わからないやつがいたら、まぁ、わかるやつに聞いてくれ。手遅れにならないうちに。
③序破急
藝大に入った時点でほぼ序の終わりにいる。序破急とは、能の根幹の藝論だ。序は型を学ぶこと、つまり過去のレガシーの継承でもある。しっかり、自らを消し、独創的なんていうものをみじんも出さず、自分探しなんてクソ喰らえと自分をとにかく消す。消しまくる。ただただ古典から学ぶのみ。
それから、続いて破。今まで学んだ型をぶち壊すときだ。自分の好きなマエストロから技を盗みまくった結果、もう模写をしないでも模写ができるくらいになったら、そこからはじめて自らのオリジナリティーを発揮していこう。そこまでくれば、君の画力は、彫刻は、作品は、すでに”強度”と”圧力”に満ち満ちているはずだ。そういうもんなのだ。不思議なことに。過去のレガシーに則った上で、自らのオリジナリティーを、先行する作品と被らないような作品を生み出していこう。
周りをよく見てごらんよ。哲学なきゴミアートだらけだろう。どこかで見たことがあるマチエール。予備校絵画から一切脱却てきていない可燃ゴミの数々。作っては壊し、壊しては作る。ゴッホにもなりきれず、ヘンリー・ダガーにもなりきれず、哀れで美しい山犬の娘…話が逸れたwつまり、周りは過去から学んでない奴らだらけだろうw?ちっぽけなごみ虫糞虫クリエイティブ、あぁ、あはれだねぇ。Pity is akin to loveだねぇ。
そこに君が突き抜けるチャンスがある。最後は戦略。賢いやつが最後は勝つ。プロ野球もサッカーもプロはみんな頭を使ってる。残るやつはみんなハンターxハンターに出てくるような奴らばっかりだ。ワンピースキャラは、即座に消える。それがファイナートの世界だ。反知性主義で乗り切れるほどアートワールドは甘くない。とはいえ、湘南の風の純恋歌、まじで好きで、あいつらは現代のシェークスピアくらい音韻と内容がすごい。形式とリズムの一致、奇跡の曲だねw
そして、まぁ、ここまで売れっ子になれば誰でも来れるわけだけれども、ここから先は歴史的偉人クラスタとなる。自らで築いたそのスタイルすらも超越していくのが、急だ。ここまでくると、もう、わからん。同時代人たちの理解を超えることにもなるだろう。ベートーヴェンの後期弦楽6重奏曲くらいに、意味がわからなくなるwしかし、それが成功すれば、おめでとう!歴史の審判にかけられて、それを突破すればルーブル入りだwというか、まぁ、その前にオルセー、いや、ポンペイか!?年代的に。まぁ、古いのじゃないうからメトロポリタンかなぁwやっぱw
とまぁ、ながながと藝術論を展開したわけだけれども、とにかく話を藝祭に戻そう。藝祭も同じように過去から学びクリエイティブなものにしてもらいたいのだ。
俺の世代、2011年代もそうであったが、これは近年に限らず、ケータイなどが出てきたあたりからの問題に違いない。引き継ぎはしっかりと行われてなかったように思う。藝大生のいいところでもあり、悪いところでもあるのが、やったらやりっぱなしってところだ。過去の藝祭で何があったか、何が起こったか、何が失敗したか、何が成功したか、そうした諸々のノウハウがしっかりとアーカイブされていないというのが俺の思ったことだった。だから、俺は、みなが議論して、盛り上がる最中、俺だけは図書館に行き、過去に何がなされ、何が行われたのかを調査していた。
俺は、その時点で藝祭の序破急である、序を行ったわけである。天然でなく、意識的に。賢人は愚者とは異なり、経験に学ばず、歴史から学ぶものだ。
イベント課も展示課も広プラもステージ課も商店街課も御輿課も、警備も、清掃も、企画課もとりあえず、過去の藝祭のパンフレットから学んでみたらいい。歴史に向き合うことは自己と向き合うことで、それが直結して、クリエイティブなことにも繋がるのだから、私はまずもって、この場で君たち、新しい世代に、藝祭の歴史と、先輩たちと対峙し、それを乗り越えていってほしい。
パンフレットは図書館にある。本当は、パンフレットを全スキャンして、学生は、学内でという条件があってもいい、すべてを容易に閲覧できるようにしたほうがいい。今は、図書館だと4冊か、5冊ずつの閲覧になるから、何度も図書館員に頼むのが申し訳なくなるのだw
その点では、藝祭パンフレットのアーカイブ化は急務である。アーカイブセンターはまずもって、藝祭のパンフからアーカイブ化するべきだろう。
オリンピックに向けて、2020年の藝祭は大いに盛り上がってほしいものと思う。なんなら、先輩から後輩へ、二年生から一年生へ引き継ぎ後、その頃は即座に動いてもいいと思う。そのほうがもっと大きなよりよい企画もできるだろう。座学より、藝祭のほうが得るものが多いものもいるだろう。それは人による。東京国立博物館とコラボしてもいい。昔に習って藝大教授展を表慶館で開いたっていいだろう。学べば学ぶほど勝手に企画は頭から湧いてくる。あとは実現を目指すのみだ。東京都美術館、西洋美術館、科学博物館、東京文化会館、上野駅(今は、ステーションギャラリーだけコラボはしてる)、ワクワクの現場はいつもおれたちの、きみたちのそばにある!動物園とだってコラボしてもいいだろう。デザイン科の壁を一時壊し、藝大と動物園を藝祭期間のみ移動自由にしてもいい。ゴリラの鼻くそならぬ、日⚪︎野の鼻くそを売ってもいいだろう。日⚪︎野先生ごめんなさい。めっちゃ尊敬してるがゆえにネタにしてしまいましたm(._.)m
イベント課は大石膏室でなにかイベントを企画してみてください。めっちゃ絵になるよwやっぱ、あそこはひんやりしていていいね。とはいえ、扇風機は必須。結構暑くなるから。
以下、過去のパンフレットを見ながら考えたクリエイティブなことを考えてみよう。よければぜひ参考にしてもらいたい。少なくとも各課代表は必ずすべての資料に目を通してもらいたい。それが上に立つものの責務なのだから。

これは最新のパンフ、2015年藝祭、期待してます!

これが俺の代のパンフ。いや、懐かしいwww笑、いろいろあったなぁ。

ない!!なぜだ!?…とまぁ、裏事情があって、ぼくは藝祭委員を除名されましたwいやぁ、素晴らしい青春!いまでは、みんな大の仲良しです。利害を超えて本気でぶつかれる!それってめちゃくちゃ大切な財産なのではないでしょうか!
裏事情とは、、、あまり詳しくは述べませんが、まぁ、こんな感じです笑
詳しくはこちらにて↓
Utsumi in Tokyo National University of Fine Art.
いろんなことがあったけど、今でもみんな大の仲良しです笑一部未だに憎みあっている方もいらっしゃるようですが笑
いやぁ、話が横道にそれますね。思い出は過ぎ去れば皆美しい。さて、本題に続きます。
ここからは表紙だけでなく、当時の様子がわかるように内部のページも一部引用しながらコメントさせていただきます。

御輿課と商店街課がむかしは、神輿・商店街課だったのには、理由がある。というのも、ここから商店街の方々と交流が深まっていくのだ。そうだな、藝祭と商店街との関係の由縁に遡らねばならないだろう。それはまた後半にて。

2004には商店街課がない!!!そして、今、広プラの中にある広告取りも、むかしは独立した課だったんだねぇ。だから、あんなにでかい広告をとってこれたのかな?詳しくは、下の方のビールなどの広告をごらんください。

マスター、藝大生にほんと愛されてんなぁ。

資料との裏付けも取れる。芸術祭、ここから商店街と藝祭とのつながりが始まる。

あ!マスター発見、愛されてんなぁ。
取手、受けるw
緒形拳、受けるw若いなぁ。レジェンドってこっからみんなすでにレジェンドなんだな。
藝祭委員のユーモアある布陣。
ここにも!ユーモア、すばらしい!
窪塚洋介www
臨月、じゃなく、大臨月!攻めるねぇ、何が生まれたのだろうかwわくわく
多田羅先生、このころから!
窪塚洋介www
この時代にいた、俺の魂の気質に似た熱い人のおかげで御輿とパレードのアーカイブが繋がれた。もしこの資料がなければ、パレードの重要な大方の部分が失われていたのかもしれない。熱いってすばらしいことだ思う。あの痛ましい事件の数々、真摯に見つめ、新しい安全で”危険な”御輿パレードを求む。

この年は、マスター尽くしw
模擬店、味比べ!!!こういう企画いいよなぁ、もっと模擬店課がんばれ!
パンフがレコード!!!!すごい!広プラがんばれ〜〜〜〜
村上隆wwwwwwに似てる人、けっこう藝大にいるよねw
村上隆がやった伝説の企画www今も宮崎駿呼んじゃえばいいのにwww今暇だから来てくれるよ。
ちなみに、村上隆は、このとき宮崎駿のサインTシャツを売りまくって、宮崎駿の出演料を払ったそうです。そのときからすでにビジネスの才能に長けていたんですねぇ。
伝説のヨーゼフボイスの講義!!!
マスターが今までの藝祭の御輿を見てきて、一番印象に残っているのが、ゴジラ。このゴジラ、口から煙が出るのだ!が、その煙はなんと、中でみんなでタバコを吸いまくって出していたのだwwwその発想、愛すべき馬鹿w!
それと、建築の御輿で、藝大正門出る前は、さなぎで、上野公園広場で脱皮させて、羽が生えて、帰って来る御輿もマスターは超感動したとのこと。御輿課はこうした事実をしっかりと伝えなければならないだろう。そうすれば、もっともっとクリエイティブな御輿が見られるのだから!
今は、時代性をあまり考えない御輿が多いなぁ。この時代は時代の人物だったり、時代を風刺したり、時代のツァイトガイストにもっと密接だったんだなぁ。江川wうんこみこしw
マラソン大会www疲れるわw
藝大と学徒出陣は無縁ではなかった。ほんと、好きに藝術できる喜び。感謝。誰に?時代に?
東洋館に展示していたのねwトウハクと藝大のコラボ!オリンピックに期待!
このインタビュー、クソワロタ\(^o^)/www
このデザイン素敵www
銅像でスタンプラリーしたら面白いかもなぁw
これ、最高!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ワロタ\(^o^)/www
大胆な広告取りwwwパンフ全面www攻めてるなぁwコカコーラ、仁丹!
これくらい、電通さんから広告とってこないと!!!w
これで終わりと思うなかれ。まだまだこれより前に幾ばかりか遡りたいとも思う。
ばば〜〜〜〜ん!!!なんと戦後一発目の藝祭であ〜〜〜〜る!
この熱気、まじで神だwww全裸のロダンとか彫刻ものまね、観客は抱腹絶倒と当時の新聞に記載されている。戦争、まじでかっこわるい。自由を謳歌できる喜び!自由に好きなもの、思ったことが表現できる喜び!なんて素晴らしい時代におれたちは生きているんだろう!言論の自由!基本的人権の尊重、生存権!まもっていきまっしょい!!!うほうほ!9条に関しては、まだ保留でw
俺ですら、こんなに短時間に様々なアイディアがでてくるのだから、現役の君たちなら、もっとすごいアイディアや企画をひねり出せるものと思う。諸君らの大いなる健闘を祈って。藝祭本番楽しみにしている。
おまけ:藝祭の御輿を調べるおり、御輿の起源や経緯、商店街との関わりなど面白いことがわかったので、これもシェアします。御輿課の諸君らは、これを今年の御輿に携わるすべての一年生に周知徹底されたし。よろしく!
東京藝術大学・藝祭御輿・上野商店街との関わりの経緯について
⑴藝祭の起源と現在まで経緯
そもそもの藝祭の起源は明治36年の美術際にはじまる。当時の天長節である11月3日に開校15周年を記念して催されたのがはじまりで、その目的は①先人たち(美術に関して貢献した人々、狩野芳崖や尾形光琳、本阿弥光悦、ラファエロ等。)の高風遺徳を称える+②欧米の展覧会を合わせたものだった。
終戦から一年後の昭和21年に11月7日~11月13日(日本国憲法発布の祝典時期に合わせた背景もある)に藝祭が開催される。戦後の抑圧からの解放、男女共学の開始、美術と音楽の交流を盛んにする狙いといった諸々の要素が相成り、上野の街全体を包み込む活気に満ちた催事となり、娯楽に飢える多くの人々が上野の杜を訪れた。御輿は若き血潮に溢れ神田、銀座に至るまでその足を伸ばした。藝祭は美術と音楽の演奏会とスポーツ大会(運動会)といったまさに”藝術”といった多種多様なプログラムが組まれ、中でも運動会のフィナーレを飾る出し物として戦前から続く仮装行列が催されていた。付け加えて言うならば開催日や期間に関しては、文化の日前後から徐々に入試など学事歴の都合上開催時期を早めるに至り、開催期間も年々縮小、現在は9月の第1週の金、土、日の三日間の開催となっている。面白いのは、初期の藝祭では東京国立博物館の表慶館で展示を行ったり、現在では重要文化財となっている草創期当時の教授たちの作品も展示されていたことは、当時としては当然といえば当然のことなのであるが、やはり驚きを禁じ得ない。
⑵御輿の起源と経緯
戦前から行われていた開校記念日運動会の余興としての仮装行列が、おそらく今の御輿の起源になっている。元来御輿は仮装行列がメインで、その添え物的な立ち位置であったが、徐々に現在の御輿中心のパレードに移行していった。
昭和28年、仮装パレードの余興である安珍姫劇のクライマックスにて、火がドーランを身体全体に塗布していた演者に引火、全身火達磨となり3人が大やけどを負う。うち1名は意識不明の重体かつ足の切断に至った。以後、仮装パレードは中止となり、その打開策として御輿に中心が移った。現在の御輿中心のパレードは昭和30年からはじまったと考えてよいだろう。
当時の御輿は”喧嘩御輿”であり、御輿同士を激しくぶつけ合うスタイルであったが、ピアノ科の学生が手の骨を砕き、音楽家生命が断たれる悲劇が起こったのちは現在の安全な公園内を練り歩くスタイルとなった。現在は発泡スチロールを各課で統一で加工して御輿を作成しているが、当時の御輿の材料はねぶた祭りと同様、針金、糸、竹、木材など、各課で自由に決めていた。昭和60年には、マラソン大会の時間をずらし、御輿で藝祭をスタートさせるスタイルがはじまった。
以降も、学生が不忍池に飛び込むなど、動物園からペンギンを拝借してくるなど豪快で健やかな若気の至りと形容すべきか、決起溢れるユーモアに富んだエピソードが多数あるが、年々警察の取り締まりが厳しくなるにつれ、パフォーマンスも縮小、例年御輿の上に隊長が乗り誘導していたが昨年度の藝祭パレードにおいては、それも危険性から取りやめになった。自由は与えられるものでなく、自らで勝ち獲っていくものなのかもしれない。
⑶東京藝大と上野商店街とのつながりの経緯
藝祭御輿と上野商店街との由縁は、平成6年(1994年)に上野中通商店街振興組合で発議された「芸術通り宣言」の一環事業にはじまる。当時の上野中通商店街振興組合が上野界隈における桜や動物園、美術館といった上野の名所を紹介し、様々なイベントを企画することで、上野の街の振興政策を実施した。宣言から2、3年後に上野中通商店街振興組合が当時の藝祭実行委員会に藝祭御輿との提携を打診し、芸大生との共催で「芸術まつり」が行われ、御輿が上野の商店街で披露されるようになった。また現在のハピコレ(法被コレクション)の源流でもある旗のデザインコンペなども行われ、ここから上野の商店街と藝大(藝祭)との間に縁が明確な形で生まれたと考えていいだろう。
その5年後の平成11年(1999年)には上野中通商店街の第二次モール化事業のさなか「芸術通り宣言」の名に基づき、現代ポップアートの旗手、日比野克彦氏他5人のアーティストによって街路灯のデザインが行われた。これにより商店街と藝大との縁は藝祭を超えて徐々に深まっていく。上野地区6商店会の連合組織として結成された上野商店街連合会発足後も、藝祭時における御輿の賞の授与によるねぎらいも行われ、松坂屋上野とデザイン科のコラボレーションなど藝祭だけに限らず商店街と藝大は活発に交流を重ね現在に至っている。
現在の御輿の賞に関しては、谷中に在住である野村氏(現六丁目商店街連合会会長)が出勤途中、炎天下、毎日汗水を流しながら真摯に御輿製作に携わっている藝大生を見て、なにか彼らに労えることはないか、彼らをどうにかして目立つようにできないかと思い至ったのがそのはじめである。その話を早津司朗氏(現上野商店街連合会会長)にもちかけ、早津氏が町内の議題にあげ、とんとん拍子で労いのための賞の授与が決まっていった。(*注、アメ横と上中を二叉にわける交差点にある「賑わいの像」は上野駅に新幹線が開通(1987年)したことを記念して藝大修了生の関孝行氏が作成したものであるが、依頼主が台東区の発注であったため、芸大と商店街との関係の発端とは見なさなかった。)
協力:早津司朗様、木村雄二様
参考文献:
・『芸大百年史』
・上野中通商店街の遠隔(ご協力・木村雄二様)
以下、『上野中通商店街の沿革』資料は木村雄二様よりご提供。
上野中通商店街の沿革
商店街の概況
上野中通商店街振興組合は上野4丁目に位置し、上野松坂屋北口から上野アメヤ横丁商店会に通ずる延長270メートルの通りを中心とし、これに東西に交差する70~110メートルの三本の通りと春日通りから摩利支天徳大寺を結ぶ60メートルの通りにより構成されている。
小売業、飲食業が主な業種で、約140店舗が加盟している。
江戸時代から大正時代
当地区の商業の勃興は、江戸初期に興された東叡山寛永寺の門前町として商家が集積したことに始まる。明治大正時代は当地区内の摩利支天徳大寺や六阿弥陀常樂院の参詣客で賑わった。また、上野駅から貨物線秋葉原駅に通じる馬車道のメインストリートでもあり、糸屋、履物屋、衣服店、食べ物屋などが建ち並び、とりわけご呉服商の老舗が多かった。
震災、戦災以後
関東大震災、太平洋戦争と二度の惨禍で当地区は焼け野原となり、終戦直後には16軒程の商店しか存在しなかったが、上野駅からやってくる買出し客の猛烈な購買需要を支えに盛り場商店街として復活を果たした。昭和22年には早くも商店街として形づくられ、昭和23年4月に町会組織を含めた中通り共栄会が結成された。初代会長に西田嘉兵衛が就任し、昭和26年二代目会長に徳田保次、三代目会長に角田文治郎がつづいた。
振興組合設立とカラー舗装
昭和40年四代目会長須賀揚平の時に振興組合に改組し、東西南北の入り口にアーチを新設した。ついで昭和41年11月、振興組合としての第二代理事長に野村康雄が就任し、昭和46年12月に街路灯の改装工事を行った。昭和47年2月には栗原孝が第三代理事長に就任し、昭和49年6月、街路灯の老朽化が進んだため水銀灯を新設した。昭和60年4月、四代目徳田平八朗理事長の時に、高度化資金を導入してカラー舗装やアーチの新設による第一次モール化を完成させた。商店街の愛称を「ウエノセンターモール」とし、アーチには時報とともにロボットがベルを鳴らす動作をするからくりを設置した。商店街のカラー舗装は当時では珍しく、各方面からの注目を集めた。
第二次モール化への取り組み
バブル経済から景気後退期に移りつつある平成6年3月、商店街の活性化が課題となりつつあったが、五代目理事長本山達也は、「上野中通りビジョン」を発表して長期展望に立ち組合および当地区商業の将来構想を打出すとともに、「芸術通り宣言」「上野中通憲章」を発表して組合の商業理念を明確にした。またこの頃、上野公園にある名所旧跡の観光要素を取り込んだ商店街ソフト事業として、3月「上野公園桜開花予想日クイズ」、5月「動物まつりローランドゴリラチャリティイベント」、9月東京芸大の学生と共催の「芸術まつり」、11月「上野探検ウォークラリー」などを立て続けに開始した。希少動物保護のための「上野動物園ゴリラ基金」は当商店街のイベントがきっかけとなり設立されたものである。また安全な商店街作りに貢献すべく、上野地区内でいち早く商店街内に監視カメラを設置した。このような組合事業の活発化と合わせて、平成8年3月、従来のビジョンを再構築して「上野中通商店街・商業振興ビジョン」を制定、組合事業の方向性と事業推進の今後の戦術をより明確にした。
ハード面の整備では、平成5年12月に「上野中通商業整備構想」を取りまとめ、その後「第二次モール化事業計画」の検討を進めてきたが、その集大成として平成9年度に「上野中通商店街第二次モール事業計画書」を取りまとめた。それをもとに調査研究を重ね、「第二次モール化事業計画」と名付けた特定商店街共同施設事業計画を策定し、 平成11年中小小売商業振興法に基づく商店街整備計画の認定による高度化事業として認定された。
平成11年8月、六代目吉原廣次理事長は就任早々「第二次モール化事業」を着工した。この事業は、11年度は装飾街路灯工事、12年度はカラー舗装工事と二年度にわたる大工事となった。アーチを含め80基の街路灯には、芸術通り宣言を行っている当商店街にふさわしく、現代ポップアートの旗手、日比野克彦氏をはじめ五人の一流芸術家の手によりデザインされたステンドグラスがはめ込まれている。このステンドグラスは、上野をテーマにしたデザインが施され、ひとつひとつの柄がすべて異なっているなど独創性の強いもので、各方面から高い評価を受けた。また、商店街両端のアーチには漢字で二文字「上中」の赤いオブジェがのっているが、これも日比野克彦氏の作品である。以前は商店街の愛称として「ウエノセンターモール」を使用していたが、第二次モール化に際して日比野氏の提案による新しい愛称として「うえちゅん」を採用することになった。第二次モール化工事は平成12年12月に完成した。
最近の動向
第二次モール化完成以後は予てからの懸案である上野公園諸施設との連携により回遊性を高め、来街者の増加と街のイメージアップを図り、地域間競争に打ち勝つために積極的に商店街活動に取り組んでいる。その効果をより確実なものとするために近隣商店街との共同作業にも注力している。
平成19年4月には上野中通商店街パトロール隊を組織。台東区役所、上野警察署、上野消防署と協力し、商店街の環境美化、安全な街づくりへの取り組みを行っている。
参考ホームページサイト:
上野中央通り商店会
http://www.tokyo-ueno.jp/about.html
上野中通商店街の遠隔
http://shoutengai.org/reikai/reikai2007_2.html
上中(うえちゅん)
http://www.ueno-nakadoori.or.jp/
上野商店街連合会 上野地区観光まち作り推進会議
http://ueno.jp/modules/myalbum/viewcat.php?cid=5
松坂屋上野
http://sakura-panda-kan.jp/artproject/
どこかの出版社の方で藝祭の歴史を出版されたいからおりましたら、私にご連絡ください。いい仕事します。
藝祭スター、いっちー
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