Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

咎と駄文と毒吐き竜


ボルドーは上半身が男っぽいいかり型。ブルゴーニュは女性っぽい撫で方。

 

コロナ旋風真っ只中、一回めのワクチン接種で無双と感じがいしているバカは私のことです。

連日、飲み歩きな毎日を送っておりますが、つらつらと澱のようなものが身体に溜まってくると駄文を拵えたくなるものです。

 

澱のようなものとは、自身の自由が制限されたりだったり、面倒な事務局的な、ある意味で誰でもできるような代替作業の、ある意味で疎外的な作業タスクが日常生活で多くなってきたときに、身体の中に溜まってくると感じる、身体の重くなる状態のことである。

代替可能と言っている反面、誰にもできないから自分のところに回ってくる案件で、それはそれで自分にしかできないのだが、ものすごく気を使ったりすることなので、ものすごく疲れて大変な作業だからあまりやりたくないのだが、社会的にはものすごくニーズがあり、こんなコロナ禍なのに、藝に携われる仕事ができてありがたいというのも本音の部分ではあり、これから子どもも生まれてくるので、とりあえず、いい感じに身体に溜まった澱を時折、外に吐き出してスッキリして、こうした漱石的な道楽的職業を続けていきたいと思う。自己本位の極みにな達するにはあと4~5年はかかりそうだ。

 

ということで、最近思ったことをつらつらと書く。

 

最近Fbでの非専門家でない言説が空虚に思える。極力見ないようにしている。のほほんと事業拡大の報告とか、専門性の高い客観的な記事やコメントのみ見るようにしているが、やはり3000人も”友達”がいれば、それなりに渦中の炎上人のニュースが入ってくる。

追記(2021/8/14) こういう記事だけ読んでいたいですね
# 政治政策 納税額の低い人を「税金泥棒」と見なす社会は、どう克服されてきたか

 

最近だとダイゴだ。ホームレスより猫を助けろとか、なんだとか、語っていて、まぁ、クリシェが溢れている。優生思想だの、ヘイトにつながるだの。こうしたニュースや意見を見て最近つとに思うのは、私はクリシェに飽きた、ということだ。

 

このクリシェに飽きた、というのは問題かもしれない。戦争はダメだ、ヘイトはダメだ、パワハラ、セクハラはダメだ。いじめはダメだ。当たり前になったことばにこそ空虚を感じる。空虚を感じるのは空気になったからで、そのほうがいい社会だと思うからそれは否定しないのだが、なぜそれがダメなのか、を定期的に客観的に解説する記事もしっかり後追いで出てくるべきだろう。ホームレスより猫を救えがダメな理由を、安易なクリシェで片付けてはならないのだと思う。

私は漱石以来の余裕派のコンコンチキのモモンガーのホイホイへーのジュゲム野郎だから、クリシェで正義を語るよりもなぜダイゴがそのように語ってしまったのかや、本当にそう思っている人が大勢いて、単にポーズや自身のいい人アピールでそう声高に語っている人が大半なのではないかと疑ってしまう側だ。声高にダイゴを批判する人はいてもいいし、基本的には賛成だが、なぜそう彼を批判するのかその理由をつけてもらいたいと思う。

 

自分の場合は、超簡単で、自分がホームレスになる可能性が極めて高いからで、かつ自分が生活保護になる可能性が極めて高いからだ。堕落論ではないが、堕ちきった後でもいい暮らしをしたいと思うのが人情だし、税金を多く納めている人間は尊いと思う。その尊さ、高貴性なんかもしっかり議論するべきだと思う。多くの税金をお納めている人は偉い、なんてまた語ってしまえばそれはそれでまた私も炎上人になってしまうかもしれないが、ダイゴの本音を語る態度は、それはそれでサイコパス味があって好きっちゃ好きである。上岡龍太郎や立川談志が語っていれば、一生に伏されて終わっただろう。とはいえ、この二者のコメントの背後には人間の業をバカだねぇと認めた上での救いがあるから嫌味がないのだと思う。この嫌味のなさってのが藝格ってもんなんだろう。私もこうした芸格を身につけたいものだねぇ。

 

オリンピック開会式もいろいろ吸った揉んだがあったっていうじゃねぇか、オイラなら聖火リレーをテンガに変えちゃって走ってたね(ビートたけし風)というような記事を週刊誌で読んだような夢を最近見ました。脛に怪我のない人間はいないし、人間生きてれば咎なんてありまくるんだから、もう、バレちゃったら、それを認めて、突き進むしかない。潔く謝ったらそれでおしまいにするしかない。取り返しのつかなさにもよるけれども、まぁ、ギリギリ取り返しがつくのなら、謝ってリスタートすればいい。無期懲役者のYoutubeニュースを見たが、まぁ、切なかったね。殺人しないと無期刑にはならないからね。86歳かなんかでボケて、自分の罪も思い出せない無期懲役受刑者。刑期が長すぎて陶芸の技術を極めてしまったもの。運動時間は1日30分の中、走ることで生きていることが一番感じられ、身体を鍛え抜き、グラップラー刃牙の登場人物くらいに腹筋が割れている者。埋めたさつまいもを幼稚園児が掘り出す声を聞き、社会とのつながりを感じる者。里見美禰子が語った「我は我が咎を知る」。罪はケースバイケースで、その償い方はその罪を犯した者と犯された者の間で調整すべきものだ。不倫と同じで外野は黙っているがよろしい。

 

まだまだ語り尽くせぬことはあれど、ボソッとこちらに毒を吐く。初代ジュラシックパークの襟巻き毒吐き竜のように。

 

 

Culture You!あ~、世界ってほんと美(たの)しい







 

クリシェじゃないってのはこういうこと

earthquake⇄covid19

http://asttr.jp/

東日本大震災の時に感じた、行っても通じぬ人へのバカの壁。こうしてみると、東日本大震災では自分は中学生の頃に理解できなかったバカの壁をはじめて身体論的に痛感したのだと思う。どうして自分の言葉が届かぬのか、どうして私が信じる”より正しい、確からしい(と思われる)”識者の言葉が届かぬのか。

あの頃から変わらぬ阿呆な人たちのSNSの中で絶望と希望にゆらゆら揺れる思いを身体中で感じている今日のこの頃だ。地震からコロナまで10数年、まったく変わらぬ我々のIT&政治リテラシーにcathcer in the ryeですなぁ

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