Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

そろそろ芸術は無力だと理解した方がいいのかもしれない


東京藝術大学の陳列館にて開催されている、不和のアート:芸術と民主主義(The Arts of Dissent: Art and Democracy)&Masking/Unmasking Death (死をマスクする/仮面を剥がす)を見てきました。5月10日までなので、興味のある方は、ギリギリですがぜひ駆け込んでみてください〜!

下記は、私が今回の展示で感じた、というかアートと社会を語る展示でいつも感じていること、いつかブログにしようと思っていて、ここ5~6年くらい考えていたことをざっくり記すという感じのブログとなります。閑話休題が非常に多いです。色々と色々なところに飛び火する文章です。くどいですが、病みつきになると思います。そういう方だけ続きを読んでください。

会場内の写真はこちらから(藝大コレクション展2022 春も同時に見れます。詳細は次のブログで)

【緊急企画】 ​​不和のアート:芸術と民主主義(The Arts of Dissent: Art and Democracy)

新型コロナウイルス感染拡大と並行して政治が大きく動きつつあります。新自由主義的資本主義に支えられたグローバル化が失速して、分断と緊張の時代が突然到来したかのようです。ロシアによるウクライナの侵略はそのひとつの兆候かもしれません。コロナ禍において世界中で政治的な緊張は今や高まっており、ナショナリズムや自民族主義、レイシズムや排外主義が広がる一方で、権威主義的国家の台頭、暴力による政治的弾圧、少数民族の迫害、原理主義の拡大が進んでいます。

この時代にアートは何ができるのでしょうか。

この緊急企画は、政治、特に民主主義と芸術との関係を議論する一時的な場を作ろうというものです。

ミャンマーのクーデターを扱ったカミズの展覧会「Masking/Unmasking Death 死をマスクする/仮面を剥がす」と併設で行われるこの緊急企画では、東アジアのアクティヴィストたちの版画コレクティヴのDIY的ネットワークの日本におけるハブであるA3BC (Anti-War, Anti-Nuclear and Arts of Block-print Collective)、権力における矛盾を表現する台湾の作家 郭佩奇 (Pei-Chi KUO)、ベラルーシにおける民主化運動を作品化してきたイリヤ・イェラシェビッチ (Ilya Yerashevich)、現在の戦争状況に対する「声」を集めるイラン出身のアーティスト セピデ・ハシェミ (Sepide Hashemi)、都市空間と視覚メッセージの関係を考察する中島りか (Rika Nakashima) などの作品や活動を紹介しながら、会期を通じて、アジアを中心に起こっている政治的な問題、民主主義とアートの関係、そして現在進行中のロシアによるウクライナ侵略の問題を、展示やワークショップ、そしてディスカッションを通じて考えます。

上記がウェブサイトからの抜粋である。尊い。志は素晴らしい。一点の曇りもないだろう。

ただいちゃもんを私はつけたい。いや、つけねばならない。私の注釈をつけたいのだ。実質のところ、決して単純にいちゃもんではなく批判だ。こうしたらよくなる、こうやったらいいのではないか?という提案でもあるし、運営の人格攻撃でもなんでもない。むしろ、気持ち的には、できうる範囲で私も連帯したいものと思っている。言わずもがなだが。念のため。閑話休題。

この時代にアートは何ができるのでしょうか。

→おそらく基本的には何もできない。アートに関心のある人、はじめからこの問題に関心のある人にしか、この情報は届かないので、結果として、やってもやらなくても変わりはない。

この緊急企画は、政治、特に民主主義と芸術との関係を議論する一時的な場を作ろうというものです。

→上記と同じ。普段話したりしている人が話し合ったところで何が変わるのだろうか。本当に社会を変えるのは長期的に政権にあり続ける政治であり、政治家なので、こうした展示に真に呼ぶべきはこうしたことに興味のある、そうした政治家なのだと思う。彼らが来たくなるような展示、関心を持ちたくなるような導線を設計すべきなのだが、政治家としては票にならない案件にはリスク回避もあり、あまり”政治的”な話題には政治家として関わらない方がいいという判断がされそうではあるし、こうした展示でしばしば批判されるのがそうした政治家なので、水と油感は拭えないが、そこに新しい求めたい価値がある。ついでに言えば、経済的に余裕のある慈善者&事業者、またそこにある程度、影響力のある者を呼ぶべきだろう。現場への経済的援助(医療も武器??も結局は経済的援助である程度賄えるので)をしてくれるようなクラスタを動員した方がよい。

毛利嘉孝先生の企画では、しばしばこうした政治と社会における企画は多い。私自身、在学して13年間、社会と芸術の関係についてアンテナを張ってきたが、こうした展示を見るたびにアートの無力感に苛まれてきた。しかし、ここ最近、苛まれることはなくなりつつあり、そうした感情よりも、むしろ、アートの無力な状態のままに、この状態を延々と続けている表現側への無自覚な現状肯定に飽きてきた。アート万能教徒の自己洗脳が解けてきたのかもしれない。それは、自己顕示欲に塗れた頃の野郎時大だった若気の至りに起因するものだったりするので、加齢によるエネルギーの衰退と経験値の向上といった諸々の私自身の変化から気付けたものだとも思う。

総じて今回の展示では、私自身の中で、政治とアートの関係を扱う展示への”飽き”とアートの無力とそこにある意味で気づきつつも仕方なくやらざるを得ない”歯痒さ”と、私自身の遠くの他者の不和への無関心の人間的な矮小さを自覚させられる展示だった。

社会をアートでは変えられない、ということをまず、アートは自覚するべきだろう。

言っておいて、恐縮なのだが、アートを学んでいてつくづく面倒だなと思うのが、この点に関して言い切れないところだ。

ただ、やっぱりアートで世界を変える、変えられると思う者は、この点から再スタートを切った方がいい。

近年、アートの表現媒体、いわゆるメディウムというものが、がありとあらゆる領域に展開されている。デュシャン以降、ひいてはボイス以降の現代アートはプロジェクトもアートの表現媒体となっており、政治もまたアートの表現分野になっている。

※藝大大学院の彫刻を修士で出た重岡さん(松下政経塾出身)は社会彫刻家としてセンスがいい。

その意味で、新しい、よりよい社会を作る運動そのものはアートと言えないこともない。人と人との関係性を表現媒体としたリレーショナルアートは、現在ではコミュニティデザイン、まちづくりなどにもなどにも概念が適用され、なんでも表現媒体化がなされている。

ブリオーの関係性の美学、ビショップの敵対と関係性の美学、グロイスのアートパワーなど欧米の研究者がアートを取り巻く関係性や参加、資本構造についてさまざまな考察を加えている。

この時代アートにできることは何かあるか?

ある!とかつての私なら答えただろう。しかし、近年、私はロマンチストからリアリストに視座を変えてき。極力、平易な言葉で事実に基づく語りをしたい。したくなったと言えよう。その方がかっこいい。閑話休題。アートにできることは何かあるか?という問いそのものからケースバイケースについて色々と吟味する必要があるが、とまぁ、実践的な世界をマクロに変えるという意味でのアクションとしてはほぼほぼ無意味と言わざるを得ないだろう。

現代アートは社会に対する批評性、近年ではスペキュラティブデザインというものも出てきているが、ある程度の方向性を示す役割を担ってきた。真善美や平和、調和はアートが目指すべき方向性を示している。それは西洋的なものかもしれないが、ある程度、人類としての普遍性を帯びたものと言え、ひとまず、この方向を人類は、日本は、東京都民は、台東区民は、一ノ瀬家は、私は、目指している。

アート、例えば、絵画や彫刻でこの方向性を示すだけで、それだけで、世界を実際に変えるアクションになることは基本的にない。そこにアートやアーティストの怠惰を私は感じてしまう。怠惰でなければ本気でない感を感じてしまう。そうなると、嘘くさくなって微妙な感じになる。作品から欺瞞が漂う。

今、いちばん、私が共感できるアーティストたちは、自分をアーティストと思っていない者たちだ。一般的には社会起業家というものだろう。最近、渋谷スクランブルの15階にあるQWS(キューズ)に行ってきた。ここは問いというかたちで社会課題を認識し、その解決を目指すベンチャー企業を育成するインキュベーション施設だ。ここで彼らは、現代アートが持つ批評性をデフォルトで持ちつつ、日々、投資家の厳しい意見と闘い切磋琢磨している。

視察の様子はこちらから

彼らをこそが今、一番ホットなメディウムで世界を変えようとしているアーティストだと美学芸術学的に高らかに宣言したい!とはいえ、自身の活動がアートと認識しているということがアーティストとしての条件のひとつだったりもするが、まぁ、色々な学説はありよねという感じです。

Theory of art

アートで世界を変えらえるか?ゲルニカで世界は変わっただろうか?

私は、基本的にアートで世界が変わった、ここでは戦争とか人類の葛藤、言うなれば不和が変わった、解消したことは歴史上、一度もないと思っている。もちろん、個人レベルでの話はあるだろう。フランクルの夜と霧を読めばそれはわかる。神谷美恵子を読めば、それはわかる。ただ、大文字の歴史的な(すみません、単に使いたかっただけです)。マクロレベルでの不和を止めたというのはないと思う。歌を歌って助かった。シェークスピアをみんなで読んで助け合った。それはあるだろう。

決裁権や独裁に近い権力者をアートが抑止したかと言えば、そんなことは一度もなかっただろう。そもそも、そうした決済クラスタにそのようなものは届かない。

私自身、2011年の3/11の時には学園祭にて大々的にアートに何ができるか?というシンポジウムを開催した。当時の私はアート万能教徒でアートは世界を救えるとナルシスティックに思い込んでいた。アートは、能動的に社会にアクションをとっていける可能性がある、むしろ関わるべきだという規範的な態度を多くのアーティストに求めていた時期もあった。しかし、結局のところ、それは自身への何もなさが裏側にあった。今にして思えば震災を被った全ての方々に失礼というか、ある意味で震災をダシにして、自分を大きく見せる稀有なチャンスとした、というほうが正しい。

他人の不幸を回しに土俵に上がる感覚に近いだろう。

最近、世界の不和を扱うアートはそのように感じてしまう。もちろん、それをしなければ問題や課題は認知されないだろう。そして、そういう類の展示やシンポジウムの最後のまとめは、いつも決まって、関心を持ち続けて欲しい、だ。わかっている。私はいつも持ち続けてきた。だが、持ち続けるだけで本当にいいのか、と良心の呵責に悩むのだ。単にいい人に見られたいという気持ちがあるだけなのだが、それが生政治にまで内側に入り込んできているから困る。

私もここで言えるのは、とにかく、私自身が引き続き、関心を持ち続ける、ということだ。

もちろん、人はそれぞれ自身の限界の中で世界をよりよいものにしていくべきだ、という考えは納得できるし、そう思う。ただ、強制される者ではない。強制してもいいかもしれないけど、自発性があるところに持続がある。

私自身、結局、できることというか、なんというか、アートの可能性を見限った者として、足るを知り、ふつうに暮らすことしかできないだろう。なんなら自分の税金の一部をそうした人たちに使ってもいいと思うくらいだ。私の納めた税金が今回の展示の不和の渦中にいるみなさんに届けば、それでいい。私が能動的に彼らのためにしてやれることは特にない。

最後に陳列館2階で開催されていたミャンマーのクーデターを扱った作品を紹介する。ありきたりな作品だが、グッときた。これまでサイコパスな私はこうしたものを見ても、クリシェだと割り切り素通りしてきた。今回はちょっと違った。それは、私が娘を授かったからなのかもしれない。知らんけど。

こんなに長いブログを書いたのは久しぶりだ。仕事がスタックしまくっているわきでこの文章を書いている。

アートに世界を変えられないが、この展示を見て、少なくとも自分はブログを書いた。書いてしまったのだ。

たったそれだけのことしかアートにはできないのだ。

だが、たったそれだけのことではあるが、アートはできるのだ。

自分で書いていて、アートの可能性について、どんどんわからなくなってくる。

ツンデレか

Culture You!あ~、世界ってほんと美(たの)しい







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