何のためにアートするのか@百島 ART BASE
尾道からフェリーで少し行ったところにある島、百島。
近年各方面で話題になりつつあるアート関連での町おこし発祥の震源地である。
ここ瀬戸内のモデルを参考に越後妻有もある。そうした芸術と関係が深い歴史的背景がそもそもで瀬戸内海の島にある。先代の学長でもあった平山郁夫先生の美術館も瀬戸内にある。
今回は、源平合戦が繰り広げられた瀬戸内海の由緒ある歴史は割愛して早速本題にはいろう。秘すれば花、は師匠から教わった直近、果ては終生の課題である。
藝大でよく見かける社寺彫刻師の紹介で百島に行ってきました。案内してくださったのは百島 ART BASEのアドバイザー中尾さん、現代アートに造詣が深いことはさることながら、瀬戸内の歴史に関してのお話が広く、深く、大変に感銘を受けた。
フェーリーの中では通過する各島の由緒や近年のIT産業の誘致、元水族館のお話など飽きずに伺った。意識高い系の友人たちのタイムラインで田舎や地方での若者起業家誘致の話はかなり目に、耳にしていたので、本当に誘致しているのだと机上の知識が腑に落ちた瞬間でもあった。
百島につくなり、いきなりのサプライズに驚いた。宮田学長が普通にオフでいたのだ。名前も覚えていてくださり大変光栄だった。これで藝大に6年いた甲斐があったというものだ。それにしても宮田学長とは最近よくご一緒させていただく。光栄の限りだ。
百島 ART BASE本拠地への道すがら、豊かな自然を味わった。鎌倉に似ている。原生林なのか、すこし植物の雰囲気が異なるが、やはりどことなく鎌倉に似ているのだ。
島には500人弱しかいないらしい。限界集落はここだけのはなしではなく、日本全国の問題であり、若者が安価で無給の労働力として注目されているのもそのためであろう。空き家問題、超少子高齢化は確実にくる。しばしば目にする新潟の田舎にも似ている。日本全土ひょっとしたら日本の農村の風景はどこも極めて似通っているのかもしれない。青山はいたるところにある。
日本の社会が抱える上記の問題、それらがアートで町おこし関連企画でうまくハックされてWin-Winの関係になれたら素晴らしいだろう。リレーショナルアート2.0とは、永続するリレーショナルアートのことだろう。冷たい目で上から見れば上の世代の若者の有効活用、温かい下からの目で見れば社会参加への好機ともとれる。
ヨーゼフ・ボイスも死んで久しいが、彼のアイディアは今もアーティストたちにしっかりと受け継がれている。アートで町おこしは名目にすぎなくていい。生活費の心配なく制作できればアーティストにとっては本望だ。そして、上の世代の面倒を農村で見るのもいい。田舎に帰って、実家の家族の面倒を見るのも素敵だ。近江聖人である中江藤樹は実地でそれを行った。今の視点から見れば完全にアーティストである。
人が互いに好意を尽くし合う社会になるように社会への一変化を起こすのが私の使命でもあり、私のアート活動の根源にあるから、そうした流れにぜひとも加担していきたい。
早速、百島 ART BASE本拠地につくなりランチがお出迎え!うわぁ、めちゃ、アートチックな洒落乙ランチである。しかも地産地消。小骨のある小魚をよく噛んで食べたのだ印象に残った。
人間の根源としての食に対する忘れがちな地産地消精神を思い出させてくれる美味しい食事だった。
サロンを思わせるハイアートなランチの席で、実際にニュートークを中心とするアートワールドの現場でご活躍されている方々に私の作品を見ていただき、私の研究である”ロリコン”のお話までさせていただいたのは大変に光栄であった。うんこちびりながらでも発表するんだ、との学長からの訓示をいただいていたのでそれを幾分か体現できた気がした。足が震えながらではあったが媚びずに思うことを伝えられてよかった。一歩一歩、すこしづつ自分という存在を認知してもらうしかない。柳幸典さんもいらっしゃって、建築家はアーティストじゃない、という言葉はラディカルで素敵だなと思った。
柳さんの作品は島内に多く、”本気”のファインアーティストの底力を体感させられた。ミッキーマウス、大量のカラフルなドラム缶、世界の国旗を貫通するアリの巣アート、核燃料を模したドラム缶と憲法9条、どれもアート雑誌で見たものばかりだ。そして、何と言っても気さく。かつスタイリッシュ。この洗練された、”シュッ”とした感が欧米のアートシーンのムードなのだ!
アートはアートそのものが手段であり、目的である。百島 ART BASEのステートメントにもしっかりと記載されている。ほんとうのアーティストの語る言葉はそれだけで強い。レトリックなどいらないのだ。なぜなら作品が”背中”ですべてを物語るからだ。それは言葉ばかりで説明してしまう自分にとって貴重なサンプルだった。自分もベラベラしゃべらず、作品のみに語らせていきたいとも思ったし、それでもやはり、ことばで説明することも大事だという作品とことばという両立可能性の領域に焦点をフォーカスしていこうと認識をすこしだけ修正した。
アートは、誰からも必要とされないものを作る。自分のために作る。建築家はクライアントがいる。それはアートではない。ここからにじみ出るものが柳さんのアートの本質である。この漏れ出暗黙知にこそ、柳さんのアートが宿るのだ。
大いに触発された。月収、10万円をなんとしても稼ぐ。アートをしながら稼ぐ。とはいえ、自分はアートを遊びでやっている。とりわけ哲学もそれほどない。理詰めでは論じられる、しかし、それは机上の空論である。腑で語っていない。自分のことばでないのだ。
なぜ俺がアートをしているか、なんのためにアートをしているのか、アート、ART、ARS、テクネ、…、2年前に考えたことたちが脳裏をよぎった。そして、やっぱり、何度も思うのだ。
もはや、アートの答えは、私が2年前にすでに証明しており、やはり、ほんとうに、あそこでアートの定義は終わったのだと今も確信している。
しかし、私は大切なことを忘れていた。というか、問題があまりにも同化していて異化することができなかった命題があった。それは、芸術とは何か?アートはとは何か?という客観的な真理の問題ではなく、私自身の超主観的な命題としての問題、なんのためにアートをやるか、というものだ。
正直、実はあまり考えてなかった。いつも、わたしとしては、ただただ、”自分のため”ということばで解決していたつもりであった。しかし、今回の旅での大きな収穫は、中尾さんや、柳さん、岩崎さん、またご一緒したアートワールドでバキバキにご活躍されている方々とお話をする上で再考させられたのが、”自分のため”の向こう側にある問題である。自分のためにアートをやる。それは間違いない。では、自分のためという一見、正当な答えに見える、抽象的でいても、結局はそこに尽きるよね、という問題の微分化にこそ、自分がアートをやる答えがあるはずなのに、それを己のためという”腑に落ちた”レトリックで誤魔化していた、とも言える問題の極致点があぶり出されるかたちになった。
今までは、暇つぶし、それがアートをしていた自分の本音だ。展覧会やる、あ、おれもだすわ。面白そうだから。藝祭がある。あ、おもしろそうだ。せっかくだし俺もだすわ。みんなをドキッとさせたやろう。コンセプトもしっかりしているように見えて、実はそんなに考えてなかったりもする。考えていたりもする。とはいえ、ファイン・アートに関しては、学部1年の冬に現代アートを終わらせてからは、哲学としてのアートにシフトしたのが現状だ。知的観念ゲームとしてのエッジとしてのアートを最近はしている。それが『The Final Definition of Art』であり、『CRARISSE CRISIS』のロリコン研究だ。芸術とは業の肯定であるとも思っているから、親鸞的に肉食幼女妻帯こそが現代の親鸞だ。欲望に忠実に。あくまでメタに自分をみて肯定することが大事で、それが今の自分のアート活動である。
わたしは人格者ではなく、また意思も強くない、色と金に左右され、日和る。それは自分が痛いほど知っている。だが、かろうじて、今のところ、まだ踏みとどまっている。しかし、塀の上に今はいるが、いつ塀の下に落ちるとも限らない。塀の上にい続けることは極めてエネルギーをともなうのだ。人は、容易に塀から落ちる。水は低きに流れ人の心もまた低きに流れる。早起きは三日坊主。二度寝の達人。ダイエットは明日から。人は堕落が本質であり、ニーチェよりも安吾的だ。
そうなった暁に、防波堤として自らの文化的クローンが自分を救ってくれる。つまり、自分が自由であり続けるために、わたしの周囲もまた自由人であり続けなければならない、ということである。そのために自分の作品があり、いつもテーマが業であり、私塾を開き、メディア・リテラシーを教え、批判的メディア実戦で凝り固まった自分をときほぐす安全保障ネットワークを構築しているのだ。
それは、端的に言って、わたしがわたしであるための自我保証であるわけだ。
そのために、わたしはアートをしている。アートなるものをしている。アートとは、口を酸っぱくして何度もいうが、人間存在そのものだ。アーティストでない人間は存在しない。というのも、すべての人間があるべき理想を自らの内に秘め、それに向かって努力しているからだ。その目的とは、なにも壮大な夢への実現ばかりではない。目の前のコップに手を伸ばし、それを自らの口元に微妙な力加減で近づけ、喉を使ってうまく水を飲むこともそうだ。今わたしが書いている文章を読むことも芸術を行使している。人間は芸術を行使しなければ世界に鑑賞できない。世界に存在できないのだ。その点において人間はみな、芸術家なのである。
それを踏まえた上で、人間は社会彫刻家でなければならない。よりよい幸せな、穏やかな生活を自らで独立して掴まなければならない。自らの力とともに、他の市民と手をつなぎ、連帯して、普段の普通の平生の牧歌的な生活を獲得しなければならないわけだ。
文化的クローンとは、クローンではない。なぜなら人間のは個性があり、完全模倣は不可能だからだ。各人が個性のままに各人の文化的背景に則りながら、自分の話を取捨選択し、感応し、独立し、自らで思考し、自らで情報を取捨選択し、疑い、決断し、行動する人間のことだ。よりよき社会とよりよき自分とよりよき作品の根っこは同じなのだ。
市民自らがみな各自、”より自由に”生きられる社会になれるような一変化にわたしはなりたい。宮沢賢治を朗読するだけでは世界は平和にならない。戦闘的宮沢賢治で行こう。
長くなったが、そのために自分はアートをする。自由になるために。来ているものを脱ぎ、常識を疑い、仕事至上主義の中に、遊び至上主義を導入し、常に社会に対し、世間に対し、コペルニクス的展開を提供し、拡散する。社会的道化、それが一番しっくりくる。
アーティストとは、己を縛る社会的制約のしがらみから逃れ本音を語る道化である。そんなことを言ったら、そんなことをしたら先生に何か言われる。親から何か言われる、上司から何か言われる、会社から何か言われる。上から何か言われる。
そのドグマを打ち崩す。それがアートだ。現代のアートだ。アートということばに惑わされるな。アートとは、もののあるべき姿かたちを探求することだ。理想を実現することだ。それゆえに大人たちは、しばしばしがらみでがんじがらめになる。思ったことが言えなくなる。こどもは自由だ。裸の王様を裸といえなくなったとき人はアーティストでなくなる。
つねに、王様は裸であると言おう。おれはすぐに日和って言わなくなるかもしれない。そのときに俺に勇気を与えてくれるのが君だ。君のためにおれはアートをする。君と、俺自身がおれであるために作品を残している。
そんなことを考えさせられた貴重な時間であった。ご一緒できたみなさん、またお会いできますこと楽しみにしております。またどこかで。
追記、その後、せっかくなので、ちょっと観光してきました笑
素敵なご縁と仲間に囲まれて 越後スター・一ノ瀬健太
お!なかなかいい記事じゃん!と思われた方はアマゾンでお買い物♪
コメント
素敵な夏休みですね!
お写真を見ていて、アートというのは、まったく心のオアシスなんだと、
しみじみと感じました。
芸術の道に邁進されているお姿は、とてもかっこいいです。
最近は神回が多いですね。
ブログの内容がとても濃いです。
ファン様
毎回神回のご指摘、お恥ずかしい限りです笑笑
クスッとさせていただきましたw
薄い内容の記事を毎日更新するよりも、なにかこう、グッと”得体の知れないマグマのようなもの”が湧き上がってきたときに、一気呵成に書くように心がけております。
いつも読んでくださりうれしいかぎりです。ファン様も晩夏をご壮健にて爽やかにお過ごしくださいね!(^-^)
一ノ瀬健太 拝