座禅してきました!
いままで素人童貞でしたが、ついに初座禅で卒業してきました。
今日は、素敵な出会いから総持寺の座禅会に誘われ急遽シルバーウィークの初日にトップバッターイチローで座禅にいってきました!
今まではときおり、寝る前とか、我流で座禅組んでたりしてたのですが、まぁ、我流なので、あぐらでしたw結跏趺坐痛いし、半跏趺坐とか知らないし的な、もうほんと反知性主義wでもまぁ、反知性主義ってわかってたので、反知性主義ではないのですがw、まぁ、それでもいい感じに、座禅ボーイズできてたかぁとは今でも思ってますが、臥竜ウニは限界があるものです。膨大な禅のアーカイブがあるのに、それを知らないで禅を語ったりやったりするのも勿体無いことです。序破急のごとく、エッセンスを吸収して、我流を発展させるべく、行ってまいりました!
今までは、座禅、形式、ちょうかっこわるい、いじめかっこわるい、てきな前園さんのいう通り的態度でいたのですが、実際にやってみた自分のなかでなにかが変わるのかなぁ、とびびっていままで行かなかった面もあり、まためんどかった面もあり行かなかったのですが、もう、いくしかないですよね。鬼怒川の氾濫しかり、東日本大震災の教訓が忘れかけられてきた今日この頃、やっぱり生きてる内に素敵な体験をたくさんしたいですよね!
それに、自分のアート作品が禅をもろテーマにししてるのに、おまえ、正式な、師に教えを請う形での、もしくはインストラクターありきの禅したこと一度もないじゃないか!って言われたらやっぱり説得力ないのかなぁ、って思っていたので、これを機に座禅素人童貞を卒業して作品に自律と説得力を持たせることにしました。
初体験は好きなひととでは、ないですが、やはり格式のあるところでしたいなぁ、とかなんとか、おもってましたが、まぁ、正直どこでもよかったわけですが、素敵なご縁とお誘いを受けたので、鶴見駅の総持寺がぼくの初体験でした。とても大きなお寺で本堂の屋根がすんばらしいのなんのって、これは浅草寺くらいやばい角度でやばめな大きさでした。
いざ座禅がはじまると老師が総持寺の歴史を語ってくれました。集中して禅に励みたいひとにとってはやかましいの何物でもないのですが、まぁ、禅の時間って初心者にとってはものすごく長いので、初めの導入でお話しされるのは、暇というか、なんというか、集中という概念も持てなかったので、誠心誠意超集中してお話しを聞きました。なので、めちゃめちゃ今も覚えてます。
最近、人の話しを集中して一足一挙手逃さずに聞く、というのが人生の目標なので、それを実行したかたちになりました。総持寺は700年の歴史を誇るお寺で永平寺と並ぶ曹洞宗の二大本山なのです。わたしは禅はしたことがないのですが、なぜか、わたしのTシャツには永平寺Tシャツがあり、それを時々来たりしてたので、微妙なシンクロニシティーを今日は堪能しました。
実際に今の鶴見駅に寺が建立されたのは104年前とのことで、古びた本堂近くの建築はものすごく古めかしくて、いい感じにわびさびでした。
100名の定員でしたが、滞りなく着替えの部屋いいれ、時間がきたら、大きなスペースに集まり、老師のことばと座禅のやり方、結跏趺坐、半跏趺坐のやり方、また歩きながらも禅を行う両手で手を握る修行のやり方も学びました。
はぁ、でもほんと、坊主ってまじでエロい。今、巷で美坊主が流行ってるけど、まじでBLの世界だと思った。レクチャーしてくれたお坊さん、まじで女の人みたいにとてもきれいだった。三蔵法師かって思ったわw夏目雅子かヨォ!って(←たとえ古いなおれw年齢やばすw)肌が綺麗だし、まじでやおえたw低カロリーの食事を取っている僧侶ってなんであんない肌が綺麗なのだろう。美容クリームよりも粗食を取った方がお肌にいいのではないのだろうか。
美坊主(おそらく受け←罰当たり)さんの教えで一通り座禅の仕方を習い、座布をゲット(←これってずるくない?とおもったけど、結跏趺坐したらまじでこれがないと厳しかった。)し、座り方のレクチャーののち、それを返却し、いよいよ、りょうしゅう、と呼ばれる座禅場に移動した。
中には、けっこういいお顔をした仏像があり、もっとじっくり眺めたいなぁと思ったが、その仏像をなめるようにみていては禅ではないからチラ見して、座禅の場に着いた。
あとは、隣のおそらく先輩と思われる方のやり方を見よう見まねで座禅してみた。
40分の座禅、10分の歩き禅、40分座禅のセットであったが、前半はびびっての半跏趺坐、そののち、結跏趺坐をして、まじで足がやばかくて、すぐその場で立てなかったですが、やりきりました。
座禅の最中に考えたことは、ほんとうは考えてはならないのですが、なにか考えないともったいないと思う性分なので、修士論文の台第4章の構想を練ったり、人と喝を入れられる関係って素晴らしいなぁ、とか、人間は一人では生きられない、ときおり喝を入れてくれる友人がいる人は幸せだなぁ、とか、自分とはなにかを考え、自分の半生を振り返って、おかんのお腹の中とかのことを考えていましたが、まぁ、それでも、雑念は雑念なので、それを消し、集中して半畳先を見据え、姿勢を良くし、手の印をしっかり組もうと努力していました。それらの動作を努力して、形を美しくしようと思えば思うほど、集中して自己や意識というものが消えていったのを覚えています。
自己を消そうとすると消えないのに、所作を美しくしようとすると自己が消える、まぁ、知ってたことですが、まぁ、やってみたら見事に消えました。後半の40分は長いなぁ、とおもっていたのですが、まぁ、やってみたらあっという間の為五郎ですぐに終わりました。
自己申告制なので、やりたくない人はやらないでいいのですが、まぁ、集中できなかったり、眠たくないのですが、眠りに近い状況になったり、印の親指が何度もずれたり、腰の入れ具合がだんだん甘くなったり、顔が正面を向かず、目線を下に半眼開けるため下に集中し、顔も下に引っ張られたりして、座禅がずれた時に、*\(^o^)/*ファイト一発、喝!!!を入れてもらうようにしていた。こうしたフォーマット、身体とのフィードバックを本気で描くうちに、気づけば、チーン、となって座禅は終わっていた。今回は自己とは何かと語り合うよりも、身体と語り合ったというのがめちゃめちゃふさわしいと思う。たしかに自己と語り合ったけれども、それはきっと雑念に括られるのだと思う。
と、まぁ、そんなこんなでわたしの座禅初体験は終わりを迎えたのである。
ここで、面白いエピソードをひとつ、一緒に行った腐れ縁の友人が、座禅場に向かう長廊下で、ブラックライトを点けた展示場を通過する時があり、友人の手がなんと白く光っていて、あとでなんでかと尋ねたら、今日は禅で心が乱れるといけないから、前もって抜いてきたといった、のは面白かった。いや、禅に来る前に手を洗えよwっていうエピソードでした。
期待していたほど、化学変化はそれほど起きてないとは思うが、こうして、ブログを書くということをするのもけっこう珍しいことなので、効果はあったのかもしれません。それと、やっぱ、背中を叩かれるののではないですが、やっぱ、勇気を出してやりたいことをやったほうが幸せだなぁ、というのは今日も思いました。もし勇気を出して肩を叩かれなかったら後悔したことでしょうし、それもいじいじびびって、どうしよどうしよ、と思うのでなく、やると決めたら合掌し、手を合わせ待機し、叩かれる。バシ!!!という音とともに、湧き上がる感謝。これ確かにおかしいのだろうけど、ほんと、あぁ、ありがとう、という感情が湧き上がってきた。怖いもので、それ以外の感情は湧き上がってこなかったのだ。
沖縄料理は初体験が肝心!!!!ほんとまじで!!!おれは、奨学生の頃にソーミンチャンプルーを家庭科の時間に作ってだいしっぱいしたのがトラウマになって、沖縄料理はまずいものと思っているのがまだある。
大学生になってそのトラウマはだいぶ消えたが、高校生くらいまでは本物の沖縄料理に触れる機会がなかったから、小学生の頃に大失敗した、塩入れすぎた、ゴーヤ苦すぎまくりの、ソーメン伸びすぎの、ソーミンチャンプルーは地獄だったのは、ほんとだめやったw
ここはめちゃめちゃうまかった!!!みなさん、沖縄の方言でくいしんぼうを意味とのこと、かわいい店員さんが教えてくれたから間違いないぽよ。
オタクカルチャー、ウルトラマン、沖縄、米軍基地、本土、うちなんちゅ。ネーネーズ。沖縄の素晴らしい日本の精神に乾杯な素敵な一日でした!
バシっ!!!っと叩かれてふいっと、頭の中に浮かんだことばは、ひとはひとりでは生きられぬ。ということばだった。叩く。叩かれるひと。喝を入れるひと、入れられるひと。支え合って素晴らしい。どちらもいなければ生まれない、できない動作である。
いい意味で人生のかたちがぶれた時に喝を入れてくれる友人は素晴らしいし、自分もそうした喝を入れてあげられるような人間になりたいと思った。
それと、総持寺におれの禅画は絶対に合うと思った。もし総持寺の関係者の肩がこのブログをお読みになっていたらぜひご連絡ください。本日のお礼も込めて無償で描かせていただきます。
今、進んでいる新館の壁面の修理、また玄関にわたしの禅画はぴったりです。石川の七尾出身の戦国時代の画家、長谷川等伯のように描きますのでぜひご連絡をば。待ってます!
禅画アーティスト 一ノ瀬健太
お!なかなかいい記事じゃん!と思われた方はアマゾンでお買い物♪