人間はどこまでプラプラできるのか?
卒業式を間近に控え、未だなお就活もしていないオイラはしばしば、卒業後のことを聞かれる。
このままでいいの?何か職に就かないと、何になりたいの?
自分のことを親身に考えてくれるアドバイスから、ネタでいじってきたり、自らの欲求不満をあてこすってきたりする人とさまざまである。
しかし、そのいずれもがとても為になるアドバイスであるため、どれも真剣に拝聴している。顔がふざけて聞いている風に見えるのはそういう作りなのだから仕方ない。こっちは本気で聞いている。マジで!
私自身も明確な答えを返せないでいる。というのも、私がなりたいものの“ことば”が存在していないからだ。
ことばがなければ人は当惑する。ある形に押し込めないと安心できないのだ。そのことは、“得体の知れない黒々としたモノ”である芸術ということばを定義せざるをえなかった経験を持つ私自身が十二分に知っているので、彼らの気持ちはよくわかる。
私は何になりたいのかと問われれば、ポスト赤塚不二夫であると答えることにしている。それになりたいのだから仕方ないのだ。しかし、世間はそう言っても納得をしてくれない。だから、続けて岡本太郎になりたいのだというと、あぁ、芸術家ね、という安易な答えが返ってくる。
あえて言うが、岡本太郎は芸術家ではない。少なくとも、岡本太郎とおれ自身はまちがいなくそう思っている。太郎の“職業”は、人間だった。太郎自身も常日頃語っていたがいつも色眼鏡のゲテモノ扱いで彼の考えは笑いとともに一蹴されていた。時代が早すぎたためか、真実を突きつける裸の王様の恥部を社会は受け止める器を準備せられなかった。
そして、それは今にしても変わらないだろう。無知は罪だ。
赤塚不二夫はマンガ家であるが漫画家ではない。そして岡本太郎も美術家であるがそれのみにて限定せられるものではない。人は安心したいが為に枠にはめる。嵌めた瞬間、考えることをやめられるからだ。要は楽になるがために人を枠にはめたがる。
昨今のベッキーも清原も同様のことである。
そこに広がる無限の彼らの喜怒哀楽の多様性をたったひとつの顔や人格に帰そうとする。馬鹿である。
人はひとつのことばに限定され得ないことを前提とした上で限定せねばならないのだ。
私のこれからもそうである。
私は現在マンガ家であり、ウェブサイトをそこそこ作れるプログラマーであり、学芸員資格を持ち、教員免許を持つアーキビストであり、上野の杜を守護する高度学芸員である。
画家であり、彫刻家であり、政治家であり、人間でもある。
諸君らに問いたいことは、私を限定することは、己を限定することに等しいということだ。狭い世界の人間であるほど人を型にはめて楽をしようとする。こっちは天下の太平の逸民だ。貧乏な高等遊民でる。ボロは着てても心は錦をまとった貧乏学生である。
貧乏は貧乏でも、真理の言霊を吐く沙羅曼蛇である。
私が目指すのは、わかりやすいところで言えば、赤塚不二夫である。ルネサンス期のレオナルド、ミケランジェロは言うに及ばず、画家であり、彫刻家であり、歴史著述家でもあったヴァザーリ。
ひとつ時代を下って画家であり外交官であったルーベンス、画家であり宮帝人であったゴヤ。
遡れば、アレクサンドリア図書館の司書であったエラトステネスをこそ目指している。荒俣宏も目指したい。
我を縛るものは汝自身を縛るものである。
古びて、鄙びたこうした人間の多面的生き方を再興するのが最近の目標である。このようにマルチに生きることを通じてメディアリテラシーの啓蒙としたい。
このような人間を、職業を形容することばはないが、美輪明宏さんはこのような職業を雑業家と呼んでいる。
私を縛りたい人にはこの呼称がもっとも適当である。推奨したい。
以上、これからももっと貪欲に広く浅くを追求していきたい。
もちろん道を深めるには努力がいる。ともに努力しようではないか。自分の可能性とあなたの可能性を祈りながら。
人間、いっちー
お!なかなかいい記事じゃん!と思われた方はアマゾンでお買い物♪