自分の聖域を持つこと

今日も1ページ描きました!
最近鬱が流行っている。ともすると、その原因は様々なものに起因せられる。
深夜遅くまでのブルーライト、抑圧的な社会、言論の自由なきブラック企業、社畜、不景気、また遺伝的うつ病体質などなど原因をあげればキリはないだろう。
そして、SNSの登場により自分が”選ばれしもの”であると勘違いする勘違い野郎を生み出すことにいたった。
中身のない人間であればあるほど、安易な優越感に浸って他者を見下し、心の平安を得る。
そう、ひと昔前の自分である。
東大に対するコンプレックスも文Ⅰ以外には感じなくなった。文Ⅱ、文Ⅲにコンプレックスはない。まさに東京大学物語の村上の気持ちが痛いほどにわかる。
SNSの登場により、100年前なら村から出ることなく一生涯をひとつの村落の中で幼年期から老人期までのサイクルを送って、死んでいった者たちが世界の裏側の情報をリアルタイムに摂取することができるようになった。意識高い系と自分を比べることが可能になったわけである。村の中の美人は、今でいうならば学校のクラスの上から3〜5番目くらいであったのかもしれないが、今では、世界、日本で1番の美人を毎日、大量に目にすることになるから、周りの3〜5番目くらいの美人が総体として、”醜女”になる。たいして実力もないのに理想のみが高くなって、結果、果実に届かず、すっぱい葡萄。何もない自分に絶望して、鬱になる、といったケースがあるケースもあるのかもしれないかもしれないかもしれない。
この事実に気づくのに私は、6年かかった。私には何もない。そこに気づくことがスタートであった。
私には何もない。それゆえに、少しづつ、私自身を”耕す”ことにしよう。そう思った瞬間から、私は自らを”耕す”ことを初めて、今も毎日”耕し”続けている。耕す工具のオススメは美輪明宏である。彼女の著作を強く推薦する。
活字という種を蒔き、映画や美術という水をやり、美しいものを感じ、美しいものを発信する。
時に、人間の暗部を見つめ、時に人間の明部を見つめ、真理の灰色を遊ぶ。
かつてゲーテは、教養とは、まず持って自分が何者でもなく、自分がいなくとも世界は何ら痛くもかゆくもなく、そのまま回り続ける、ということを理解することだ。とのたまっていたことを記憶する。
そうなのだ。世界は、自分がいなくても全く痛くもかゆくもない。世界には、自分よりもヒカキンやはじめしゃちょーの方が大事な人が圧倒的数なのである。
最近は展覧会で全くライフワークの漫画が描けていなかったが、今日、展覧会のシフトに入っていると、自分のブログ読んでくれているという方がいらっしゃってくれて、大変にありがたかった。
俺は、彼のために、彼のためだけにブログを続けようと思う。その彼が少しづつ、ひとりふたりと増えていけばありがたい。人から必要とされるブログにしたい。人からもっと必要とされう人間になりたい。
代替の利かない、リベラルアーティストになりたい。
自分の聖域であるマンガを描く。今日は頑張って一枚描き上げた。ひとコマでいいから書くのだという気力で描いた。そしたら1ページ掛けた!
少しづつ、少しづつ、ゆっくり自分の聖域の時間を設けたい。ライフワークを失った時、ひとはきっと、堕落する。
今俺は、ドブの中で空を見上げている。自らにの能力がないまま、空を見上げる人間は、ひょっとしたら、ドブの中でドブの中に映る月を見ているのかもしれない。水面に映った月は近いが幻影だ。ロケットを作らねば本物の月へは届かない。
そのロケットを作るのが、アトリエであり、聖域である。その場を作り、通うことこそがまず持って全ての始まりであるのだ。
越後スター・一ノ瀬健太
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