Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

歴代最高視聴率達成・ベッキーの金スマの謝罪会見を見ていたら…


アヒルちゃんかわいい!

アヒルちゃんかわいい!

 

 

ベッキーの最高視聴率金スマ!

 

これに関しては、後日レトリック分析をします。極めて秀逸にベッキーの復帰がメタでデフォルトで歓待されてますね。

 

この動画を見てたら、関連広告のところにあったので、ついつい見てしまいました。

男性編もある!

 

反知性主義、反知性主義と口を酸っぱくして語っている自分、反知性主義と語れば語るほど、自らが反知性主義的になっていくことに気づきました。

反知性主義に毒されないようにするには、何がいいのか、今は模索中です。とりあえず、やはり、教養は積んでおく必要はやっぱり感じています。教養とは、未知の分野における敬意をキープすることなのですかね。

敬意を欠くのは一瞬でできる。注意一瞬、怪我一生。

 

 

敬意一瞬、不敬一生。

 

 

創価学会に関しては、なんとなく、池上彰、公明党、お葬式になると全部香典持ってかれる、とか、云々、自分の中にぼんやりとした触れてはならないクオリアがあります。触れてもいいのだけど、あまり大きな声で触れてはならないクオリアがよぎるます。友人にも創価学会だけでなく幸福の科学もいます。韓国人も北朝鮮大好きアイドルもいるが、全然”普通”だ。いずれも個性あるひとりの人間たちです。

 

この友人たちがいなければ、きっと自分も虚妄の巨人と戦っていたのだと思う。

 

 

反知性主義の敵はきっと、哀れな自分に起因する。身体性なき肥大的自我であり、コンプレックスが膨大な無限の無意識の海にあります。

ヘイトスピーチも歴史修正主義も、韓国人の彼女ができた瞬間に韓国大好き犬でも食うぞ!コリアンパワーになるんだと思うのです笑。チャンツェーみたいな中国人の彼女ができれば、尖閣は中国の領土と言ってしまうでしょう笑。ロシア美女に囲まれたら、北方領土はロリアのものとウォッカ片手にベロンベロンになりながら言ってしまうでしょう。少なくとも自分は言ってしまう自信があります笑どや!

 

それが、身体性を伴った知性というものである。

 

 

池田大作先生も大川隆法先生も、著作を読んでみても、ドン引きすることやおいおいwと思うことはあります。

しかし、それだって、自分の”固く信じている”価値観があるからです。

異なる価値観を持った者にとっては極めて普通のことです。現世利益はやはりどこも共通しているけれどもw。

当然、科学的でない言説はしばしばありますが、科学は絶えず開かれたオープンエンドモデルなので、現時点で”科学的”でないということしかできないのではないでしょうか。かといって、それを未科学という定義の元で正当化することもできません。あくまでも、現在の段階で”科学的”でない、ということです。

 

 

今の自分は確からしいオリジナルソースに触れ、真相を知ったわけではない。知っているわけではない。

 

なんだって自分の目で見て聞いてみて、ってことを全くしていないのですから当たり前です。検証作業も何もしていないのに、勝手に断罪していた自分に気づきました。それでは、反知性主義のドツボにはまっているといっても過言ではありません。ミイラ取りがミイラになっているのに気づいていないのはいっそうタチが悪いです。自分のことを棚に上げている状態です。

 

自分は何も知らない。無知の知が反知性主義のまずはじめに持ってくる一番の処方箋なのかもしれません。

 

 

今、ジョンロック、カント、ロールズを通じて改めて、世間からは2周りくらい遅れてサンデルを読んでる。サンダルを履きながら、サンデルをヨーグルトをぐるぐるかき混ぜ、食べながら読んでる。フリースタイルダンジョンに影響されてライムを刻んでみました。

 

善とはコミュニティーありきで初めて生じます。共同体のないところに善はありません。善のあるところには必ずコミュニティーがあります。そしてコミュニティーのあるところには必ずコンプレックスがあり、差別が生じます。そこをメタに、外枠から、構造的にどのように解消することができるのか、また無理なのか、また無理ではあっても、限りなくどこまで解消できるのか、それをニーバーの祈りの範囲で改善していく糸口を見つけたいと考えております。

  • 日本語訳(翻訳者:大木英夫)

神よ

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

シガニー・ウィーバーではありません笑

 

家族、会社、学校、友人、好きな人、嫌いな人、様々な環境に囲まれながら今ある自分のことを「負荷ある自己」とサンデル先生は形容しています。丸山眞男先生曰くの「被縛」という概念とほぼ同じでしょう。その制約の多い自己からもたらされる共通善はいずれの共同体にも見受けられます。創価学会も幸福の科学も格率に則って生きているのならば、その構造に違いはありません。

最も確からしく、判断の基準にあるのは”私”という。”俺”という身体を伴った「負荷ある自己」にとっての利害関係のみだ。

”私”にとっての「共通善」が互いに共有できれば、テロ集団、レジスタンス集団、ヤクザ、ムー、宇宙人といったあらゆる”虚妄”と共存は余裕で可能だと思います。シャルリーエブド『悪魔の詩』など扱ってはならないものは確かにあります。

しかし、それはイスラム教そのものではなく、彼らが尊ぶ対象そのものの扱い方にあります。他者が尊ぶものを汚してはなりません。

それは極めて真っ当なことなことである。

汝、隣人を愛せ。己の欲せざるところ、人に施すことなかれ。

他者がありがたがっているもの、フィギュア、声優、同人誌、かつて卑しめられ貶められたオタクというスクールカースト末端の文化遺産も同様です。

イスラムと聞いてその時点で拒否反応を起こすこともまた反知性主義である。皆、ほんと、マジで、同じ人間である。いい奴もいれば悪い奴も、ケチな奴も、豪快な奴もいる。

 

創価学会の勧誘ビデオとてもテンプレ通りの出来でうまく出来上がっていたと思います。

 

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