Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

ぬこと仙界(4/10)

新年度を迎えた。

この1年、全く研究をしなかった。いや、これは言葉が適切ではない。この1年、座学を中心としたいわゆる研究者的な研究をしなかったということだ。

美学の研究領域は広い。ともすれば、宇宙よりも広い範囲を扱う。哲学の中の王道が美学だからだ。美学とは、最も人間らしい人間の粋たる学問である。美学とは金や名誉や権力とは最もかけ離れた、遊びの学問である。

この1年、座学の研究者としては、完全に遊んでいた。アクティブな実践者としては完全に研究に没頭した。私の研究テーマとして、以下の項目が挙げられる。

(1)現代における教養とは何か

(2)美術(ファインアート)の定義

(3)アートとポルノグラフィー

(4)理論家出身者における作家活動

(5)アーティストとは何か

今、この年度末と新年度の「   」の中にいる時に、立ち止まれる時間をゲットできたことはありがたく思う。

自分の本当にやりたいこと、とは自分がどのように生きたいか、である。

のんびり、のほほんとぬこと戯れることで見えて来る世界がある。世人は齷齪と足早にあるき、花を愛でる心を忘る。

我もまた同じ。忘る人。されど、やっとこの束の間だけ、仙界に遊ぶことができた。また忘れ人にこれからなる。

私は、この「   」をこそ愛す。文章を紡いでいて、楽しいのである。生きがいを感じている。それはマンガを描いている時にも、本を読んでいる時にも感じられるあの感覚である。暇。余暇。バケーション。そこに人生の本質がある。人間の人間たる意味がある。

この年度末と新年度の空白時期に、私はふと立ち止まって考える機会を得た。この立ち止まる感覚を持てること自体がありがたいことなのだと、ついぞ、今さっき、再認識した。

アクティブな芸術活動に没頭するあまり、私は私を失っていたのだ。そう、暇人会会長が忙しくなっていたのである。この忙しいということばを私は決して使わないようにしていた。なぜなら、忙しいということは、超絶暇人会会長にとって恥ずかしいことであるからだ。やせ我慢してでも、忙しいとは言ってはならない。会長就任の時に、そう誓ったのだ。それゆえに、忙しいということばをこの一年極力、使わなないようにしていたのだが、この年度末までの3月は忙しかった。ラッシュであった。文化庁での展示、根津での展示、パンフレット作成、全国津々浦々探訪、イベントの記録、地図作成、自分がいて、自分がいなかった。そんな状態を経験した。

忙しいのは、決断を遅らせるからで、それをわかっていながらしてしまう自分がいた。

忙しさは決断の保留からくる。極力、即断即決をすることが、暇になれるtipsなのだと30を過ぎて知れたのはよかったように思う。しかし、深層心理で考える時間が欲しい、というのも私の無意識な身体感覚がその時間を欲していたようにも思えるから、決断というのは決断する最適なタイミングで決断するのもいい気がする。何れにせよ、なるだけ、即断即決でこれからは生きて行くことにする。思い立ったが吉日こそ吉日なのだ。今度でなく、洗濯してからでもなく、”今”なのだ!

今、自由になるのだ。

私は自慢ではないが、6浪をしている。その分だけ人よりも立ち止まる時間を多く得てきたように思う。おそらく同世代の中で一番、足踏みをはっぱふみふみしている男だろう。ベジータに言わせれば、カカロット、お前が暇人、ナンバーワンだ!と言わせしめることができる自負がある。

昨年は超絶暇人会・会長に就任させていただき、暇人活動推進に勤しんだが超絶忙人会の末端にも加入するというアンビヴァレント・ハンナアーレントな状態に陥ってしまった。まさに老子とアイヒマンが私の中に混在するという神谷美恵子もびっくりな状況が起こってしまったのだ。

あぁ、自分の思うままに、表現の自由を謳歌できることほど楽しいことはない。言論の自由は自類の爛熟した果実である。口からほとばしる思ったことをの弾丸は、口から出た瞬間に甘味を与える。言論の自由とは、金のかからないスイーツであると私の脳内カクテルは雄弁に物語る。

つらつらと書きたいことを書く。それがどれほどの喜びなのか、今、猛烈に痛感している。この一年、制約の多い文章を書きまくった。お世話になっております。ご査収くださいませ。引き続き、よろしくお願いいたします。テンプレに疲れた。失礼のないように、オブラートに包みすぎるあまり、膨大な無駄な時間を浪費してしまった。と思っていた。

しかし、そのオブラートに意味があるのだとも最近、痛感した。あとで上から怒られるのも嫌だし、かつ、想いはスタイルに現れるから、相手への敬意として真心に包んでメールを送信する、その表れなのだと気付いた。

私たちは、毎日、あまりに多くのものに縛られ続けている。いうなれば、自由を売り渡し、私たちは生きている。私たちは食に縛られ、時間に縛られ、肉体に縛られている。しかし、私たちを一番縛っているものは、実は精神的なものだ。会社に行かねばならない。早起きしなければならない。新入社員のためにマニュアルを年度末までに仕上げなければならない。~ねばならない。納豆はねばねばせねばならない。地歴の教員の口元はねばねばしてはならない。

自由こそ、私が求めるものであり、私が生涯をかけて得たいものなのだ。そして、その自由とは、願っている限り、遠くにあるものだ。人は自由な存在には決してなれない。

負け惜しみかもしれないが、人は、自らの運命を甘受した時に、初めて自由になれる。どうしようもない自分、勇気のない自分、お金も時間もない自分、ブサイクな自分、肌荒れな自分、背が小さい自分、コンプレックスだらけの自分、銀歯が多い自分、虫歯だらけの自分、病気の自分、隣の青い芝生だけを見て、気づけば人生の時間がなくなっていた自分、勤続45年の間、つまらない人生を送ってきた自分、そのどれもが振り返る時では遅いのである。

今、その縛りを受けれ入れてこそ、人は自由になれる。今の制約こそが自分の人生の自由なのだ、とそう思えた人間は弱いままに強くなれる。制約を受け入れたその先に、神の国は現れるのだろう。私たちは、みな、私たちでなければできないことをせずに、日々代替可能な労働力として、生きる。その代替可能性の中に真理がある。代替可能性の仕事を代替不可能なあなたというクオリアを持った自我ヴェルトフが、やっていることに自由があるのだ。

今、私は自由である。私を縛るものたちと一緒に踊っているからだ。この縛りこそが我が自由なのだ。この縛りを一度愛してみてほしい。嫌な会社を、嫌な仲間を、嫌な上司を、嫌な家族をみな愛してみてほしい。慈しみ、殺せ。その瞬間に、ほんのつかの間自由の国が訪れる。

カントは、偉大なり。カントは偉大なり。300年経った今も我々はカントの王国を作るために生きている。現代哲学はひとりのナポレオンにしかない。されど、ナポレオンは、ひとりの代替可能なあなたにしかない。クオリアは、あなただけの自由なのだ。

妄想せよ、妄想せよ。成長せよ、静聴せよ。瀬戸内寂聴せよ。

世界を救うことはやめた。究極的に自分を救う。そのあとで、周りを救う。それも恣意的に、ホームレスを勝手気ままに救う。救うといったって、気ままな時に、100円をあげるまでだ。自分には理解できない他者の思考があり、そうした絶対に分かり合えない人がいるということを胸に刻み、恣意的に、分かり合える人々とともに、生きていく。

今年度は内面的な制作の時間を増やしていく。外面的な社会彫刻アートを頑張った1年であったと思う。今年度は本を5冊出さないといけないから、頑張るんば!

なりたいものは何か?

人をどきどきわくわくさせる人に、なりたい。それだけはいつもブレていない。今んところ、もう、かれこれ、7年くらいはブレていない。

自由になりたい。これもまたブレていない。

なりたいものを受け止めることばがまだ社会の公器として存在していないのかも知れない。アーティストと名乗ってしまえば、一番楽なのかも知れないが、アーティストとも名乗りたくない。アーティストと呼ばれるとムズムズするが、それはそれでその感覚を忘れないアーティストになりたい。そのムズムズ感は、私もアーティストであるが、あなたもアーティストなんだけどなぁ、という私の確信が背後にあるからである。人間はみな、生まれながらに芸術家であり、その芸術家的才能を社会の中で発揮して、皆が生きている。芸術の網の目の中で私たちは日々、生きる。

私は、ことばを紡いで生きて生きたい。生き生きて神軍を貫きたい。

職業は百姓であるが、今年度は”文百姓”として生きていこうかしらん。

けんちゃんだんご

 

 

 

Culture You!あ~、世界ってほんと美(たの)しい

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