かもめのように
みなが憩う中、たった1匹、宙に舞うユリカモメがいました。
そう、あれは、わたしだ。
そう思っている方がほとんどなのだと思います。自分は特別だ。そう思っている時点で大抵の場合、特別でないことがほとんどです。
しかし、それは、特別の定義によります。その自我はまさに自分だけの特別なものですからまさに特別なわけですが、自分の特別性というのは、おそらく社会の中で代替がどれだけ利かないか、ということでわかるのかなと思います。
しかし、ここでよくよく考えてみれば、世界のあらゆる人々は代替がきくと言えばききますし、きかないと言えばききません。クリスティアーノ・ロナウドやヒカキンの代替は不可能ですが、それに代わる別の何かが必ず出てくるものです。
そう考えると、やはり、みな特別ではないのかもしれません。
…というようなことを、この1匹のユリカモメから考えさせられましたが、こういう思考は近代以降、そうですね、夏目漱石以降、個性的であることを求められ勘違いしてしまった鬱り味な人たちは同じ思考を辿っているのだと思います。
わたしは没個性的ですが、とりあえず埋没せずに鷗外的な諦念で日々を個性的に逸脱しながらアンガジュマンしていきたいと思います。
そう、あのユリカモメのように。
詠める、
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ユリカモメ
よく目を凝らして
見てみてね
ゴミに見えても
太陽背負う
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