Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

久々に侏儒のことばを読む


東京の真ん中で田中六十五を呑む

えてして日々、自分が何者かを考える。考えて、キュレーター、考えて、アーティスト、考えて、ビジネスマン、考えて愛妻家、考えて、一児の父となる。

自分が一定の割合で社会に影響を与えインフルエンサーになりたいと思うものは多い。

かくいう私もそうで、肥大化した自我は扱いを間違えると鬱になる。自身の卑小性を自覚して、そこから立ち上がるのがよろしいだろう。一度、自身の無教養さや何もない性を自覚するところから、文化人的なインフルエンサーの旅ははじまる。

ちなみに、すぐにインフルエンサーになりたい奴にかぎって全く努力をしていない。努力はしているというが聞けば、それは努力に入らない。抜きん出るやつは努力ということばをそもそも使わない。

努力ということばを使う時点で向いてないから、その道は諦めたほうがよろしい。

さて、私自身に射砲を向ける。自分が努力を用いない表現分野はやはり文であり、密室芸である。この二つの分野が私の才能と言えるのかもしれない。キュレーターもアーティストも、結局はこの文と酒から滲み出てきたものだ。今の私はこの支流を社会に合わせ糊塗を凌いでいる。源流で飯が食えたらなお幸せだ。

文章を書いて飯を食う。文で飯を食うといえばまず小説が浮かぶ。しかし、しょぼいラノベを読んで、その面白さに打ちひしがれる。ここで勝負するところではないなと思う。まっさらな状態からオタクの牙城に殴り込むでなく、これまで経験してきた制約の中に勝機があるのだ。

というわけで、小説は書く気はない。さらに楽な道を探る。そもそものスタンスが、楽して、金を儲けて、人からちやほやされたいと考えるのが私だ。上岡龍太郎的にはそうしたメンタリティーを時でゆく者をヤクザといい、芸人という。

最近ツイッター程度の短文を書いていてとても冴える自分を感じる。なんてヤクザで芸人なんだと思う

短文を書いて、糊塗をしのげたらそれはそれで最高だ、ということでこれまで短文の集積で飯を食べている奴がいるかな?探したら、すぐにいた、というか思い出した。そう芥川だ。

種々のことば、いい!!!!!

出だしから言い訳を書いている。エクスキューズの塊だ。いいですね、。弱き自分を徹底防衛、これを書いたのは私ではない。書いたものと私は別物だと言い切る。人格=書いたものではない、という盾を築いたのち、徹底した自己省察を矛で突きまくる。他者を自身を刺しまくる。あぁ、矛盾だ。そしてその矛盾はとても心地がいい。

その矛盾を言論空間が作るのには、あと20億光年かかるだろう。すべての人間が谷川俊太郎になるまで待ってはいられない。

自身の人格を防御しつつ、書きたい放題書く。

これを参考に余も短文を書き連ねることにしよう。

amazon出版に向け、執筆を開始する。応援よろしくお願いしますンゴ。

Culture You!あ~、世界ってほんと美(たの)しい

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