Renaissance Man

とにかく、あれこれやってみる。

反知性主義における美的リテラシーの可能性

夏の課題演習が終わりました。研究課題である反知性主義についての発表です。

PDFはこちらから→http://renaissanceman.jp/iccchiiiiii/aestheticliteracy.pdf

そこで発表した原稿をあげておきます。ご意見・ご感想あればぜひコメントに書き込みいただければ幸いです。

ゼミの際にいただいた反省点・改善点は末尾に付しておきます。

それでは、どうぞご覧ください。(^-^)

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2016年度 美学課題演習 一ノ瀬健太|2016.09.16

反知性主義における美的リテラシーの可能性

研究要旨

 「感情的にならず、理性的に考えること」とは対象領域における文脈を踏まえた批判的思考のことであり、自身の感情をメタに見つめる美的理性をもってはじめて可能となる。美的リテラシーとは現代という時代の要請に応じた美学と教育学・心理学を統合した良き市民のための美学教育を意味する。美学芸術学分野における批判的思考の能力であり、科学リテラシーやメディアリテラシーと同等またはそれ以上に重要である。美的リテラシーは他のリテラシーを包越するメタリテラシーとして理性的に考える際に必要とされる心のはたらきを担う。この心のはたらきと能力は開かれた議論が困難な者に対してメタに自身の閉鎖性を喚起させる可能性を多岐に秘める。自身の感情をメタに見つめ、常に自身に懐疑的であろうとする美的理性の運用能力は反知性主義に抗する理論的支柱となる。

研究目的

 あらゆる分野に見受けられる反知性主義を見つめ直し意見の対立する論者同士、対話が可能となるような場を生み出す手法として美的リテラシーが極めて有効であるという着想を得た。学際的メディア論の立場からは科学・技術リテラシー、メディア・リテラシー等(楠見・道田、p.ⅲ、図1参照)、さまざまな実践向けリテラシーの向上が市民に求められている。しかし、美術・芸術に関するリテラシーに関しては、リテラシー概念の出自的領域である教育学・心理学の分野からはその重要性が言及される機会は管見の限り少ない。本発表では美学芸術学に関するリテラシーを美的リテラシーと定義し、反知性主義におけるその重要性を指摘する。多数ある美的リテラシーの社会的意義のうち、反知性主義における有効的側面を対象とする。

発表の流れ

1.反知性主義

2.美的リテラシー

3.批判的思考

4.美的理性

5.美的リテラシーの可能性

6.まとめ&今後の課題

凡例:一般的な凡例に準拠する。今回は「」内においても『』を用いず「」とし引用を行った。太線や下線は特別なことがない限りはすべて筆者が引いたものである。

脚注1.意外かもしれないが看護学の分野からも批判的思考における研究は多い。教育学・哲学・心理学領域の統合としての批判的思考がなされてきた背景がある。「「考える」とは異なり、批判的思考は「目的と制御」を持つ良質の考え方であることと看護過程の類似性ゆえ、継続して活用されてきた。」(楠見・道田、p.170.)ためである。「批判的思考の定義「根拠的そして内省的な思考であり、信念や行動の決定をする」を見ると、根拠的思考は看護に必要な根拠・エビデンスに基づく問題解決能力、内省的思考はケア介入前後の内省力、信念と行動のための意思決定は看護介入・実践の判断へとつながり、看護実践プロセスそのものといえる。また、構成要素とプロセスを具体的にみると、情報の明確化、情報の分析(推論の基盤の検討、推論)、行動決定は看護過程の流れと似て、看護活動における推論と問題解決のプロセスである。」(楠見・道田、pp.169~170.)。

図1(楠見・道田、p.ⅲ、)

 本研究はリテラシーは能力であるため鍛えることが可能であるということ、そして先行するリテラシー概念を取り入れるかたちで美学という学の繁栄のために哲学的美学と教育学とが交わる学際領域における美的リテラシーを市民に根付かせる意味も含め、美的リテラシーという言葉を積極的に使用していきたい。

1.反知性主義

 近年、反知性主義ということばを見る機会が増えている。日本においては福島第一原子力発電所事故や歴史修正主義などの政治的分野で数多く見受けられる。日本のみならず海外、とりわけアメリカ大統領選挙に見られるドナルド・トランプの躍進やEUにおけるイギリスの脱退などもその例としてあげられる。元外務省主任分析官で作家の佐藤優は反知性主義を「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」(森本、p.4.)と定義しているが、本研究は佐藤が意味する定義を軸として採用する。つまり、各メディアを通じて過った報道、デマや疑似科情報を批判的思考を経ずに受容し、それに基づいて発言・行動してしまう知的怠慢を意味する。反知性主義とはアメリカ発の概念であり、本来は権力と知識の結びつきに対抗するポジティブな意味を持つ概念からスタートした。ホフスタッターの言葉を借りれば反知性主義とは、「知的な生き方およびそれを代表するとされる人々にたいする憤りと疑惑」(ホフスタッター、p.6.)であり「そのような生き方の価値をつねに矮小化しようとする傾向」(同上)と定義される。ホフスタッターはさらに「反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育あるものにとって、最も有効な敵は中途半端な教育を受けた人々であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深く関わっている人々であり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。」(同書、p.19.)と語り、その当該分野における知識に秀でていようとも批判的思考が困難あるいは開かれた議論を形成することができない者であれば、反知性主義者であるとみなす。身体論研究者の内田の言葉を借りれば、「知識人自身がしばしば最悪の反知性主義者としてふるまう(内田、p.19.)」ということである。内田はバルトを引用しながら「バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言う事をとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。(中略)そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り変えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。」(内田、p.20.)と語り、知的柔軟性・知的可塑性を知性の本来の姿としてとらえている。

 本研究は先に言及した佐藤の定義を軸に内田の考察も交えながら、反知性主義を「批判的思考を経ずに自身にとって都合のいい情報のみを受容し、それに基づいて発言・行動してしまう対話の可能性が閉ざされた知的怠慢な態度」と定義し、考察を進めていく。

2.美的リテラシー

 美的リテラシーとは、端的に言えば、広義の美学すなわち美学芸術学におけるトピックに対して批判的思考を通じ、情報を読み解く能力のことである。美学的テーマに対し理性的に物事を考察する際の心的態度、すなわち省察も含む。近年、教育学・心理学の分野からリテラシーという概念が提起され多くの諸学科に適用されつつある。リテラシーということばが学術書のみならず一般書においてもかなり見受けられるようになるなか(楠見・道田、p.2.)、とりわけ東日本大震災の際に生じた福島第一原発事故によって科学・技術リテラシーの市民間での涵養の重要性が強く主張されている。震災の中で多数見受けられたデマや風評被害、疑似科学を批判的に読み解こうとするメディア・リテラシーなど、総合的市民リテラシー向上のために多くの分野でリテラシーが要請されている現状がある(同書、ⅲ)

 リテラシーとは「批判的思考を用いて情報を読み解く能力」(同書、ⅰ)のことである。そもそもリテラシーとは読み書きを意味し、識字率として教育の普及度合を調査する概念として用いられている。近年は情報を読み解くのみならず、情報を発信する段階まで含めるものもある(水越、p.164)。

 「美的」とは現代に生きるわれわれを想定した場合、美学芸術学という広義の美学という意味を採用するのが妥当である。美的リテラシーとは、美学芸術学の分野における批判的思考の運用能力である。われわれ美学研究者が、認識論や存在論、美術批評などの美学的テーマにおいて普段から意識せず行っている美学的考察の能力とほぼ同義である。

 美的リテラシーとは研究のはじまったばかりの概念である。グーグルスコラにおいて当該単語を検索したところ(本年9月15日付)4件がヒットしたのみで、そのうちのすべてが美術における教育学の分野からの論文であった。美的教育やアートリテラシーといったことばも先行して存在している。しかし、いずれも芸術鑑賞や人格形成に主軸を置いている。そのため本研究では、それのみにとどまらない美学芸術学の領域を扱う概念として美的リテラシーということばを提起したい。今回、発表者があつかう主題の美学的・社会的意義は反知性主義下における美的リテラシーの有効性であり、とりわけ実践的な価値判断の方法論とそれに付随する議論の場の創出にある。なお美的リテラシーがあつかう体系的領域の範疇に関しては次の研究課題に譲る。

脚注2.グーグル検索で42件、グーグルスコラで4件のヒットをした。「科学リテラシー」は40,900件ヒット、スコラでも889件ヒットである。

3.批判的思考

 リテラシーに欠かせないものとして批判的思考がある。批判的思考とは「証拠に基づいて論理的に考えたり、自分の考えが正しいかどうかを振り返り、立ち止まって考えたりすること」(同書、p.2.)であり、批判的思考の研究者である道田は先行研究を踏まえた上で平易に「見かけに惑わされず多面的にとらえて、本質を見抜くこと」(道田 2001a、p.124.)と定義する。ことばは異なれど批判的思考という概念自体は認識論の観点から古代ギリシア以来の伝統を有する。21世紀の現代におけるまで、正しく(よく)物事を把握し、正しく(よく)評価し、正しく(よく)行動するための知の技法として膨大な知識を蓄積させてきた。

 そもそも批判(criticism)、批判的(critical)という概念は17世紀には他人の欠点をあげつらうことや文学・芸術の批評を意味していた。しかし、批判ということばは「注意深い判断」や「鋭い観察に基づく判断」をも意味していた。そこから派生するかたちで、主に聖書を中心とする古典のテキストを精査に吟味し、復元することがテキスト批判と呼ばれるようになった(楠見・道田、p.12.)。この「注意深く吟味して正しいものをよりわける」という意味合いをさらに一般化したのがカントであり、理性の限界を踏まえ、理性的に物事の判断を下す思考プロセスを理性の法廷、すなわち純粋理性批判の下で展開した。

 「批判的思考」ということばに関しては近代、ともすれば現代に近い時期にその出自を見て取ることができる。以下では、とりわけ批判的思考研究において著名な学者に言及しながら、批判的思考の先行研究を概観する。

 「批判的思考」について言及している最も古い論文はデューイ(『思考の方法』1910年)に見られ、多くの研究者の間で合意が取れている。そこでは批判的思考を反省的思考と形容し、留保された判断であると述べられている(楠見・道田p.4)。続いてデューイの批判的思考は相対主義を乗り越えることができないと批判したエニスは問題解決の論理学的基準を批判的思考に求めた。エニスは1962年の論文にて批判的思考を「命題を正しく評価すること」と定義し、論理学的12項目の技能リストを設けた。マクペックは1981年の論文にて批判的思考を「反省的な懐疑をもってある活動に携わる態度と技能」と定義し、批判的思考の技能だけでなく思考態度の重要性を指摘した。マクペックは批判的思考は特定の主題領域を学ぶなかで学ぶべきという考えから、エニスのような一般的な技能に関わるリストを設けていない。この批判を受けてエニスは1985年の論文にて心的態度も視野に入れ「何を信じ何を行うかの決定に焦点を当てた合理的で反省的な思考」とその定義を変更している。哲学者ポールはエニスを名指しで批判してはいないものの、エニスの技能的な項目だけでは、詭弁としての批判的思考も可能であり、その批判的思考を弱い意味の批判的思考として1994年の論文にて批判している。ポールは、「自分の視点もあくまでも一つの視点に過ぎないことに気づく」という知的謙遜や「他者の視点を想像し理解しようとする」知的共感などといった公正な思考態度に言及し、批判的思考を「自分の思考をより良く、より明確に、より正確に、より防衛力のあるものにしようとするときの、あなたの思考についての思考」(同書、p.6.)と定義している。哲学者ファシオンは、デルファイ法によるプロジェクトを行い、批判的思考は「意図的で自己制御的な判断」とまとめられた。技能次元と傾向性(性格)次元の両方が含まれ、認知的な技能としては(1)解釈(2)分析(3)評価(4)推論(5)説明(6)自己制御が含まれることにおおむね合意がなされた(同上)。

脚注3.(1)命題の意味を把握する(2)推論の過程にあいまいな部分がないか判断する。(3)命題間に矛盾がないか判断する。(4)結論が必然的に導き出されるか判断する。(5)命題が十分に特定(specific)されているか判断する。(6)命題は原則をきちんと適用したものか判断する。(7)観察結果が信頼できるものか判断する。(8)帰納による結論はちゃんとしたものか判断する。(9)問題が明らかになっているか判断する。(10)仮定は何か判断する。(11)定義は適切か判断する(12)専門家の主張は受け入れ可能か判断する。(楠見・道田、pp.4~5.)

脚注4.デルファイ法とは、特定のトピックについて複数の専門家にアンケートを行い、その結果を取りまとめて匿名で専門家にフィードバックしてさらに意見を求める、という手続きを複数回繰り返すことで、意見の集約を行う方法。

 以上、上記から批判的思考の先行研究の概観と定義の多様性について言及した。しかしながら、いずれの定義においても関心は合理性と反省性にあることは共通しており、合理性は技能であり、反省性とは態度である。上記に言及した各研究者のマッピング図において道田の図が端的に技能派・反省派をまとめている。

図2「批判的思考の大三角形」(楠見・道田、p.3.)

図2「批判的思考の諸概念」(楠見・道田、p.7.)

 これまでの先行研究と道田の図を参考にし、本研究では批判的思考を「合理・論理と反省・内省と懐疑・批判の三極をメタに循環(ループ)し、その円環の中で最も正しく(よい)判断を行うプロセス」と定義したい。

 ここで一点注意しておきたいのは、哲学・美学と教育学の分野で批判概念の意味が異なることだ。それは他の分野においても同様である。哲学者の伊勢田は「日常生活においても、あるいは科学的思考においても、この世界が存在しないかもしれないという懐疑は無視してかまわないし、むしろ無視するべきである。これは、思考法そのものの違いというより文脈の違いだとみなすことができる。」(同書、p.12.)と語る。哲学的批判的思考と教育学的批判的思考の共通点と差異に配慮すること、ならびに文脈をメタに踏まえた上で批判的思考を使い分けることは重要なことであり、諸学科の批判的思考の相互照射はメタ的リテラシー、言うなればリテラシー・リテラシーの理解を深めることにもつながる。

脚注5.たとえば明日雨は降るか?という命題に対して、日常的には西の空を見るか、または明日の天気予報を調べれば十分である。科学的には気象予報を調べ、大気の状態をシミュレーションするだろう。哲学的には明日とは何か、またそもそも明日は来るか?雨とは何か?という議論を打ち立てることからはじめるかもしれない。同じ命題においても文脈が異なれば自ずと認識の形式が変わることの一例である。

4.美的理性

 美的リテラシーが新しいことばであることは先に確認した。しかし美的リテラシーという概念は新しくとも、それに類するまたは準ずる、ともすれば同義とすら思われる概念が先行研究にすでにある。木幡が形容した美的理性がそれである。

 美的リテラシーとはこの美的理性を持って考察する態度に他ならない。または美的理性がその運用能力についても含意していれば、美的理性そのものといっても過言ではない。本研究は木幡の美的理性と批判的思考を組み合わせ美的リテラシーという当世風の名称に改めてはどうかという提案を含む。そのため美的理性、またはそれに代替可能なことば、たとえば美学リテラシー、アートリテラシー、芸術的リテラシーなどの方が人口に膾炙される可能性、市民にあまねく受容される可能性が高ければそちらを採用したい。

 さて、これから引用する節にわたって木幡はしばしば美的理性について、またそれに準ずる「美学が要請する理性」、「包越的理性」などの理性について言及している。先に要約するかたちで佐々木のことばを借りれば美的理性とは「われわれが美や芸術に触れ、疑問を抱いたり、確信を持ったり、困惑したりする、そこに反省を加え、認識を深めてゆく、ということ」(佐々木、p.8.)となる。大まかな理解であれば佐々木の定義でよいかもしれない。しかし佐々木の定義は詳細まで語りえてはいないし、木幡は一度も「確信を持ったり、困惑したり」ということばを用いていないため、この要約をママ用いては木幡の美的理性をとらえることは難しい。そのため佐々木の定義を踏まえた上で木幡の言説から敷衍し、美的理性の働きを端的にまとめる。また理性について述べる際に、理性という言葉を使うトートロジーを避けるため、心のはたらきや仕組みなどを用い、可能な限り平易かつ明解な叙述を行う。

脚注6.美的理性は趣味判断の際に用いられる理性としてことばが使用されることもあるが、本発表では美的リテラシーと親和性が高い木幡の定義における美的理性を採用する。なお、当然のことながら趣味判断は美的リテラシーの範疇に含まれる。

 木幡は美的理性を明確な定義として述べてはいないが、自身の著書である『美と芸術の論理』中の一節(pp.26~29.)で、美学の学的性格について言及しながら美的理性について述べている。以下は、やや長いが美的理性、またはそれに準ずることばを節内全体にわたって述べているため、正確をきす必要から木幡の言説をママ一節抜き出し、意味段落ごとに引用し、適宜発表者のコメントを入れ、木幡が意図した美的理性の意味を考察する。美的理性を太字、美的理性またそれに準ずることばの説明に重要と思われる部分には下線を引いた。以下は引用である。

第六節 美学の学的性格

 前章までわれわれが学び得たのは、美学の対象と方法、美学・芸術学の広狭さまざまな意味、美学的諸学科の体系的組織、さらに美学全体の内部を貫徹している二元的対立関係ないし相関関係などについての大雑把な知識である。

 しかし美学がそれ自体いかにして学問たりうるか。学としての資格(wissenschaftliche Dignität)を要求しうるか、という最高、最奥の疑問はそれでもまだ十分明白になっていない。それゆえこの章ではなお若干の紙幅を割いて、できるかぎり、美学そのものの学的根拠を説明しておきたいと思う。しかも、このように自己自身の成立の可能性を証明するのは、一般に哲学的諸学科の義務でもあるから、哲学的美学もこのしごとを避けて通るわけにはいかないのである。

・上記段落にては美的理性に関することは述べられていない。

美学と理性

 私見によれば、美学は美的理性の自己省察の記録である。さまざまな自然美や多様な芸術作品の根拠においてそれらを成立させている、いわば美的理性がその自己同一性を証明して行く過程を書き記す作業である。美学の学的根拠はこのことを措いて他にもとめられない。

 もし美が、理性から厳しく区別された意味での感覚や欲求によってのみ実現されるものなら、美の成立はひとえに非合理的根拠によることになってしまうから、およそ理性が介入する余地はない。けれども美学は単なる美的経験ではなく、紛れもない学問なのだから、やはり理性の営みであって、その理性のおかげで、美はまさに美としての資格を獲得できるのである。

 さて、美と美学のあいだには、非理性的なものと理性、非合理と合理、というあい容れない対立ないし矛盾が生じることになる。しかもこの矛盾はときにはまったく埋めがたい溝渠のごとくにすら感じられるだろう。

 この溝渠を埋める作業はすでに十八世紀の啓蒙主義哲学にとってすこぶる重要な課題であった。かのバウムガルテンにとっては、「感性的認識」(cognate sensitiva)は「知性的認識」と同様な論理性の支配下に置かれるものであった。そして、いわゆる下位認識能力(facultas cognoscitiva inferior)の論理学を独立させたとき、それが「美学」と呼ばれたのである。このとき下位認識能力として、さまざまなはたらきを示す感性は、「理性類似者」(analogon rationis)なのである。バウムガルテンの「美学」はこの理性類似者たるもろもろの感性の学術なのである。-しかしこのような啓蒙主義的・合理主義的見解は、いわば感性と理性とを同じ平面に並べて、両者の境界を不明確でおぼろげなものにしてしまった上で、相互浸透をはかったものだと言える。もともと美的理性-とわれわれが呼んだもの-はこのように感性と対等の立場で拮抗したり、融合したりすることを自己の使命とするのであろうか。美学が要請する理性は、非合理的対象を徒に分解したり、破摧したりするためのものではない。非合理的なものを踏みにじるのではなく、むしろそれを包む機能として要請されなければならない。いわば包越的理性である。この包越的理性は、美の実現に関与する一切の感性的活動をそのまま包み込み、しかもその根拠についての反省を可能にする。それゆえ美的理性は、また美的主体の根源について、われわれ自身の自覚を深めるはたらきでなければならない。

・美的理性のはたらきにより、美的理性のはたらきを美的理性によって記述することで、美学は学になる。つまり、美学とは美的理性のはたらきを記述することである。

・自然物・人工物を問わず美を成立させている(心の)はたらきをメタに見つめ認識する(心の)はたらきを有する。

・美を成立させている諸要素間の対立・複合といった諸々の構造をメタにあつかうはたらきを有し、それぞれ美を成立させる諸要素を総合的・包括的に扱うことができる。

・美を感じる主体がメタに美を感じる主体ならびに美を成立させている原理とを認識し、その美を成立させている主体の根源について私たちの認識を深めるはたらきがある。

多様な現象の根底に存在するもの

 美や芸術の現象形態はまことに多様である。美しいもの、美的対象は数限りなく、夜空の星に例えられよう。だが表面上いかに雑多な差異を示していても、一歩踏み込んで熟考すれば、それら無数の現象形態に共通した法則や原理が働いているのに気づくに違いない。後章で述べる、美や芸術の書類型はまさしくこのような原理の近くから獲得された成果なのである。ただしこのような原理はかならずしも唯一無二ではない。原理の世界もまた深浅の層位に分節していると言ってもよい。これらの一切をあるがままに露呈させ、しかもそれを究極的な統一性において把握するのが、美的理性に課せられた仕事なのである。美的理性は、このようにして、美や芸術の現象世界に体系的に統一性を約束するものとして要請されなければならない。

 ところで美や芸術の現象形態はまた歴史的に変化する。しばしもやまずに流転する。美的理性はただ単に美や芸術の現象の背後に存在する原理の世界を露呈してみせるだけではなく、この原理の実在化・客観化の過程をも説明してみせなければならない。これが美的理性に課せられた第二のしごとである。かくのごとく美的理性は美感や芸術の歴史を貫徹する最高の理法でなければならない。このようにみるかぎりにおいて、美学はやはり芸術史の研究の究極にもひらけてくる学問なのである。

・美の原理は多様であるが美的理性は統一性のもと体系的に美が美である原理を把握しなければならない。それが美的理性の第一の仕事である。

・変わりゆく美のかたちを不変の美の理論をもってその変容する過程を現実にあるものとして客観化せねばならない。これが美的理性の第二の仕事である。

・美的理性があってこそ美術史も可能となる。

美学における哲学的精神

 ところで前述のごとき「美的理性の自己省察」は、哲学が本来その使命とするものに背いてはいない。なぜなら古代ギリシアのデルポイのアポロン神殿の柱に掲げられたことば「汝自身を知れ」(γνῶθι σεαυτόν)を哲学の最高命題と解したソクラテス(Sokrates,469-399 BC)やその哲学的信条を継承しているローマ帝政期のストア派のエピクテトス(Epiktetos, c. 60-c. 138)-かれには「自分で自分自身を研究すること」(αύτη  αύτην  Θεωρητική)ということばがある-、またソクラテスの思想とその表白態度を「無知の知」(ないし「知ある無知」 docta ignorantia)という概念で捉えなおして自己の哲学の中枢にすえたニコラウス・クザヌス(Nicolaus Cusanus, 1401-1464)らは、すべての理性的自己省察を哲学の課題とみなしているからである。美学もまた美的理性の自己省察であるかぎり、最高の自覚の道を歩む哲学の一部、いな哲学そのものであることを否定することはできない。

 さらにことばを換えて言うなら、美学は人間存在の一部ないし一側面を究明する学問であって、人間存在の全体を解明しようと企てる哲学の営為 (原文ママ)に関わっている。美学が照射した人間存在と超人間的存在ないし絶対者との関係を究極的に研究するのは哲学そのものの課題であるが、古来、美学も間接的に、あるいは一定の制限のもとに、この課題についての発言権を保っているといってよい。

・美学は美的理性が美的理性について自己言及する限り哲学そのものであり、最高の自覚の道、すなわち自己を知ることそのものである。

 上記から端的に美的理性を定義すれば、美的理性とは「美的なものをあつかう際にメタな視点から考察できる立場に「自己」を立脚させてくれることが可能な(脳・心的)機能(=はたらき)であり、かつそのはたらきに対して自己言及的自己省察を加え物語ることが可能な(脳・心)機能(=はたらき)」であると言える。そのため先に言及した佐々木の要約は、字数の制限があるとはいえ、やや正確さに欠けるという点が指摘できる。

 美的理性が美的なものをあつかい、それをメタに考察するのであれば美的リテラシーのリテラシー部分に相当する「批判的思考を用いて情報を読み解く能力」は美的理性の中にすでに内在されていると考えることもできる。しかし、木幡はここでははたらきのみに述べているのみで、その能力に関しては言及していない。そのため、これまでの考察を参考にした上で、美的理性と美的リテラシーの関係に言及するならば、美的なものについて扱う際の理性を美的理性とし、その理性をもって情報を読み解く能力のことを美的リテラシーと定義する。

脚注7.包越ということばがヤスパースを想起させる。木幡がヤスパースを念頭にこの包越ということばを用いているならば、主観と客観の対立をメタに見る存在としての包越者という意味、また哲学的なアポリアである「神概念」の意味を込めたと考えられる。いずれにせよ木幡なりのレトリックであろう。

5.美的リテラシーの役割

 美的リテラシーは反知性主義において他のリテラシー以上に社会的意義を有する。美的リテラシーが反知性主義の改善に貢献できる点は少なくとも2点あげられる

1.自己の感情をメタに認識することで、自らの好悪の感情を優先する知的怠慢な態度を牽制することができる。

2.コギト=ク・セ・ジュ的理性を用いることで、知的謙遜ならびに知的共感を維持しながら他者に開かれた対話が可能となる。

(1)についてである。美的リテラシーを向上させることは、自らが感じている感情をメタに見据える訓練を含む。これは意見の異なる他者との対話を行う上で極めて重要なはたらきである。怒りに満ちた状態の他者と建設的な議論を構築することは難しい。「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」において優先されるのはまず自らの好悪の感情である。自らが感じている感情をメタに見つめることなくして、他者との建設的な開かれた対話は構築することはできない。デュボスは価値判断が「感情」によるべきことを強調しているが(佐々木、p.7.)、これはまさに反知性主義的であり望ましいものではない。自らの怒りを冷静に踏まえた上で、かつそれでもなお怒りを秘めながらも、批判的思考を展開することが重要なのである。

 そして重要なことであるが感情や情動は批判的思考に際して完全に排除されるべきものではない。むしろ必要とされるものである。なぜなら感情は批判的思考の原動力となるためである。自らの感情をメタに見つめた上で批判的思考を駆動させる動力源して理性と共存することが望ましい(楠見・道田、pp.60~63)。

(2)についてである。コギトとはデカルトが徹底した懐疑のもとに得た精華であり、ク・セ・ジュはモンテーニュが辿り着いた絶対的懐疑主義の境地である。アポロン神殿の「汝自身を知れ」やクザヌスの「知ある無知」に見受けられる哲学の最高の道である自己をメタに解する心のはたらきは、常に自らの思い込みに対して懐疑的であり、それは時に自身から他者へと向かい謙遜・共感の域にすら達する。コギト・ク・セ・ジュ的理性とは哲学(=美学)の王道たる心のはたらきを意味する。佐々木は、モンテーニュのク・セ・ジュに関して「傑出した読書家であり旅行家であったかれ(=モンテーニュ)は、経験の地平を広げ、ものの考え方を相対化する。すなわち、自分の馴染んでいる生き方が唯一の正しいものであると見る自然な偏見を、修正してゆく。またボルドー市長として、宗教的内戦の激動の時代を生きたかれは、その渦中にあって相対的世界観を実践する。そしてその結果到達した絶対的懐疑主義の境地は、有名な「わたしは何を知っているか Que sais-je?」という標語に現されている。」(佐々木p.7.)とク・セ・ジュの持つ開かれた他者理解の可能性について語っている。他にも当のモンテーニュは以下のように語っていると、佐々木は紹介する。

「新大陸の国民についてわたしが聴いたところによると、そこには野蛮なものは何もないと思う。もっとも、誰でも自分の習慣にないものを野蛮と呼ぶなら話は別である。まったく、われわれは自分たちが住んでいる国の考え方や習慣の実例と観念以外には真理と理性の標準を持たないように思われる。」(『エセー』第一巻第三一章「食人種について」、一五二頁)」(同書、p.10.)

「われわれが理解しえないものを軽蔑するのは危険な、重大な思い上がりであると同時に、そこには不合理な軽率も含まれている(同、第二七章「われわれの能力で真偽をはかるのは愚かである」、一三五頁)」(同上)

 他者を軽蔑するのは容易であり、楽をして狭隘な己のみの世界で優越感に浸りたいことは理解できる。しかしながら、そこに望まれぬ不和が生まれ、それがいつしか憎しみとなり増大していく危険性をはらんでいるのならば解消せねばならない。反知性主義は大規模な政治・経済のみに限られた話ではない。反知性主義は私たちの日常の不和、たとえば夫婦喧嘩といったレベルにも数多見受けられる。開かれた対話のためにも私たちは自らの美的リテラシーを陶冶する必要がある。コギト・ク・セ・ジュ的理性をはたらかせながら、たえず自身を異化し続け、常に他者に開かれた批判的思考を行う態度が今の時代に強く求められている。ここにこそ現代における美学の社会的意義があるはずだ。

 初期の批判的思考の研究者であるグレイサーは、議会制民主主義における良き市民に必要な能力として批判的思考を挙げ、その育成が民主主義の発展に貢献すると論じている(楠見・道田、p.2.)。人工知能やロボティクスの発展から、近い将来私たちの生きる社会は古代ギリシア・ローマに回帰する。ロボットが労働を担う奴隷制2.0におけるネット主導の直接民主制が現実になった場合においても、私たちの認知機構は2500年前とそれほど変わっていないはずだ。社会をより良いものにするために反知性主義に抗するかたちで私たちは美的リテラシーを陶冶せねばならない。

脚注8.今回は割愛するが芸術作品に対する受容者の能動的解釈を企図する意図主義を意見の対立する他者の心にも適用可能ではないだろうか。これも美的リテラシーが他者理解を促進するはたらきのひとつであろう。

6.まとめ&今後の課題

 美的リテラシーの研究はまだ始まったばかりであり、今後このことばの定着と内容の充実は同時並行的に進めていかねばならない。本研究は、美学的出自から美的な対象をあつかう際の理性である美的理性と教育学・心理学的出自から批判的思考の能力であるリテラシー概念との双方を統合し、現代社会の要請に合わせるかたちで美的リテラシーの早急かつ実用的な社会的意義を考察した。

今後の課題としては例として以下が挙げられる。

①今回の発表では割愛した美的リテラシーが担う範疇を網羅的・体系的に整備し、その範疇がどのように実践的に社会に役立つかを考察する。たとえば芸術作品に対して受容者が能動的解釈を行う意図主義を意見の対立する他者の心にも適用することの可能性などを考察したい。

②批判的思考を所与に阻む種族のイドラを進化心理学的観点から整理しタブララサでない人間を認めた上での批判的思考の助けとなる研究を行う。たとえば脳機能的に理性によって固定観念を除去することは不可能な場合も指摘されていることなど(ラマチャンドラン、pp.222~223.)を視野に入れる。

③各分野間のリテラシーの相互照射が批判的思考に重要であるため教養教育の必要性を訴えていく(楠見・道田、p.71.)

④美的リテラシーを広く社会に根付かせていくため一般市民に届く形式での発表を視野に入れ研究を続けていく。美学会、Youtube、twitter、Facebook、ブログなどSNSを十分に活用し、メディア表現者として良き市民が連帯できるような実践的な研究を行う。

脚注10.実際、被調査者になった学生に調査終了後、ここで扱った論理の意味を簡単に説明したところ、理解できないものは一人もいなかった。つまり、大学生にとっては、それほど難しい論理ではなかったと思われる。しかし批判的な思考態度や能力があまり見られなかったということは,証拠から論理的に結論を出すための論理や思考法が、大学における専門領域と密接不可分に結びついた限定的な形で学ばれており、他の分野や日常の問題に応用するのが難しかったのかもしれない。(中略)それが日常的な情報の取捨選択に般化しにくいことは、本研究で見てきた通りである。したがって その論理を、領域を離れて一般化・抽象化したり、学問領域で扱う対象だけではなく日常の問題に適用することで、大学で身につけた思考力が学校外・学問領域外の問題解決に役に立つのではないだろうか。 (道田 2001b、p.47.)

参考文献

内田樹編『日本の反知性主義』晶文社、2015年

楠見孝・道田泰司編『批判的思考-21世紀を生き抜くリテラシーの基盤』新曜社、2015年

『現代思想 2015年2月号【特集】反知性主義と向き合う』青土社、2015年

佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、2008年

スティーブン・トゥールミン『議論の技法 トゥールミンモデルの原点』戸田山和久・福澤一吉訳、スティーブン・トゥールミン『理性への回帰』藤村龍雄訳、法政大学出版局、2009年

東京図書株式会社、2011年

田中美知太郎『テアイテトス』岩波文庫、2014年

V・S・ラマチャンドラン『脳の中の幽霊』角川文庫、2011年

水越伸『21世紀メディア論』放送大学教育振興会、2014年

吉見俊哉『文系学部廃止の衝撃』集英社、2016年

リチャード・ホフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳、みすず書房、2003年

ロバート・ステッカー『分析美学入門』森功次訳、勁草書房、2013年

Wikipedia「群盲象を評す」(2016年9月10日付)

https://web.archive.org/web/20160904035424/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E7%9B%B2%E8%B1%A1%E3%82%92%E8%A9%95%E3%81%99

道田泰司『批判的思考の諸概念:人はそれを何だと考えているか』、琉球大学教育学部紀要(59): 109-127、2001年a、http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/524/1/michita_y08.pdf

道田泰司『日常的題材に対する大学生の批判的思考:態度と能力の学年差と専攻差』教育心理学研究(pp.41~49.)、日本教育心理学会、2001年

道田泰司『批判的思考におけるsoft heartの重要性』、琉球大学教育学部紀要(60): 161-170、2002年、http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/123456789/525/1/michita_y09.pdf

THE CRITICAL THINKING COMMUNITY 「Definig Critical Thinking」

http://www.criticalthinking.org/pages/defining-critical-thinking/766

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いただいた意見・指摘など

2)発表の際に賜った意見や批判および、それに対する所感

ⅰ)美的リテラシーという際に、美的ということばを使う意味があまり感じられない。

→人文科学全般の予算削減の中で美学のプレゼンスを増すというのも美学徒として重要なことである。昨今リテラシー概念が一般社会に浸透しだしてきた現状がある。美学もメディアリテラシー、科学リテラシーに並ぶアートリテラシーとして総合的市民リテラシーに多大なる貢献ができるはずであり、積極的にになっていかなければならない。古代ギリシア・ローマで語られた美学(哲学)の真摯な遊戯的批判は現在のSNS全盛の時代だからこそ極めて重要な視座をもたらす。美的リテラシーということばでなくても、美学リテラシーでも哲学リテラシーでも、アートリテラシーでもよいとは、本文中でも述べていることだが、口頭での説明でもやはり美的リテラシーということばを使う意味に紙幅と時間を割いてもよかったかもしれない。

ことばは力を持つため、ことばを先行させることで概念を普及させる手法もある。美学リテラシー、またはアートリテラシーということばが現状妥当であろう。アートリテラシーはすでに鑑賞教育で用いられはじめているため、それを使用する際には注意が必要である。私が提唱するアートリテラシー概念は包括的で抽象的であるため、具体的な鑑賞アートリテラシーと共存の仕方を吟味しなければならない。鑑賞教育としてのアートリテラシーを普及させたのち、後追いで、アートリテラシーはそうした鑑賞のみの概念ではない、という主張を展開していくのもひとつの作戦である。

ⅱ)木幡順三の美的理性を持ってくる意味が弱い。

美的理性ではなく、哲学的理性または哲学的と一言で言えば終わる問題なのではないか、という指摘があった。私が美学ということばのドグマに縛られてしまったのかもしれない。しかし、発表で述べたように哲学とは美学そのものである、という木幡の考えに則れば無理な考えではない。おそらく、ここでの弱いとは、私的言語的な弱さであり客観的に美的理性を用いることが社会的・効率的・学問的に貢献できる蓋然性が低いという指摘なのだろう。しかし、それも上記ⅰ)の理由から理性をリテラシーと柔軟に言い換えて社会に普及させるための狙いがある。そのため、この点に関してもⅰ)の説明にリソースの多くを費やす必要があっただろう。

ⅲ)哲学的美学の問題を日常的美学の問題に応用できるか

できる。あえてせずとも、そのメタに自己を見つめている際のメンタルセット(脳のモード)にはアカデミズムも日常の違いもない。扱う対象の文脈の違いは考慮せねばならない。上記の問題は、理性的に考えることと、美学的に考えることとの、どこに差異があるのか、という命題にシフトする。ⅰ)ⅱ)とも連動している問題であるが、哲学的に考えることは理性的であるのか、もしそうだとすれば、木幡の哲学に則れば、哲学的とは美的理性をもって考えることなので、ほぼ同一な内容ではあるが、微妙な差異を含むため、それを吟味する複雑な場合分け作業が必要である。それはまた次回以降の課題とする。

近況報告

我が師である松尾先生がバウムガルテンの美学が新しく文庫になりました。世界的に美学の幕開けとなる記念碑的書物であります。ぜひご高覧くださいね〜!とても勉強になります。松尾大、学者としての集大成の書であります。

けんちゃん団子

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