甲子園=平家物語
東洋経済が報じた、高校野球の実態 1
上記の記事がフェイスブックで流れてきた。
同志社大の経済学の教授で学長も務めたこともある八田英二さんが新しく高野連の七代目会長に就任し、そのインタビュー記事を紹介している記事だ。上記ブログにては執筆者の価値観も付与され、八田会長の考えを強く否定した意見が述べられている。
以下は、ブログ記事からの抜粋である。筆者が東洋経済を確認したわけではない。
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「東」炎天下でのプレーは配慮すべきではないか?
(八田)ナイターにすると応援団の費用がかさむ。ドーム球場に移ることは歴史的にできない。野球はサッカーなどに比べて運動量が少ないので厳しくない。むしろ練習の方が問題。
「東」過剰な投球数の問題は?
球数制限をすると追い込まれるまで打たないような戦略が生まれる。プロに行くなら投げすぎは心配だろうが、大多数はプロにならない。最後まで投げて燃え尽きたいという子もいる。
「東」大会日程を長くすれば選手の負担が減るのでは
阪神との兼ね合いがあるし、地方予選にも影響する。教育的な配慮からこの期間にせざるを得ない。
「東」不祥事に対する連帯責任は?
厳しすぎると言われるが、そうしてきたからこそ人格形成は高校野球に任せてよいという社会的な認知が得られたと私は考えている。
「東」政府はスポーツ市場規模の拡大を掲げているが?
高校野球は教育の一環だ。新聞社にも口出しをさせていない。
「東」サッカーは少子化でも部員数が増えているが?
野球はサッカーと違って高校野球とプロが一線を画している。人材交流を進めていくべきだ。女子部員も増やしたい。選手としては無理だが、マネージャーやボールガールなどで組み入れたい。
高野連はスポーツ主催団体ではなくて教育機関だと思っている。だから2代続けて教育者がトップに選ばれたのだろう。
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大まかに言って、筆者もこのブログ記事を書いた執筆者に同意する。しかし、かといって、めちゃくちゃ強く同意するかといえばそうでもない。ただ、まぁ、女人禁制は相撲じゃないんだから、別にプレーしてもいいじゃんwといった軽いノリの肯定だ。本日話題になっていたリアル「もしドラ」のマネージャーなんかはほんと、グランドに立っていい。ヘルメットつけてあとは自分で危険だけど、やる!やりまっしょい!がんばっていきまっしょい!って言ったらやらせてやればいい。
俺があんまり好ましくないなぁ、と思うのは、法を見て、人を見ずなイェルサレムのアイヒマン的行動である。その場にいたら自分もきっとそのように振舞いよしこしてしまっただろうと思うから、大変残念な心持ちになってしまう。誰が悪いのでもなく、人間の保身が招いた不幸な悲劇、または事故である。
「東」過剰な投球数の問題は?
球数制限をすると追い込まれるまで打たないような戦略が生まれる。プロに行くなら投げすぎは心配だろうが、大多数はプロにならない。最後まで投げて燃え尽きたいという子もいる。
他の設問は、ほぼちょっとした違和感とおいおいw時代違いすぎるだろw明治かw昭和wか、と言うツッコミを入れたわけだが、この問だけはそうすんなりいかなかった。
むしろ、この一点だけは八田会長に同意しかねないから、自分の保守性と他者の自己犠牲的な姿を見たいとする本音が見えてしまったかたちだ。
そう、俺は、甲子園に平家物語を見ている。
夢追うもののふたちの敗れる瞬間を見るために甲子園を見ている言っても過言ではない。
甲子園の土を必死にかき集める甲子園球児たちをグイグイとカメラでバシャバシャ撮るアイヒマンたち。わかってる。あれは俺だ。カメラマンも俺であり、敗れた高校球児たちも俺なのだ。
大多数はプロにならない。最後まで投げて燃え尽きたいという子もいる。
これは悲しいけれども、真理なのだ。こればっかりは言い切りたくないけれども言切らなければならない。ここに俺の価値観が如実に現れる。やっぱり思ったことはここにとどめておきたいし、思ったことを言わないことは、今の既存のマスメディアと同じ腐ったみかんちゃんになってしまう。
人はどれだけ生きるかではなく、いかに生きるかである。たった18歳で何が決められようか?と大人たちは言う。未来を考えろ。甲子園で投げすぎるとプロで潰れる。松坂を見ろ。怪我してばっかじゃないか。
”大人たち”は未来に価値を置く。しかし、その価値がまやかしであることもある。未来は誰にもわからない。老婆心が正しいケースは往々ある。
決めるのは自分なのだ。最後は自分で自分の決定を生きる覚悟が試されているのだ。
”大人たち”はマークンをマウンドに送った星野監督を非難する。行きたいと言ったなら、行かせてやればいい。腕がもげても、肩が壊れても投げたい。今投げなければ一生後悔する。そんな覚悟があるなら投げさせてやればいい。もちろん、戦略的に勝てないから投げさせない、ってのは全然ありだ。
何度も言うが、人はどれだけ生きるかではなく、いかに生きるかである。
敦盛は、18歳で舞える。悲しいかな、舞えてしまうのだ。18歳でも16歳でも甲子園まで来るくらいの人間、檜舞台でプレーできる心臓の持ち主ならば、自分の人生のピークがどこにあるかわかる。歴史的に18際はもう自己決定権のある”おとな”である。その場、その場で瞬間、瞬間に、祭を生きることができる人間存在なのだ。
未来に価値を置く人間が陥りやすい罠が、今を犠牲にすることだ。もちろん、中学校・高校の”今”を犠牲にして大学に行けず生涯年収が下がってしまうこともあるかもしれにない。しかし、中学校で不良になって、学年で一番可愛い女の子を官女にして、輝いた一瞬はそれだけの価値があったのではないだろうか?
まして、13歳そこそこの彼女を13歳の頃に抱けるとは、どれほど贅沢な血潮溢るるクオリアか!
未来に価値を置く人間から時折見られるルサンチマンを私はひどく嫌悪する。
人の不幸は蜜の味である。
試験に落ちるのは美しい。就活で失敗するのは美しい。会社をクビになるのは美しい。タラレバ娘は美しい。
高校球児たちが燃え尽きる姿は美しい。あしたのジョーは灰にならねばならなかったのだ。辰吉も山本キッドも”今”を生きたcoolな人間だ!尊敬に値するだろう。
それと同様に、甲子園球児たちが肩を壊し、涙する姿は美しい。
クーラーの効いた部屋で、ビール片手にスイカを食べながら、見る甲子園は楽しい。
クーラーの効いた部屋で、黙祷せずに終戦にも気づかず過ごす1日のなんと平和で豊かで尊いことだろう。
特攻隊も甲子園球児も、皆同様に美しい。
また今年もサイレンが響く。火垂るの墓は今年も美しい。
越後スター・いっちー
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